第五章 探検と休息

 ――お嬢ちゃんにはもっとあちこちに使いにやらせるべきだったかもしれんな。そうすりゃ強制的に地理も頭に入る。


 店長のお供をしたときに彼に言われたその言葉は、思いのほか私の中にいつまでも響き続けた。

 深い衝撃を受けたというのではないが、言われた日の夜もベッドの上でふいに思い出して、何だか恥ずかしくなって軽くのたうち回ってしまった。


 私は自分が方向音痴であるということと、ひたすら勉強しなければならないということの二つの組み合わせに甘えすぎていた。そのことに気づかされたのだ。

 日々の時間を割いて、自ら街の隅々まで足で学習するという発想がなかった。いざ思い至ってみれば、発想がなかったことがむしろ驚きだ。


 決定的なことが起きたのは、その三日後だった。

 いつものように図書館へ勉強をしに行く途中、広場で観光客の夫婦、あるいは恋人同士とおぼしき二人に話しかけられたのだ。

「あの、すみません、この街の方ですか?」と男性のほうが私に言った。

「はい、そうですが」


 いまにして思えば、この淀みのない返事の仕方もまずかったと言える。

 これではさもこの街で生まれ育った生粋の聖地っ子という雰囲気ではないか。

 しかし私の感覚はもう既に、自分はいまやこの街の住人であるという風に固まりつつあったのだ。だから私にしては珍しく、見知らぬ人に話しかけられたにしては堂々とした受け答えになった。別にそれ自体には問題はなかったと思う。


 問題は、頭の中の地図がその自己認識にまるで追いついていないことだった。

「すみませんが、時計塔へはこの道をあっちの方向に進めばいいのでしょうか?」

 男性はそう言いながら、地図を持った手でとある方向を指した。

 私の頭は一瞬真っ白になった。

 時計塔? そういえば確かそんな名所があったっけ――何とか頭をこねくり回した。

 建てられたのは二百年ほど前で、とあるお屋敷の跡地だ。そのお屋敷は既に取り壊されていて、時計塔だけが今でも残されているのである。そのあたりの知識はあるのだが――さて、それは果たして「あっちの方向」であっただろうか。


 この街に住む者としては、その通りであるならその通りであると、違うなら正しい方向を、地図を見ることなく答えたいところだった。

 しかしわからない。

 図書館とこの広場周辺の地理はわかっているから、現在位置と方向は把握している。だから地図さえ見れば、この男性の質問に答えることができる。しかしその答え方は、住人のそれではない――少なくとも私の中の住人はそういうことはしない。


 結局私は恥を忍んで、申し訳ありませんが実はまだこの街に来たばかりで、正確な知識がなくて――でも地図を見ればわかるので、ちょっとその地図を貸していただけますかと切り出した。

 男性は特に何の感想もなく地図を渡してくれたように見えたが、内心どう考えていたかは定かではない。


 地図を見て、とりあえず時計塔の方向は確認できた。男性が指していた方向は正しかったので、その旨を伝えた。二人は私に礼を言い、そのまま時計塔を目指して道の向こうへ消えていった。


