第三章 図書館
あれから半月が過ぎた。
この間の時間の流れを速かったと言うべきかゆっくりだったと言うべきか、自分でもよくわからない。
鉄砲水のように時間があっという間に過ぎていったようにも感じるし、一つ一つの出来事を思い返してみるなら、早く過ぎ去って欲しいのにまるで時間がどんと居座って頑なに動かないように感じる場面もたくさんあった。
そのように両極端の感覚を持つのは、実際に生活が静と動で両極端だったからだ。
仕事のある日は動だ。呑気に座っている時間などほとんど無く動き回っている。
物の置き場所や手順を体を動かしてひたすら身につけ、ふいに頼まれる小さな用事を可及的速やかにこなし、山と積まれた芋や人参の皮を頭をからっぽにして片っ端から剥いていき、昼と夜のかき入れ時には給仕の人達に加わってテーブルの掃除をした。
今までの人生でこなしてきたすべてを合わせたより多くの枚数の皿をすでに洗った。
一方で仕事のない日は静の極みともいうべき一日を過ごす。
朝食を摂ってからゆっくり身支度をし、軽い昼食の用意をして図書館へ行く。あとは夕食時まで、静寂に包まれた空間でひたすら勉強をしている。
勉強のあいだ、周囲の空気は振動することを忘れたかのようにほとんど動かない。変化があるのは開いているページの内容と、それを繰るためにわずかに動く自分の手だけだ。
この二つの「一日」がほぼ交互に繰り返されるのだ。
人によってどちらの時間の流れを速く感じるかは異なるのだろう。
私の場合は――当然ながらと言うべきか――後者のような過ごし方に慣れきっていて、こちらのほうが時間の流れが速いと感じる。
逆に仕事場の時間は概ねなかなか進まない。まるで何者かが私をいじめるために時計の針をところどころで戻しているかのようだ。
もちろんつらいことばかりではなく、しばしば先輩が私を気遣っていろいろと話しかけてくれる一時が嬉しかったりもするわけだが、それでも全体としてはやはり、あの仕事場の時間は真綿で首を絞められるようにじわじわとゆっくりだ。
ただそれでも、多少は慣れてきた自分がいる。
少なくとも、仕事初日に味わったあのどすんという疲労感は、昨日の仕事終わりには感じなかった。それだけでも成長していると言えるだろう。
慣れればやがてもっとすいすいと時間を泳ぐように過ごせるようになるのかもしれない。そう自分自身に期待している。
◆
今日と明日は仕事が休みなので、この街へ来て初めて、二日連続で勉強漬けの日を送ることになった。今日はその初日だ。
図書館を勉強の拠点にするというのは、街へ来る前から決めていた過ごし方だ。
それをあてにしていたから、本を買う算段というものはまったくしてこなかった。
故郷から持ってきた本は基本中の基本書であり、それを使って勉強するというよりはお守り代わり、あるいは最低限の部屋の佇まいを作るという意味で選んだものである。
もし必要な本をすべて自費で買わなければならないとしたら、今の私の実入りではそれらが十分に揃うまでに最初の試験日が来てしまう。
試験範囲が広いということもあって、必要な本は多岐に渡るのだ。
だから思念士志望者の多くは、他の何者かの蔵書の力を借りることになる。街の図書館を利用したり、あるいは名士の書生となって蔵書を使わせて貰うという人もいるようだ。
思念士志望者の勉強の拠点という意味では、この街の図書館ほど適切な場所は無い。何と言っても聖地であり、そして館内の蔵書の数も席の数も申し分ない。
初めてこの図書館に入ったとき、私は目立たないよう気をつけながら他の利用者達の様子を窺った。
皆一様にしんと静まりかえって本を読んだり探したりしているという以外には、これといった法則性のようなものは見られなかった。でもこの中には間違いなく私の他にも思念士志望者はいる。
それを考えると、焦りのような、あるいは――私にもそんな感情があるのだろうかと自分でも疑問だが――闘争心のようなものが湧いてくるのを感じた。こうしてはいられない、という感情。
私は最上階の一角を自分の指定席とすることにした。
