第四章 物語を紡ぎ、伝える仕事
その日の先輩は朝から上機嫌だった。
前日に歌劇場でお気に入りの演目を観劇してきたらしい。その感動が一夜明けてもまったく冷めやらぬようで、朝から顔が合うたびに私にその話をしてくるのだった。
「いやー、自慢じゃないけど貧乏なわけでね、そうそう観に行ける立場じゃないんだけど、劇はもう昔っから好きも好き、大好きなのよ私」
休憩室の本棚にはたきをかけながら先輩は言った。
「そうなんですか。子供の頃に連れて行ってもらって、それ以来――みたいな話ですか?」
「その通り。初めて行ったのは十歳くらいの頃かなぁ。両親に連れられてねー。普通の大人向けの劇だったから、あの人達からしてみれば劇を見たいのは自分達であって、私のことはオマケで連れて行っただけなんだろうけど。だからまぁ、いまにして思えば劇の内容をどれくらい理解できてたもんだかわからない。でも、子供なりにものすごい衝撃だったわけね」
「良い思い出ですね」
「んー、まぁそれからずいぶん経ってから同じものを観たら、正直あんまり――だったんで、そのあたりは微妙な気持ちなんだけどね」
劇を観た経験はないが、本に置き換えればそのようなことは理解できる。子供が見ている世界は大人のそれとは違うし、まだ未熟ゆえに大人が大人のために紡ぎ上げたものをまったく違う風に受け止めることもある。
でもそれを、大人の受け取り方が正しくて子供の受け取り方が間違っていると単純に分けてしまうことのできない部分も存在すると私は思う。
私が読んできた本の中にも、最初に一度読んで面白いと思い、それからしばらく経って読み返したらさほど魅力を感じなかったというものがある。
それらの本を今の私は評価しない。けれどもそれが必ずしも、最初に受け取った感銘が嘘やまやかしであったことにはならないのだ。
「でもまぁとにかく、それ以来劇に嵌りこんじゃって」本棚の掃除を終えて橋の絵を収めた額縁に移りながら先輩は言った。「それから働き始めるまで、誕生日のプレゼントは全部歌劇場。それ以外のちょっとしたお出かけの機会も、結構な割合で歌劇場」
「長続きしましたね」机を水拭きしながら私は言う。
「だねー。最初は親もすぐ飽きると思ってたみたいだけど、私は飽きなかったねー。でも私が物事に飽きない性格かというとそうでもなくて、飽きるものはすぐ飽きた。子供が何に飽きたり飽きなかったりするかって、親でもまったく読めないみたいだね。まぁそりゃそうか、自分でもわからないんだからね」
先輩は笑い、一通りはたきをかけた額縁の端々を覗き込むように確かめて、よし、と小さく言った。
「とにかく、昨日のは当たりだったよ。大当たり」
「そういえば演目を聞いてませんでしたけど、何をやったんですか?」
「んー? 『銀の騒乱と金の融和』」
「ああ、それなら――っしょっと」言いながら私は雑巾を絞る。「小説のほうを読んだことならあります」
「あ、そうなんだ。話の中身はだいたい同じかな。男が民衆たぶらかして、王女様があれこれ奔走するやつね」
「同じですね。たぶん小説のほうが描写が長いでしょうけど、そういう話でした」
物語はある王国を舞台としている。
邪悪なるものに魅入られた銀の瞳を持った男が、城下町で人々の信仰心と忠誠心に巧みに揺さぶりをかけ、内乱へと追い立てようとするのを、金の瞳を持った王女が単身様々な悪戦苦闘を重ねて鎮めるというあらすじだ。
最後は銀の瞳の男と金の瞳の王女の一騎打ちで、銀の瞳の男が倒されて終わる。
「王女様がかっこいいんだよねー」と先輩が言う。「王家と民衆の間で板挟みになってさ、それでも知恵と勇気でその両方を命懸けで説き伏せて、和解に持っていくのがさ、働く女としてはたまらんのですわー」
この物語に限らず、我々の教義に絡んだ創作物には時折、金の瞳と銀の瞳がモチーフとして使われる。
主に金の瞳は何かを守ろうとする側、銀の瞳はそれを壊そうとする側の象徴として描かれる。