 意識しすぎと言われればその通りかもしれないが、私にはこの件が非常にこたえた。店長にあのようなことを言われていた直後だっただけに余計だ。


 それから私は休みのたびに、図書館へ向かう前に地図を片手に街を散策することにした。女主人の息子さん風に言うなら「探検」だ。

 毎回少しずつ歩く範囲を広げていき、そらで練り歩ける領域を広げていく。遅ればせながらその努力を始めたのだった。


 効果は着々と現れた。

 言い訳するわけでも自慢するわけでもないが、私は物覚えはむしろ良いほうだ。

 実際の通りや建物をしっかり地図と比べながら頭と足で一致させていけば、その成功体験を記憶することはたいした苦労ではない。

 だいたい二日に一度、それを一月ほど続ける頃には、下宿舎と店と図書館の三角形の中を行き来していただけの頃と比べて私の歩ける範囲は遥かに広がった。

 地道に続けていけば、試験の頃までには街のほとんどを自分の庭にできるのではないかと思われた。

 そうすれば堂々と、私はこの街の住人です、何でも訊いてくださいという態度がとれるというものだ。


 今日は街の入り口付近まで足を伸ばすことにした。

 街の入り口にある大きな門の側では、かつてここに来たばかりの私にそうしていたように、係の人達が来訪者に地図を配布していた。

 私は足を止め、しばらくその様子を眺めていた。

 外から入ってくる人のうち、だいたい二割くらいの人は出かけ先から戻ってきた住人なのか、地図を受け取らず目的地に向かって迷いもせず歩いていく。

 もう二割くらいは、以前にここへ来たことがある人なのか、街に入るなり既に持っている地図を広げて目的地とあたりの様子の照合を始める。

 残りの人のほとんどは初めて観光か巡礼にやって来た人か、あるいは(かつての私のように)古いものしか持たない人なのだろう、門をくぐるとまず脇にある配布所で地図を受け取っていた。


 ――既に懐かしさを感じる自分がいる。

 私が彼らの立場であったときから、かれこれ二ヶ月が経つ。

 馴染むまでにはそれなりの苦労があったが、それもすべて悪くない思い出になりつつある。

 これまでの時間があっという間だったかどうかは、以前にも述べたように一概には言えない。仕事の日と勉強の日では時間の使い方がまったく違う。

 でも最近は仕事のほうにも慣れてきて、働いている時間の感覚が勉強している時間の感覚に少しずつ近づいてきているようにも思えた。慣れる、というのはそういうことなのだろう。


 でも店長なら、そう思っているときにこそヘマをするものだ――と言うだろうな。

 それを想像して一人でくすくす笑っていると、ふいに後ろから声をかけられた。

「おや」


 私はびっくりして振り返る。見覚えのある顔がそこにあった。

「今日も迷っておられる――わけではなさそうですね」

 衛士さんは私の手にある地図と私の顔を見比べながら言った。……あのときの私はさぞ困り果てた顔をしていたのだろう。

「ええ、その」一瞬、探検、と言ってしまいそうになり、私は改めて言葉を探す。「街の地理を覚えようと思って、最近は仕事のない日に毎朝あちこち巡っているんです」

 ご存じの通り、道に迷いやすいので――と私は付け加えた。

「そうでしたか、それで地図」

「はい」


 私の地図には、あれからいろいろな情報が書き込まれた。いまやすっかり私専用の愛用道具となっている。


「いいと思いますよ。朝の散歩も兼ねていると思えば気分も晴れやかになる」

「そちらは、お仕事ですか?」

「お仕事です」と衛士さんは笑った。「朝の見回り。といっても、道順がはっきり決まっているわけでもなし、誰に見張られているわけでもなし。こちらも半分は散歩みたいなものですけどね」


 しかし、その散歩のような見回りが重要な役割を果たしているのだ。

 司法に直結した権限を持つ、訓練された者達が、朝も夜もそして真夜中もこの街を徘徊している。そのことがどれだけの荒事の抑止になっているかは計り知れない。他の多くの街ではそこまで徹底した自衛の仕組みは確立されていない。