いくら誰もが静かに過ごす場所といっても、近くを誰かがすれ違うと注意が削がれてしまう。
それに今まで私が本を読むとき、周囲に誰かがいるとすれば父だけだった。それ以外の赤の他人が読書中に同じ空間を共有しているという感覚があまり好きになれそうになかった。
だからできるだけ自分が一人でいると錯覚できそうな場所を選んだわけである。
もちろん「指定席」というのは私が勝手に決めたことであって、実際にはその席は誰のものということはない。
だからそこに先客がいたとしても、それは別に私のものを盗られたわけでも何でもない。黙って他の席を探すのが当たり前の行動だ。
だが今日まで幸いなことに、その席とその周辺は、まるで私のために予約されているみたいに他に誰一人として座る者がいなかった。
この広い図書館の最上階までわざわざ来ようとするのは、この周辺に望みの本がある一部の人だけで、その一部の人も今日まで一人としていなかったということだろう。
だからその席に一人の少女が座っているのを見たとき、私は一瞬、何故ここに人がいるのか、というおかしな驚き方をしてしまった。
何故もなにも、客観的に見れば半月前から二日に一度は私という人間がここに居座っているわけで、人がいるのは不思議でも何でもなかったのだが。
少女は他の人々がそうであるように黙々と本を読んでいたが、私の立てる僅かな足音に気づいたのか、ふいに視線を本からそらして私のほうへと移した。
――金色の瞳。
持っていた本を机に置くと、少女は音もなく椅子を引いて立ち上がり、風に舞うように私のもとへとやって来てゆっくりと微笑んだ。
「お久しぶりですね。お元気でしたか?」
内緒話のような小声。私もそれに倣うように小声を返す。
「……お久しぶりです。何とかやっています」
相変わらず、子供相手につい言い回しが丁寧になってしまう。
急に口調を変える場面ではないのも確かだが、それ以上にやはり、この少女の立ち居振る舞いにそうさせる何かがあるのだ。
「お勉強ですか」
「ええ」
お疲れ様ですと少女は言い、それからはたと気づいたように付け加えた。
「もしかして、私はあなたのお気に入りの場所に陣取ってしまいましたか?」
「え――」そのものずばりを言い当てられて、私は思わずたじろいだ。「いえ、その、公共施設ですから、そういうことは」
「そうでしたか」と少女は見透かしたように言う。「それは失礼しました。では私は別の場所へ移りますから、どうぞあちらの席へ」
「い、いえですから、そんなことは――」
「いいんですよ、さあ」
言いながら少女は楽しそうに私の後ろに回り込み、背中を押す。
踏ん張って抵抗するのもおかしな感じなので、私は押されるままに彼女が座っていた席――私の指定席――まで誘導されていった。
机の上には、少女が読んでいた開かれたままの本が置かれている。
私を連れてくることに成功すると、少女はその本をぱたりと閉じた。隠れていた表紙が姿を現す。『遍在する聖域』と書かれていた。
「好きな本なんですよ」と少女は言った。「たまに思い出しては読んでいるんです。実は持っているのですが、私は図書館という場所が大好きでして」
「はぁ」
「ちょうどそこにあるんですよ」少女は背後の大きな書棚のとある箇所を指さした。「それでここで読んでいたわけです。でも特にここでなければいけないというわけではありませんから、お譲りします」
「いえそんな」
「遠慮なさらずに」
少女は椅子を勧めてくる。私は半ば諦めるように、では失礼しますと言ってその椅子に腰掛けた。そして『遍在する聖域』の隣に私が選んできた本を二冊と、筆記用具を置く。
「ここを選ぶ理由は何となくわかる気がします」と少女は言った。「個室みたいなところが気に入ったのでは?」
「……そうですね」
「あそこ。ずいぶん前からあのままなんですよね」
少女は今度は正面の壁を指さした。
そこには大きな亀裂が入っていて、最初に見たときはちょっと危険な印象を持ったのだが、今では単なる印のように捉えている。