教典には特にそのようなくだりは存在しない。あくまでも創作の世界に流れている長年の風潮だ。
最初にそのモチーフを使ったのはずいぶん昔の絵画だったと思う。それが音楽や小説や劇など、他の様々な分野にも浸透していった形だ。
だから私は、金の瞳というのは寓話の中のものにすぎないとずっと思ってきたのだ――この街に来るまでは。
「……先輩」
「んー?」
「先輩は、金色の瞳をした人を実際に見たことがありますか?」
「実際に」と先輩は繰り返した。「金色の瞳した人なんているのかな。医学とかそういうの全然わからないけど」
「そうですか……」
「キミは見たことがあるとか?」
「はい」
「え、それは本当に?」と先輩は驚いて聞き返した。当然ないと答えると思っていたようだ。
「知り合い――というか、まだ二度しか話したことがないんですけど、十歳ちょっとくらいの女の子で、瞳が綺麗な金色をしているんです。そういう人がいるというのを知らなかったものだから、最初は不思議な感じがしました」
「女の子」
先輩は繰り返す。それから少しの間があって唐突にああっと声を上げた。
「あるかも、金色。女の子」
「やっぱり女の子ですか」
「うん。あのね、だいぶ前に店長と話してたみたい。キミがここに来るちょっと前かな」
「みたい、というのは……」
「店長の部屋から出てきたんだよ。衛士の人を連れて」先輩は腕を組んで、記憶の糸を何とか探ろうとしている。「でね、ちょっと目が合って、あっちが軽く挨拶してきたから、私も挨拶を返したんだけど……あ、案内は別の人がやってたのね」
「はぁ」
「で、そのときに何となく、あれ、金色? みたいに思った。うん、思った。光の加減かな、くらいに思ってすぐ頭から離れちゃったけど」
「たぶん――」と私は言った。「同じ子のことを言っていると思います。私が最初に会ったときも、衛士さんを連れていました」
「あー、じゃあそうかもねー」先輩は感心したように言う。「じゃあ、実際にいるんだねー。なんかいいねー金色。王女様だよ」
王女様。
文字通りの王女様ではないとしても、何かしら高い身分の家の娘なのではないかというのは、最初に会ったときに私も想像したことである。
あの教養と佇まいが幼い頃からの環境と教育の賜物だと考えるのは自然なことだろう。
しかし私には何かが引っかかるのである。それが何なのか、うまく説明することができないのがもどかしい。
「店長なら知ってるんだろうね、その子がどこの誰なのか。キミ、興味があるなら訊いてみればいいんじゃない? ……あー、でも店長、そういう情報の管理にはうるさいからなぁ、下手すると詮索すること自体を叱られる可能性もあるね」
「それは――どうしましょう」
「そうだねえ、よっぽど店長の機嫌の良いときでも見計らって――といっても店長の機嫌って見てもよくわからないから――」
そこまで言ったところで、私のほうに向けていた先輩の表情が唐突に引き締まった。
「あ、て、店長!」
「え?」
一瞬何が何だかわからないまま、私は振り返る。扉が開かれたままの部屋の入り口に、いつも通りの気難しそうな顔で店長が立っていた。
「すみません、ちょっと話し込んでしまいました」と鏡に差し込んだ光が反射するような勢いで先輩は謝罪する。「でもここの掃除はもう終わります。次の仕事に向かいます」
「うむ」
店長はそれだけを短く言った。特にお喋りを咎めるつもりもなければ、話の内容を聞いていたわけでもないらしい。
私の後ろで先輩があからさまに安堵の息を吐く音が聞こえた。先輩は少なくとも私よりは嘘をつくのが上手ではなさそうだ。
「――お嬢ちゃん」と店長は私を見て言った。
「はい」
「これから出かける。供をしてくれんか」
「お供ですか?」意外な話を持ちかけられて、私は少し動揺する。「あの、私は問題ありませんが、お店の仕事は……」
「悪いが、少しの間お嬢ちゃんの分も動いてくれ」と店長は先輩に言った。