 この街は静かな聖地であると同時に、賑やかな観光地だ。

 敬虔な信徒ばかりが闊歩しているわけではない。放っておけば、特に名所付近ではいくらでも揉め事が起きうるだろう。それゆえの自衛の発達である。


 しかし衛士さんからはそのような張りつめたものは感じられない。

 初めて会ったときも今も、のらりくらりと仕事をしているように見える。

 そういえばあの少女も、そのあたりを冗談めかして咎めていたような覚えがある。でもそのあと、お勤めはきちんと果たしているようだから――とも言っていたっけ。

 ――そうだ。あの少女のことを訊ねるいい機会ではないのか。


「あ、あの――」

「もしよろしければ」

 私の言葉は衛士さんに遮られた。衛士さんはばつが悪そうに苦笑いする。

「失礼。どうぞ」

「い――いえ、何でもありません」勢いを止められて、私はつい躊躇してしまう。「あの、どうぞ」

「そうですか。では改めて――」衛士さんは軽く咳払いすると、ことさら爽やかな笑顔を作って言った。「もしよろしければ、どこかでちょっとお茶でも飲みませんか?」

「え?」


 ◆


 私は衛士さんの案内で、近くの店に席をとった。

 運ばれてきたお茶は適度に甘く、歩き回っていた私にはちょうどいい癒しになったのだが、もちろんまったく予定外のことである。


「たまには少し息抜きしてから勉強に向かうのもいいと思いますよ」と衛士さんは妙に楽しそうに言った。

「私にとっては、たまに、というか初めてですけど――衛士さんはたまにじゃない気がします」

 私がそう言うと、衛士さんはご名答、と笑う。

「そうなんですよ。ほぼ日課といってもいいんですよね、これ」

「他の衛士さんに見つかったら、怒られませんか?」

「大丈夫ですよ。やることはやってますと胸を張って主張すればいい」


 実際、この人はこなすべきことはこなしているのだろうな、と私は想像する。そこからくる自信がこの人を一見いい加減なように見せているのではないか。軽い性格をしているように見えるが、不真面目さは感じない。


 何故私はそのように思うのだろうか。まだこの衛士さんのことをそんなに知っているわけでもないのに。

 ――答はわかっている。あの少女が信頼を置いているように見えたからだ。

 あの少女を経由して、私はこの衛士さんの人となりを信用してもよいと思うことができるのである。


 しかしそれもよく考えれば変な話なのだ。私はあの少女のことだってそんなに知っているわけではないのだから。


 結局のところ、話はあの少女がもたらす不思議な印象に行き着く。

 あの感じはどこから来るものなのだろう。

 初めてあの金色の瞳で見つめられたときから、私は何か彼女の中に特別なものを見出していた。でもそれが何なのかはわからない。ただ単に瞳の珍しさに引き込まれただけ――ではないと考えたいところだが。


 ――それはそうと。

 考えてみれば、父以外の男の人と二人きりでお茶を飲むなどというのは、私の人生で初めての経験である。

 巷で人気の恋愛小説も、いくつか読んでみたことがある。

 そこに登場する男女はいくぶん過剰といえるほど感性豊かで、ちょっとした出会いにも全身全霊でときめいていた。

 私はそれを読みながら、なるほど男女の出会いはこんなにも劇的であり得るのか、と話半分に感心したものだった。


 しかしいざこういう状況になると、あれらがいかに創作物であったかがよくわかる。

 衛士さんは客観的に見て美男子の範囲に属するのではないかと思う。仕事も立派なものだ。おまけに優しげでもある。

 しかし、だからどうだというのはまったくない。ここから伸びるものがあるようにはまったく思えない。

 こんなものなのかもしれない。あるいは私の感性に問題があるのか。さもなくばこういうことを考える感性のほうに問題があるのか。


「順調ですか?」と差し向かいに座っている衛士さんが言った。「いろいろと」

「ええまぁ。体調を崩したことも、揉め事が起きたこともいまのところありません」

「それは何より」

「試験に関しては、あとは自分自身の問題です」と私は言った。「一応、立てた予定の通りにこなしているのですが……それをどれくらい忘れてしまうかというのは事前にはわかりません。当日に覚えたことの八割でも記憶に留めることができているのなら勝負になると思いますが、そうなっているかどうかは当日になってみないとわからないです」


 はー、と感心したように衛士さんは声を上げる。

「大変な世界だなぁ。よく目指す気になれましたね」

「――いろいろありまして」

「俺も本を読まないわけじゃないんだけど、勉強するための読み方を一日中とか、何ヶ月何年とか、続けるのは自信ないものなぁ。それでこういう仕事してるわけですが」

「私は――逆に、あなたのようなお仕事はまったく務まらない人間なので、そういうことのできる人を尊敬してます」

「おっ、それは嬉しいですね」と言って衛士さんはお茶を一口飲んだ。「正直、衛士にでもなってみようか程度の気持ちで選んだ仕事なんですが、そういう風に思ってもらえるなら役得ってやつです」