「補修するつもりはあるという話も伝え聞いているのですが、なかなか実行されません。私は個人的にここを『ひび割れの間』と呼んでいます。当分はその名前を変える必要は無さそうです」
少女はくすくす笑うと、腰をかがめて私の顔に自分の顔を接近させた。
「お昼はどうなさるのですか?」
「お昼――ええと、自分で簡単なものを作ってきたので、適当な時間が来たら外へ出て食べようと……いつもそうしてます」
「ご一緒してよろしいですか?」
少女は言い、一つ大きく瞬きをした。この子は自分の瞳が放つ不思議な魅力にどこまで自覚的なのだろうか、とふと思う。
「ええ、構いませんよ」と私は答えた。
「そうですか、良かった。十二時でいいでしょうか?」
「ええ、その時間で」
「わかりました」
にっこりと笑い、それから少女は自分の本を手に取る。
「私は下の階にいますので。お昼の時間になったらまたお会いしましょう」
それでは――と言い残して、少女は階下へと降りていった。
少しのあいだ、少女が残していった風の残り香のようなものにあてられてぼうっとしてしまっていたが、やがて気を取り直して私は自分の頬を両手で軽く叩いた。
さあ、集中集中。
今日やると決めたぶんは、何が何でも今日のうちにこなすのが私の勉強の基本方針だ。
勉強にはもちろん密度や質が必要だが、それ以上に「その日に決めた分量を必ずこなす」ことが重要であると私は考えている。
特に思念士試験のような分量の多い長丁場の試験では、日々の計画の維持が絶対的に優先されるはずだと。
最初の試験は五ヶ月後。まずはこのやり方で合格を目指す。
気合いを入れ直したところで、私は本を開き、意識の矛先を昨日の続きのページへと移していった。
◆
柱時計の鐘が十二時を告げて少ししてから、少女は約束通りにここ――「ひび割れの間」へとやって来た。
「私も簡単なお昼を買ってきました」と少女は言った。「では、お外へ出ましょうか」
図書館からほんの少しのところに広場がある。
下宿舎から図書館までの道の途中にあるので、行き帰りには必ず横切るのだが、朝も夜もそれなりの人でそれなりに賑わっている。
最初に図書館へ来たときは昼食をどこかの店で摂るつもりでいたので、何の用意もしてこなかったのだが、そのときこの場所を見て、次からここに昼食を持ち込もうと決めた。
外の広い場所の空気を吸うのは気持ちを切り替えるのに良い気がしたし、何より店と比べて人がまばらで食事が喉を通りやすいように思えたからだ。
私と少女は広場の端に並んで座り、祈りを済ませてから各々の昼食に手をつけた。
「いつもここでお昼を?」
「そうですね。図書館へ来たときにはいつも」私は答える。
「それはこの広場で、というだけでなく、いつもこの椅子で、という意味ですか?」
「ええ」
少女は何事かを考えるように空を見上げる。それから店で買って水筒に移してもらったという紅茶を一口飲む。
「仕事のあるときは違うんですね」
「賄いで簡単に済ませます。かなり忙しないですね。祈る時間のほうが長いんじゃないかと思うくらい」
私がそう言うと、少女は今まさに口に入れようとしていた物を元に戻して笑った。
「思うにあなたは、同じことの繰り返しの中で気持ちを安定させることを重んじるたぐいの方なのでしょうか。図書館の席といいこの場所といい、人によっては毎日違う気分を味わいたくて異なる場所に座る、という考えもあるでしょう」
「……かもしれません」と私は言った。「あまり考えたことはないんですが、言われてみるとそういう気質であるように思います」
「それなら、余計に大変だったでしょうね。この街へ単身やって来て、新たな暮らしを始めるというのは」
「自分でも心配だったんですが、幸いにも少しずつ慣れてきている気がします」
私は言い、広場の中央にある噴水のほうを眺めた。何組かの男女がその縁に座って何事か会話している。小さな子供が噴水に飛び込まんばかりの姿勢で水に手で触れようとして、母親に襟元を掴まれ引き戻されている。