「はい、わかりました」先輩は即答する。
「じゃあお嬢ちゃん、付いてきなさい。そのままの格好でいい」
そう言うと店長は時間を惜しむようにさっさと廊下の向こうに歩き始めてしまう。
私は先輩のほうを振り返った。先輩は少し苦笑しながら、私に向かって小さく手を振った。いってらっしゃいということだ。
私はうなずくと、見えなくなった店長のあとを追いかけて休憩室を出た。
◆
店長は給仕の人から紙の袋に入った荷物を受け取ると、それを私に持つよう命じた。なかなかずっしりしている。
「先方への手土産だ。非力だからって落とさんようにな」
そして店長と私は店を出て、街を歩き出した。
店長の歩みはすぐに私にとって未踏の領域に入っていき、さっそく私は一人ではまっすぐ帰れない状況に陥ってしまった。
見知らぬ建物が並んだ見知らぬ道を、私は店長の後ろについて歩き続けた。
できる限り道を覚えておこうとしたが、それが自分にとって無駄な努力であることは経験上よくわかっている。概ね覚えることができたとしても、どこかで必ず一つ二つ曲がる道を間違え、結果とんでもないところまで行ってしまうのだ。
「どうかしたか?」
店長がふいに私に尋ねた。私の落ち着かない様子を背中で察したのだろうか。
「いえ、その、道に迷いやすい人間なものですから、できるだけ通ったところを覚えておこうと」
「お嬢ちゃんはうちに来て、どれくらいになるかな」
「……一ヶ月と少しです」
「ふむ」と店長は言い、ぽりぽりと頭を掻いた。「お嬢ちゃんにはもっとあちこちに使いにやらせるべきだったかもしれんな。そうすりゃ強制的に地理も頭に入る」
「申し訳ありません。率先して覚えるべきでした」
「別に叱っとるわけじゃない」
それだけ言うと、店長はまた黙って歩き続ける。次に口を開いたのは、三つか四つほど道を曲がったあとのことだった。
「――わけあって思念士志望者の受け入れをしばらく止めていた、と以前言ったろう」
「え――はい。お聞きしました」
「何故かわかるかね?」
私は少しのあいだ考える。「……いえ。何故でしょうか?」
「ある時期からな、あまりにも合格者が出なくなったのだよ。うちに働きに来た志望者が、入ってきた端から次々と断念して去っていった」
私は黙って耳を傾ける。
「もちろん諦める奴が多い試験なのはわかっていることで、それ自体は問題ない。私が気にしたのは――十年」店長はその数字を強調した。「実に十年ものあいだ、うちの働き手で合格する者がまったくいない時期が続いたことだ。先代からの歴史ある活動だが、そこまで実りがないと、さすがにいろいろな考えが浮かんでくる。何か流れのようなものが変わって、うちはすっかり縁起の悪い受け入れ先になったのではないのか、とかな」
「十年……」
私は独り言のように呟いた。もちろん店長の十年と、小娘の私の十年では同じ長さでも意味が違うかもしれない。しかしそれは決して短い時間ではないだろう。
「それでしばらく受け入れを中断していたのだよ」と店長は言った。「それが二年ほど前のことになる。だがね、ある人物に説得されて、また始めることにした」
「説得ですか」
「ああ。同じように志望者を積極的に受け入れていた工場の持ち主が変わってな、受け入れをやめることにしたらしかった。志望者の働き方は特殊だからな、たとえば全員にガンガン働かせたい奴には受け入れられない。それで私のところに話が来たわけだ」
「その――迷われたのでは」
「多少な。また十年も人生を無駄に過ごす若者を作り出すだけなのではなかろうかとか、考えたよ。だが結局再開することにした。まぁ、上手く言いくるめられた形だ」
店長はそう言うと、足を止めて私のほうを振り返った。
「――それでお嬢ちゃんが来た」
店長が何を言いたいのか、わかる気がした。
たぶん店長は私にケリをつけて欲しいのだ。もう十年以上も自分の店に巣食っている「流れのようなもの」に。