「……本当に、それだけなんですか?」

「ん?」

「いえ、衛士さんになるのはそう簡単なことではないと聞いているので……何かきっかけのようなものがあったのかなと」


 そう。衛士さんはこう言うが、もちろん衛士という職に就くのも簡単なことではない。

 初めて会ったとき、他ならぬ衛士さん自身が、衛士を目指して挫折した人間を知っていると言っていた。

 そして、なってからの日々の訓練だって生やさしいものではない。決してただ何となくで選ぶような職業ではないはずなのだ。


「……うーん」衛士さんは困ったように額に手を当てた。「まぁ俺の場合、子供の頃から格闘術とか剣術とか習ってまして、それを有効に活かすならこの仕事かなぁと思ったというのはあります。自分だけ近道を行けるような感じがしたんですね、要は」

「近道ですか」

「そう。変な言い方になるけど、ある程度なるのが難しいからこそ、その難しいところを成り行きで積み上げてきた自分には有利だと思ったわけです。わかりますかね?」

「わかる――気がします」

「あとはまぁ、きっかけ――あるといえばあるんですが、ちょっと間接的かも」


 私は黙って衛士さんの次の言葉を待った。それが無言の圧力のように感じられたのか、衛士さんは私の目を見て、参ったというような表情を作った。


「小さい頃ね、ちょっと死にかけたんですよ」

「ちょっと死にかけた」私は思わず繰り返した。

「そう。細かい話は省かせてもらいますが、そのときにとある方に助けられまして――まぁ助けられなかったらいまここにいないから当然なんですが。それで、何て言うのかな、助ける仕事というのはいいもんだ、みたいなのが刷り込まれたところはありますね。で、自分にできる助ける仕事といったら、衛士かなと」

「その助けた方というのは……」

「まだこの街にいますよ。いまもいろいろとお世話になってます。恩返しに多少のお世話もしてます」


 ――それは。

「もしかして、それは――あの女の子と、何か関係があるんですか?」

「女の子?」

「あの、初めてお会いしたときにいた、金色の瞳をした女の子――です」

 衛士さんはちょっと意外そうに目を丸くした。

「……あの子に、会ったんですか? あれから」

「会いました。二度ほど」


 一度目はあの一緒に昼食を摂ったとき。

 そのあともう一度、店に向かう途中の道で出会った。

 一度目の時点で既にあの少女への興味は膨らんでいたから、二度目に会ったときにどれほどあれこれ訊ねてみたかったかわからない。

 でも何も訊けなかった。当然である。何の話の流れもないのに「ところであなたは何者ですか」とは訊けない。ましてや本人に。


「そうかー、会いましたか」

 どの部分に感心しているのか、衛士さんは独り言のようにそう言った。

「あの……?」

「ああ、いや失礼。ご質問の答ですけどね――まぁ、関係あります」

「それは、どういう……」

「うーん」衛士さんは腕を組んだ。「いや別に、秘密にしなきゃいけないというようなことじゃないんですけどね。実際、俺しか知らないとかそういう話じゃないし。でもちょっと事情があって、俺が勝手に言っていいものかわからないんで、いずれわかるときが来るでしょう、という答では――納得いただけませんか?」

「いずれ、ですか」

「特にお嬢さんの場合、そういう事情の中にいそうで」


 よく意味がわからなかった。一つだけわかるのは、この質問が少なからず衛士さんを困らせているということだ。

「……いずれわかるのでしょうか?」と私は折り返し訊ねた。

「恐らく」

「わかりました」と私は言った。「納得します」

「ありがとうございます」


 衛士さんは表情を崩し、残っていたお茶を一気に飲み干した。私も自分のそれに口をつける。適度に甘い。

「なんか、凄くもったいつける形になっちゃったな」と衛士さんが言った。「そんな大層なことではないんですけどね……なんかすいません」

「いえ」

「いずれわかります」と衛士さんは繰り返した。「たぶんそういうことになっている。お嬢さんならやれる」


 それはとても意味深な言葉だったが、私は訊ねることはしなかった。

 いずれわかるのなら無理には訊くまい。向こうからそれがやって来るまで、ただ歩き続ければいいのだ。

 止まらなければ、辿り着ける。

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