「ここへ来る前、不安からいろいろなことを考えました。たとえば、慣れるということも才能のうちで、自分には新しい生活に慣れる才能がまったく無いかもしれない、もしそうだったらどうしようとか。真剣にそう考えていたんです。でも今のところは何とかなっているように思います。並の人よりは遅い歩みかもしれないんですが」
「ご両親は何と?」
「いません」と私は即答した。「両親は亡くなりました」
少しの沈黙があった。それから少女は、いまにも崩れそうな砂山に慎重に石を乗せようとするみたいに、そっと言葉を発した。
「すみません、軽率な質問でした」
「あ、いえ」と私は否定する。「ごく普通の話題だと思います。ただ私のほうが普通でなかっただけで――」
「そう言っていただけると助かります」
少女は言い、右手を左胸に添えた。
それを見たとき、私はむしろ両親のことをもっと話したくなっていることに気づいた。それは自分にとっても奇妙な衝動だった。
話して同情を買いたかったのだろうか? いやたぶん違う。同情されようがされまいが、機会があれば誰彼構わず訴えて回りたかったのではないかと思う。両親を襲った理不尽が、時間と共に人々の記憶からどんどん消えていってしまうという現実に、少しでも抵抗したかったのかもしれない。
「――両親は、殺されたんです」足下に目を落としたまま、気づくと私はそう口にしていた。
少女が私の顔をじっと見つめる気配を感じる。
「……犯人は?」
「捕まっていません。警察の捜査は終わっていませんが、手がかりは皆無といっていいらしく、このままではいわゆる迷宮入りになりそうです」
「思念捜査は行われたのですか?」
少女がとても専門的なことを口にするので、私は少し驚いて少女の顔を見た。少女はさも当たり前のことを言ったという顔をして私の返事を待っていた。
「行われたようです。とりあえず、事件が起きた町と、その周辺の町では。でもその範囲においては、犯行の記憶を持つ者はいなかったといいます」
「そうですか……」少女は再び言葉を選ぶように言い添えた。「信徒としては複雑ですね」
「そう――ですね」と私は認める。「犯人が見つからなかったのは私にとって悔しいことです。当たり前ですけど。でも敬虔な信徒の犯行であると判明していたら、それはそれで違うわだかまりがあったようにも思います」
捜査はまだ続いている。最終的にどんな結末になるのかはわからない。
もし劇的な進展があれば、私のもとへ手紙で知らせてくれるだろう。両親の事件については、私にできるのは連絡を待つことだけだ。
「故郷にはまだ私の住んでいた家は残されています。でも」と私は言った。「私の家庭はもう、この世には残されていません。その意味ではもう、帰る場所は無いんです。それで吹っ切れて、この街へ来たというところもあります」
冒険でしたが――と私は締めくくった。
しばらくの間、二人とも無言で食事を続けた。
私も少女も、広場を行き交う人々の様子をどことはなくぼうっと眺めていた。その光景の中では、人の数と同じだけの昼が繰り広げられていた。
特に気まずさも感じずに無言で誰かと食事ができる自分に、私は驚かずにはいられなかった。
別段親しいわけではない人間と食事をするとき、私は相当に気合いを入れてその場に挑む。初日の夕食もそうだった。
適切に人の話を聞き、適切に話題を提供し、適切に笑う。それはもう仕事のようなもので、料理の味を楽しむのは二の次だ。会話を概ね自然に進行させることが何よりも優先されることであり、そしてそれは私のような人間にとって、楽しみとは正反対のものである。
そのような場では、無言は最大の禁忌だ。
言葉が途切れてしまうことほど気まずいものはなく、それを回避するために私は頭を最大限に回転させて語るべきことを探す。他人との食事というのは、強制的に遊ばされる知的遊戯のようなものだと思っていた。
でもいま、こうして出会って二度目の相手と二人で黙って座っていて、何の気まずさも感じない。それは私にはとても不思議なことだった。
間違いなくそれは、この少女の持つ独特の在りようによるものだ。