でもそれは店長自身の願望にすぎないから、自分のことで手一杯の私の両肩に安易に乗せることはできない。だからこういう言い方になるのだろう。
「今から向かうのは、とある思念士のところだ」店長は再び歩き出す。「うちで働いていた中で最後に合格した奴だ。つまりその道十二年ということか。まぁ、中堅どころに差し掛かったくらいだな」
「何か、お仕事がらみですか?」
「いや、先日店に食事に来たとき、子供が産まれたから一度見に来てくれと言っていてな。今日は予定が何も無いというから、出向いてやることにしたんだ」
私の中の緊張が部分的に解けていく。てっきり重要な契約か何かがあって、これから取引先の前でしばらく張りつめていなければならないものと覚悟していたのだ。
「で、誰を一緒に連れて行こうかと考えたんだがな。お嬢ちゃんが適任じゃないかという結論に至った。……嫌だったかね?」
「い、いえ、そんなことはありません」と私は慌てて答える。
「お嬢ちゃんからすれば二重の意味で先輩ということになる――お嬢ちゃんが合格すればの話だがな。顔を合わせておいて損は無かろう」
店長はそう言って間もなく、一軒の家の前で足を止めた。
「ここだ」
私は店長の隣でその家を見上げる。
想像していたよりずっとこじんまりとしたところだった。決して豪邸を思い浮かべていたわけではないが、すぐ両隣に家が並ぶごく普通の民家で、通りの街並みに完全に馴染んで目立たない。
「意外、という顔をしているな」と店長は私を見て言った。
「いえ、その」どう表現すべきなのか迷って、言葉がうまく出てこない。
「こいつの場合、特に贅沢がしたいといった願望は無いようだ。それなりには稼いでいるはずなんだが、暮らし向きは昔から変わらん」
「あの……具体的にはどんなお仕事をなさっている方なのですか?」
「実のところ本業は思念士とは関係ない」と店長は言い、ノックに手をかけた。「作家だよ」
「作家?」
しばらくすると扉が開かれ、一人の女性が中から出てきた。店長の顔を見るなり、ようこそいらっしゃいましたと深々と挨拶をする。
「おはよう。旦那は――例によって書斎かい?」
「ええ、昨夜一仕事終えたばかりと言っていたんですが、もう何か調べ物をしていまして」
「相変わらずだな。ああそうだ、土産を持ってきた」
店長は私の胸元にすっと手を差し伸べた。私は大事に運んできた紙の袋をそそくさとその手に渡す。
「ま、食ってくれ。結構上等なものが入ったんで、お裾分けだ」
「まぁ、わざわざありがとうございます」
「こっちはうちの新入り」
店長が私のほうを見て短く言った。私は少し慌てて、はじめましてと挨拶をする。
「久しぶりの思念士志望者だ」
女性は楽しそうに、まぁそうなのですかと言って私に微笑む。
「じゃあ主人の後輩ということになるわね。ようこそ、お嬢さん。さぁ、お二人とも中に入って下さいな」
女性に招き入れられて、店長と私は家に入る。
居間に通され、勧められるままに椅子に座って出されたお茶に軽く口をつけていると、この家の主人がいそいそとやって来た。
「ようこそいらっしゃいました店長。いえ、当初は普通にお待ちしているつもりだったのですが、ちょっと調べたいことが出てきまして、それに入り込んでしまいまして」
「お前らしいよ」と店長は言い、隣に座る私に手をかざした。「先程奥さんにも紹介したがね。こっちはうちの新入りで、思念士志望者だ」
私はもう一度挨拶をする。主人は丁寧に挨拶を返してくれ、それから店長に向き直った。
「また再開したわけですか」
「成り行きでな」
「こちらのお嬢さんはご存じで――?」
「さっき話したよ」
「さっき」と主人は言い、小さく苦笑した。「店長らしいですね――そんなわけでお嬢さん、僕も受験生時代、あの店で働いていたんですよ」
「はい、お聞きしました。十……二年前に合格されたとか」