不思議な少女である。
見た目は間違いなく子供だ。出会って最初に私が想像した年齢はたぶん間違ってはいないだろう。
でもそれにしては中身があまりに成熟しすぎている。話し方も知識も子供のそれではない。年下どころか、同年代を越えて年上と会話しているような気持ちにさえなる。
何よりもその振る舞いの独特の柔らかさというか、包容力のようなものが私にはとても心地よかった。他人にそんなものを感じることは生涯ないだろうと思っていたのだが――。
私はちらりと少女のほうを見る。少女はそれを鋭く察知して私と視線を合わせた。金色の瞳が日の光で輝く。
「今日が良いお天気でよかった」と少女は笑った。「おかげでこうしてあなたと広々としたところでのんびりお食事できたわけですから」
「そうですね」と私は応える。
「明日は雨が降るそうです。明日はお仕事ですか?」
「いえ、明日も休みなので、ここへ来る予定です」
「でしたら傘はお忘れにならないほうがいいですね」
少女は言い、青空を見上げる。それから言葉を空に投げるように教典の一節を口ずさんだ。
「雨は神の先導を失った天の涙であり、同時により哀れな我々に対する慈悲である――」
我々の教えでは雨はそのようなものであるとされ、雨が降っているあいだは静謐であるべきと定められている。雨のあいだに盛り場などで騒ぐことは推奨されない。私の仕事場でも、雨の夜はお酒を出さない決まりになっている。
食事を終えると、少女は立ち上がって小さく体を伸ばした。
「楽しい昼食でした」と少女は言った。「お付き合いくださって、どうもありがとうございました」
「こちらこそ」
「私はこれで図書館を離れますが、あなたはまだこれからが本番でしたね」
「ええ。閉館になるまでは続けています」
図書館は朝の九時から夜の六時まで開かれている。私はその時間のほぼすべてを使って、あの「指定席」に陣取っているわけだ。
六時になると強制的に図書館から追い出されるので、近くの店に立ち寄って少し早めの夕食を摂る。それから下宿舎に帰って、走り書きしたノートと手持ちの本でまた少し勉強し、九時には眠る。
という一連の行程を、休みの日は常に保っている。
「よく眠れていますか?」と少女は尋ねる。
「はい。寝付きは良いほうなので」
「それは何よりです。人は眠っているあいだにも活動しているものですから」そう言ってから少女は少しの間を置き、ぼそりと続けた。「……つくづく、思い知らされます」
どういう意味だろう。言わんとすることがうまく飲み込めず、私は黙ってしまう。
「――失礼。独り言です」
少女は言い、そこはかとなく人工的な笑顔を作った。それから椅子に置いていた包みと水筒を手に取る。
「本当に楽しかったです。では私はこれで失礼しますね」
「あ、はい。お気をつけて」
「思念士試験」と少女は言った。「ここ数年は刑法がやさしくなって、一般教養が難しくなっているようですが、あまり捕らわれすぎないほうがいいと思います。直前までは満遍なく押さえておくべきでしょう」
「え――」突然のことだったので、私は二の句がうまく出せなかった。
「それでは、また近いうちに」
少女は深く微笑んで、通りの向こうに歩き去っていった。
私は少女の姿が視界から完全に消えてしまうまで、呆然としたようにその後ろ姿を見送っていた。
思念士試験? 何故あの少女はそこまで詳しいのだろうか。まさかあの歳で思念士だなんてことは――いや、それは違う。
あの衛士さんが私について言っていた。もし一度で合格したら恐らく最年少記録だと。記録の真偽はともかく、あの少女のことを知っているのであろう衛士さんから見て私が最年少なら、あの少女は思念士ではないということになる。
私はそこで初めて、少女の素性に深い興味を抱いたのだった。彼女はいったい何者なのだろうか――と。
◆
少女が言っていた通り、翌日は朝から雨が降っていた。
雨の日は嫌いではない。私は放っておけばだいたいにおいて屋内で一人物静かに何かをやっているほうだし、雨はそんな自分の集中を手伝ってくれるように感じるからだ。
雨によって下界から余計な物音が押しのけられ、周囲は静かな雨音だけになる。
まったく同じ理由で雷は昔から好きではない。怖さは感じないが、あれは静けさとは無縁どころかこちらの精神にあまりに無遠慮に入り込んでくる。昔の人々があれを神の怒りと表現したのもうなずける。存在が身勝手すぎるのだ。
私はいつもと同じ時間に傘をさして図書館へ向かった。
途中で広場を横切ったが、さすがに雨の日には私のような通行人を除いて人はほとんどいない。
その中で小さな子供が二人ほど、噴水の周りを傘もささずにばしゃばしゃと駆け回っていた。彼らにとっては雨の日は単にいつもと違う遊びの機会にすぎないのだろう。私には無かった子供時代だ。
図書館に入って目的の本を手に取ると、私は「ひび割れの間」に向かうまでに各階の人の様子を簡単にうかがってみた。
あの少女の姿は見つからなかった。まぁ毎日来るというわけではないのだろう。私は最上階まで階段を登ると、指定席に座って昨日の続きのページを開いた。
雨音だけが絶え間なく聞こえてくる空間。普段より集中できている自分を感じる。
昼食は広場の椅子でというわけにはいかないので、近くの店に入って簡単に済ませた。
心なしか客の数が少ないように感じられたが、店側の都合はともかく私には好都合だった。
混雑した店では食べ物が滑らかに喉を通っていかない。いつも仕事場で食事時の修羅場を味わうたびに、繁盛するのは結構だけど私だったらこの時間帯には客としては来ないだろうな、と感じている次第だ。
午後の勉強もいつもより順調に進み、閉館時刻よりだいぶ前に今日のぶんの予定をこなしてしまった。
明日のぶんにも手を出そうかどうしようかと考えているうちに、私はふと少女が昨日手に取っていた本のことを思い出した。
立ち上がり、少女が指さしていたあたりの本棚を順番に探していく。そう時間もかからず、その本は見つかった。
『遍在する聖域』
意味がわかりそうでわからない題名だ。
私は席に戻り、まずは目次を熟読する。本を読むときには必ずそうする癖がついている。それから本文を簡単にぱらぱらとめくり、かいつまむように目を通していった。さすがに全部を読みふける時間はない。
しかしその作業を始めて少しして、想像していたのとだいぶ勝手が違うことに気がついた。
頭の中に「図」ができあがってこないのだ。
自慢をしたいわけではないが、私はそれなりに本を読み慣れている。
文章と呼ばれる情報の羅列をもとに、立体的な生きた何かを頭の中に組み立てることは、私にとって呼吸するのと同じくらい自然で日常的な行為だ。
もちろん本質的な理解の話となればそれは本の内容や方向性によって変わってくるが、だいたいどのような本であっても、最低限築くことのできる図というものがある。その本の佇まい、輪郭、そのようなものだ。
それがこの本からは形作られない。端的にいって、いまの私にはあまりに難解なのだ。
質の如何にかかわらず、本には出会う順序というものがあると思う。
その人間の読書体験のあまりに初期の段階で出会っても意味をなさないものもあれば、逆に出会いが遅すぎて血肉とならないものもあるだろう。
言うまでもなく――大雑把にくくればだが――難解なものほど後に出会うべきものということになる。
難解な本ほど尊いわけでも位が高いわけでもないが、必要な難解さというものは確かに存在するし、そういう本には一目置くべき深さと高さがある。
私はまだ若輩だが、そこそこはそういった深さや高さに対応できるという自負があった。少なくとも年齢に比べて考えばそうだ。
良くも悪くも人生の多くの部分をそういうことにつぎ込んできたし、その過程でそれなりに階段を駆け上がって――あるいは洞窟を奥深くまで潜ってきたはずである。
しかしいま、自分より明らかに年下とおぼしき少女が愛読しているという本を前に、まったく太刀打ちできずにいる。私はまだ、この本と出会う段階にまるで達していないのだ。