「そのくらいになるかな」と他人事のように主人は言う。「僕の場合は五度目の試験で受かったんで、五年以上あの店で働いていたんだけど、最後のほうは完全に店と一体化していてね、諦めてこっちの道に入ろうかと何度か思ったよ」
「よく言うわ。お前の勉強が長引いたのは書き癖のせいだし、諦めて進もうと思ったのもそっちの道だろう」と店長が口を挟む。「こいつはな、お嬢ちゃん。受験勉強中にも何かしらちまちまと物語を書いていた奴なのだよ。自分は物語を書いていないと死んでしまう体質だとか何とか抜かしおってな。それで試験に合格したと思ったら、しばらくして職業作家になりおった。しかもそれなりに売れておる」
「その辺りは、運良くという感じです」
「ふん。つくづく紙一重の生き方をしてきたな。一歩間違ったらお前は何者にもなりきれないままだったぞ」
「でもお陰様で、後悔というものはしたことがありません」主人は笑う。「ありがたいことだと思います」
「当たり前だ」
店長は切り捨てるように言ってお茶を口に運んだ。それを見て、主人は妙に嬉しそうにしている。ああ、こういう間柄なんだな、というのが伝わってくる光景だった。
「良い機会だ、お嬢ちゃん」と店長は私に言った。「何でも訊いてやれ」
「え?」
唐突に言われて、私は少々間の抜けた声を出してしまった。主人が軽く微笑んで、何でもどうぞ、と言ってくれる。少し考えてから私は切り出した。
「あの――思念士のほうのお仕事は、どんな……?」
「ああ、もちろんそっちの仕事もしているよ――ただ、身も蓋もない話、そっちは安定した収入にはなっていないんだけどね」
「それは作家も似たようなものじゃないのか?」店長が言う。
「まぁそれはそうですが、僕の場合は作家稼業のほうが安定していて、思念士の仕事のほうが不安定でして」
「ふん」
「僕は、目の見えない人や耳の聞こえない人を、映像や音に触れさせてあげる仕事をしているんだ」
「映像や音……ですか」
「うん。いまの僕の立場でまず出てくる例といったら、歌劇場での鑑賞だね。世の中には目が見えなくなったり耳が聞こえなくなったりして、劇や音楽を楽しむことができなくなってしまった人がいる。そういう人に力を使って、内容をすべて伝えてあげる仕事だよ。あと、自分の子供の姿や声を見聞きできなくなってしまった人に、それを伝えてあげる、なんて依頼もあるね」
それは――素敵な仕事だ。
「僕の場合、自分の見聞きしたものをきめ細かく相手に伝達する能力が高い、と試験のときに言われてね」と主人は続ける。「それを活かした仕事はどんなものだろうとあれこれ考えた。その結果、大事なものを見聞きできない事情のある人の代わりにそれを見聞きして、それをそのまま伝えてあげるというのに適任だと思ったわけ」
「素晴らしいお仕事だと思います」
「まぁ、美談ばかりが並ぶわけでもないけどね。仕事してると」主人は笑う。「たとえば劇を鑑賞するでしょう? 依頼者は自分の料金と僕のぶんの料金を払う。それとは別に僕は報酬を受け取る予定でいるわけなんだけど、劇が終わってから、お前は俺の金で劇を楽しんだんだからそれでいいじゃないか、とゴネられたり――」
「そんなことがあるんですか?」私は驚いて言う。
「阿呆はどこにでもいるさ」店長が低く言う。
「気持ちはわからないでもないんですけどね。……あと、とあるお金持ちの老人が息子さん夫婦とお孫さんを連れてこの街に来たことがあってね。その老人は視力をほとんど失っていた。それで依頼があって、街に滞在する数日間ずっとその人について回って、目の代わりを務めたんだ。その仕事は上手くいったし、報酬もかなり気前よかったんだけど、そうしたらその老人、財産の二割をあんたに遺すから自分の余生を一緒に過ごしてくれないか、と言い出してね――こっちは結婚して間もなかったし、丁重にお断りしたよ」
「それは……少し悲しいお話ですね」
「そうかね。金を積めば人をどこまでも眼鏡代わりに使い倒せると思った金持ちの傲慢ともとれるぞ」
「僕個人としては、この件についてはお嬢さん寄りかなぁ」苦笑しながら主人は言った。「お孫さんの姿が見られて本当に嬉しそうでしたし、子供のできたいまは余計にそこを理解できる気がします」
「私にだって孫がいる」店長は遮るように言った。「しかしそれは別の問題だな。歳をとって成熟するどころか逆に自分に甘くなる奴は、金持ちに貧乏人にも、健常者にもそうでない者にもいる」
「厳しいですねえ――他に質問はあるかな、お嬢さん?」
「あ――ええと、いえ、特にはもう……」
「もらった機会を最大限に活用できない奴は人生拓けんぞ」
店長が少し呆れたように言う。私はつい小声ですみませんと謝ってしまった。
「まぁいい――じゃあ本番だ。こっちはお前の子供を見るという名目で来たんだ。そろそろ一目会わせてくれてもいいだろう」
ああ、そうでしたねと主人は思い出したように言い、失礼と言い残して奥の部屋へ向かった。
「どんな仕事にも、困った客というのはいるもんだ」と店長は私に言った。「お嬢ちゃんも、何者になるにしろそこは肝に銘じておくことだな。それをどう綺麗にあしらえるかが、その後の分かれ目になることもある」
「はい」
「日頃からできる限りの想定をし、準備をしておくことだ。それでもなお、想定や準備を越えた物事は起こる。そのときに問われるものは、恐らく試験には出てこないだろうよ」
「……そうですね」
少しして、主人が奥さんを連れて居間に戻ってきた。奥さんは小さな赤ちゃんを抱いている。主人が先導して、奥さんをゆっくりと椅子に座らせた。
「娘です。我が家の宝物です」と主人が言った。
店長が立ち上がり、奥さんの座っているほうに回り込んで赤ちゃんを覗き込む。私もそれに続く。赤ちゃんはまだ人の気配に興味を持てないのか、どこでもない場所を悠然と眺め続けている。
「……ふむ」と店長は言った。それから言葉を探すように少しの時間が空いた。「奥さんの血が濃くてよかったな」
「お陰様で、両方の良いところを受け継いだようです」と主人は笑う。
「お前の血がどこにどう出るものか、気が気でないよ。せいぜいまっとうに育ててやれ。お前の変な影響を与えるなよ」
重々承知していますと主人は言った。
考えてみれば、赤ちゃんを間近でまじまじと見るのは私にとってこれが初めてのことだった。
私は一人っ子だし、近所で産まれた子の世話をするといったような経験をしたこともない。それなりに育った人間しか視界に入れずに今日まで暮らしてきた。
じっと眺めているうちに、何だか不思議な気持ちがしてきた。
こんなに小さくて無力な生き物が、ちゃんと人の形をして動いている。これがあっという間に自分で歩き、言葉を話し、物を学び働くようになるのか。
可愛らしいとか癒されるといったことより、私にはそんな将来像とたったいまとの差のようなものが興味深く感じられた。
そんな私の視線をどう感じたものか、ふいに奥さんが私を見て言った。
「抱っこしてみる?」
「え?」突然の提案に、私はたじろぐ。「で、でも赤ちゃんを抱いたことが無くて、その」
「大丈夫よ。私だってこの間までろくにやったことなかったんだから」
そう言いながら、奥さんは私に自分の宝物を預けようとする。私は断る隙を与えられないまま、慣れない手を伸ばしてそれを受け取る姿勢になる。
「首をしっかり支えてね。……そう……そう、そんな感じ」
奥さんの指導のもと、私は赤ちゃんを抱く。人様の命が自分の手に預けられていると思うと正直肝が冷えるが、それに反して赤ちゃんはとても柔らかく、温かかった。
「どう?」
「……柔らかくて、温かいです」私はそのままを口にした。
私の戸惑う様子に、奥さんはくすくす笑っている。ほんの少し前の自分を見ている気分なのだろう。
考えてみれば、この中で赤ちゃんを抱いたことがなかったのは恐らく私だけだ。店長だってきっと慣れたもののはずなのである。
赤ちゃんを抱く店長の姿を私はなんとか想像してみる。それはなんだかとても奇妙な光景に思えたが、人の歴史はそうやって紡がれてきたのだ。恐らく。
赤ちゃんと目が合った。
見知らぬ人間に抱きかかえられて怖がるのではないかと心配したが、赤ちゃんは泣き出すこともなくただじっと私のことを見つめていた。
私はほっと安堵し、奥さんに赤ちゃんを返す仕草を作った。
「あの、ありがとうございました」
「あら、もういいの?」奥さんがからかうように言う。
「その――何だかおっかなくて」
奥さんと主人が同時に笑う。それから奥さんは私から赤ちゃんを受け取ると、愛おしそうにその小さな体をぽんぽんと叩いた。
「この子がどんな道を歩いていくかはわかりませんけど――」と奥さんは言う。「とにかく健康で、いつも笑っていられる子に育てますわ」
「奥さんならやれるよ」と店長は言い、面倒臭そうに主人のほうを見た。「あとはこいつ次第だ」
精進します、と主人は言い、赤ちゃんの頭を優しく撫でた。
◆
それからしばらくとりとめのない雑談があり、一家と別れて店に戻ってきたのはちょうどお昼の一番忙しい時間が始まったばかりというあたりだった。
「頃合いだったな」と入り口の扉に手をかけながら店長は言った。「じゃあお嬢ちゃん、ここからは切り替えて動いてくれよ」
「わかりました」
私は返事をし、それとほぼ同時に厨房へと向かった。この時間帯の私の仕事はだいたい食器洗いと決まっている。
案の定、先輩が一人で目まぐるしく大量の食器と格闘していた。
「あー、いいところでおかえりー」先輩は私の姿を見つけると、少し泣きそうな声を作って言った。「早く入って入ってー」
私は早速そこに加わる。
食堂のほうから次々と運ばれてくる食器を、丁寧にかつ最大の速度で洗い、拭く。それらはやがて料理人の人達の手元を経由して再び食堂へと運ばれていく。そのあいだにも別の食器が運ばれてくる。同じように洗い、拭く。その繰り返し。場合によっては途中で先輩が食材の下ごしらえの追加に回る。そうしたら私一人でここを切り盛りすることになる。この一ヶ月やってきたことだ。
「で、どんな用件だったわけ?」と先輩が手を止めずに訊いてきた。
私も動きを緩めないよう注意を払いながら、だいたいの経緯を説明する。先輩は作家というところに興味を持ったようだった。
「作家って、本を出すほうかな。劇作家もやってたりするのかな?」
「どうでしょう……いま考えるとその辺りをいろいろ訊きたかった気がしますが、そのときはうまく思いつきませんでした」
「お名前は?」
「確か――」
私は自己紹介されたときに聞いた名前を思い出して口にする。
先輩はきょとんとして、ぽつりと一言もらした。
「作者じゃん」
「え?」
「例の。『銀の騒乱と金の融和』」
「――え?」
私と先輩は思わず手を止め、顔を見合わせてしまう。
「……キミ、作者の名前とかあまり気にしないで本を読む人?」
「いえ……そうでもないと思います――思ってましたが」
結びつかなかった。実際に作家という人種に会ったことがなくて、目の前の人物と本をそういう風に関連づける感覚が育っていなかったせいだろうか。いや、単に迂闊であっただけかもしれない。
しかしいずれにせよ、そうか、私はもうあの人の作品を読んでいたのか。
劇のほうについて何か先輩に尋ねようとしたちょうどそのとき、料理人の一人が先輩に下ごしらえの追加を命じてきた。
先輩ははい、とことさらに切れの良い返事をすると、じゃあここはよろしくね、と言い残して場所を移す。その直後にまた何枚もの皿が脇に積み重ねられた。
私は無言でそれを手に取り、洗い続けた。
――あの人も五年間、こんな感じで働いていたんだなぁ、ここで。
そんなことを考えながら。
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