軽い衝撃と混乱があった。同時に、自分がこっそり抱いていた慢心のようなものを言い当てられた気がして、恥じらいにも似た感情もこみ上げてくる。
少女の進んできた距離のようなものを私は想像する。
一つの長大な川を水源から海辺まで、十を少し越えたほどの少女が軽やかな足取りで瞬く間に駆けていくのだ。
それはあまりに現実味のない取り合わせに思えた。それだけの距離をそれっぽっちの年月で駆け抜けるには、どれだけの速度が必要なのだろう。
まるで風の精霊か何かのようではないか――。
そうこう考えているうちに、柱時計の鐘が六時を告げた。閉館時刻だ。
私はいまいち納得のいかないまま『遍在する聖域』を本棚に戻し、自分の筆記用具をしまい込んで図書館を出た。
雨足は朝よりも弱くなっていたが、未だしぶとく降り続いていた。私は昼と同じ食堂へ行って、昼よりはやや混み合った中で手短に夕食を摂り、帰路についた。
その途中で広場を横切ったとき、噴水の周りを朝と同じように子供達が陣取って遊んでいるのが見えた。
一、二、三。一人増えている。
いや、まさか同じ子供が朝からずっとああしていたとは思えないから、別のグループが同じように遊んでいるのだろう。
そんなことを考えながら何とはなしにその子供達を眺めていたのだが、ふいにその一人が私のほうに顔を向け、雨の中をばしゃばしゃと小走りで近づいて来た。
「よう、ねーちゃん!」
よく見ると、少年は女主人の息子さんだった。初日に夕食の席で会って以来、それなりに気に入られたのか、顔が合うたびにあれこれと日々の「戦果」を話しかけてくる。
「いま帰るとこ?」
「うん、そう」と私は答えた。現状、もっともざっくばらんな言葉を使える話し相手がこの少年である。
そっかーと少年は言い、じゃあ俺もそろそろ帰るかな、と呟いてから、振り向いて後ろにいる残り二人にその旨を叫んだ。
二人はおう、じゃあなと少年を送り出す。それを確認してから少年は家路を歩き出した。
慌てて私は少年に追いつき、自分のさしている傘を傾けた。
「傘はどうしたの?」
「止んでたんだよ、さっきは」と少年は言った。「だから遊びに来たんだけど、でも途中で降ってきた」
「それなら家に帰ればいいのに」
「でも雨って面白いじゃん!」
少年は屈託なく笑う。
女主人の一家も信徒であるはずだから、雨の日はおとなしくしていろくらいのことは言っているはずだ。だがまだこの歳では、好奇心のほうが遥かに勝るのだろう。
「ねーちゃんは勉強?」
「そう、勉強」
「明日は仕事?」
「仕事」
「その次は?」
「勉強」
「代わりばんこだ!」
「そうね」と私は笑った。「まさに代わりばんこね」
「俺は探検!」少年は張り合うように言う。
「探検?」
「そう、街のあちこち探検するの。俺もう七歳だから探検できるんだ。街じゅう全部制覇してやるんだ」
そう言われてこの街の規則を思い出す。
それによれば、六歳までの子供が外出する際にはできる限り親が同伴すべき、となっている。
この少年は七歳になり、文字通り鎖から解き放たれたわけだ。
しかし七歳になったからといって途端に夕暮れまで放っておくというのも、女主人の剛毅さが表れていてなかなか痛快だ。
「探検かぁ」と私は言った。「じゃあもうお姉ちゃんより色んな所を知ってるかな」
「もちろんだよ。どっか行きたかったらねーちゃんのこと案内してやるよ」
少年は自信ありげにそう言った。実のところ、土地勘についてはまんざらでもない。
下宿舎に戻ると、女主人はずぶ濡れの少年をひとしきり叱り、わざわざ連れてきてありがとうねと私に礼を言った。
「お礼がわりってわけじゃないけどさ、夕食、久しぶりに一緒にどうだい?」
「いえ、もう簡単に済ませましたから――」
「簡単にだろ? じゃあまだまだ入るさ。食べていきなよ」
「食べていきなよ!」と少年も繰り返す。
「……わかりました。ご厚意に甘えさせていただきます」
結局、この日の食事は四食になったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます