猫のアンテナ

綿引つぐみ

猫のアンテナ


     #

「現実を生きてないのよ」

 唯由ただよしは今恋人に振られている。

「役に立たないことばかり興味を持って。ぽやぽやっと、昼寝中の猫みたいな顔して。就職活動だって全然してないし。ごめん。いらいらする。もう無理」

 そういうと彼女は去っていった。

 唯由は学食のテーブルに独り残された。丼に残ったきのこ蕎麦を箸で弄ぶ。

──何だかな

 唯由はぼんやりと考える。

──誰といてもしっくりこない。恋人も友人も。子どものころからそうだ。誰かと一緒にいてもそこで見ているもの、考えていること、感じていることが違う

 たとえば海辺で野良犬が歩いていれば唯由は「独りかな。どこへ行くのだろう」と思う。その隣で恋人は保健所の電話番号を検索している。

──ずれてる。どうしようもなく

 でも唯由はそのことをそこまで強く気にしているわけでもない。少なくとも自分ではそう思っていた。

──しゃあないし。おれはおれ。自分を生きるしかない。恋人だって必ず必要なわけじゃない

 唯由は丼の載ったトレイを持って立ち上がる。


 地元組の学生はほとんどが大学へ車で通学している。

 唯由は裏門を抜けて近くの駐車場へ向かう。まだほとんどの学生が講義を受けている時間で駐車場には隙間なく車が並んでいる。

 自分の車のところまで来て、キーを差し込もうとするとボンネットの上に猫がいる。

 しょっちゅう見かける三毛だ。

 エンジンをかけると不機嫌そうにその場を飛び退く。

 唯由はまだそこら辺にいるかも知れない三毛をタイヤにかけないように、ゆっくりと車を動かした。


     #

 深夜、唯由は部屋で課題を仕上げていると空腹に襲われた。

 文机から立ち上がると畳を鳴らして部屋を出る。

 畳から板張りに変化した足の裏で、廊下は冷たく湿気っている。

 台所へ行き、冷蔵庫を開けると中には目ぼしいものは何もない。戸棚も同様だった。

──うちは買い置きの文化がないからな


 ヘッドライトが点灯する。

 唯由はコンビニへ夜食を買いに行くことにした。

 何を食おうかと考えながら車を走らす。

 最初おにぎりでも適当に二三個買って帰るかと思っていたが、途中で鱒ずしが食べたくなった。

──酸味が欲しい。酸味を体が欲している

 湿度が上がると何故かすっぱいものが食べたくなる。

 五分ほどで一番近いコンビニに着く。しかし鱒ずしは置いてなかった。

 唯由は「んー」と三秒ほど悩んだが、ペットボトルのお茶だけ買って店を出る。

 鱒ずしのため、もう一店巡ることにしたのだ。


 次の店までは十五分ほどだ。林の中の一本道が続く。家が疎らに建っているがこれ以上は開発されそうにはない暗い道だ。

 車のライトが周囲の木々に当たり闇の中にトンネルを作り出す。

 梅雨の湿った大気が周囲の闇に満ちてハンドルが重い。

 ついつい腕に力が入る。

 と、何かが飛び出した。

 ──猫だ

 ブレーキをかけても間に合う距離じゃない。

 そのまま通り過ぎればいいものを、猫はヘッドライトを見つめて道の真ん中で立ち止まる。

 こつん。と小さな音がした。

 唯由は猫を轢いた。


 車を降りると唯由は辺りを見回す。

 当たる直前飛び退こうとしたのか、猫は数メートルも離れたところに倒れていた。血はあまり流れていない。が。

──死んでいるのは間違いない

 唯由は思案する。

 深夜の出来事だ。この猫の亡骸をどうすべきか。

 飼い主を探して近所の家の戸を叩いて回るのも変だ。おかしな行動だ。連れて帰って埋めてやるのは窃盗か誘拐か。もし飼い猫ならば明日の朝、飼い主は猫の行方を尋ねることに違いない。

──放っておくか

 とりあえず車からタオルを取り出し、包んで歩道に上げることにした。

 温かな包みを持ち上げながら、唯由はだんだん理不尽な怒りがこみ上げてくるのを感じた。

──にしてもだ。なぜあそこで立ち止まる? 犬だったら危機に際してまずは逃げる。なのに猫は見極めようとする。危険の正体を。いつだってそうだあいつらは。だから車に轢かれまくる。猫だってそろそろ進化して車への対処法を学習してもいいんじゃないか

 唯由がそうして自己正当化の論法を繰り広げていると声がした。

(仕方ないのです。それがわたしたちの運命なのですから)

 いや音としてではなく、声は心の中に響いてくる。

(それがわたしたちの命のありようなんです)

 唯由は気づく。それは死んだ猫の声だった。

 いつの間にか周りには猫が集まって来ている。たくさんの猫たちに囲まれて、死んでいるはずの猫の声が聞こえる。

(この辺りで下ろしてくださって結構です)

 歩道の乾いた場所を選んで唯由は亡骸を下ろす。

「あのさ」

 声の主のほうを見ずに唯由はいう。

(なんでしょう)

「なんだか申し訳ない」

(轢いたことなら構いません。事故ですから。不可抗力でしょうあなたからすれば)

 声は静かにそういって、なお言葉を継ぐ。

(でももしそれでも気が済まない、申し訳ないというのなら)

 集まってきた猫たちは思い思いの場所でくつろいでいる。

(あなたにある能力を与えましょう)

「能力って、何を」

(わたしたち種族は死ぬときにある種の信号を発するのです)

「信号?」

(はい)

「……」

(その中で車に当たった時の、轢死の信号が受信できるアンテナをあなたに授けます)

「それは呪いじゃ」

(……)

 猫たちが動きを止め何かの気配を嗅いでいる。

(彼らが空を見つめていたら、それは仲間への祈りです)

 冷たかった空気が、今は生温かい。と思えばまた冷たく、風が斑になっている。

 唯由は承諾のかわりに深く息をついた。

「ところで体はこのままでいいのか」

(立ち回る家は幾つかありましたが、でもわたしは基本野良なので)

「埋めたりしなくても?」

(体を土に埋めるのが弔いになると思っているのは人間だけです)

「でもそれだと体は」

(なるようになるでしょう)

 そういわれるとすることがない。

 少しばかりの憂鬱を抱え唯由は車に戻った。ばたんとドアを閉める。

(あなたは仲間かもしれないから)

 最後にそう声が響いた。


 それからどうしたのか、唯由は憶えていなかった。

 まるで自動運転のように、気づくと家に帰り着いていた。手にはコンビニの袋を持っていて、中には鱒ずしがしっかり三個レシートと共に入っていた。


     #

 大学の授業を終えて、帰りに駐車場で車に乗ろうとすると隣のパステルグリーンの軽のボンネットに猫が座り込んでいる。いつもの三毛だ。彼女は中空を見上げている。

 彼女に捕らわれていた視線を巡らすと、猫の向うに人間のおんなのこが立っている。

 おんなのこも同じように空を見上げている。

「あなたも猫を轢いたのね」

 おんなのこは空を見上げたままいった。

「え?」

 おんなのこが唯由を振り向くと、唯由のこころの中にその言葉の意味が沁みてくる。

──そうだ。感じる。おれも。たぶん彼女たちと同じ信号を

 またどこかで仲間がひとり、運命の向うへ旅立って行ったのだ。

「わたし未湖みこ。情報の二年です」

「おれは唯由です。金属の四年」

 未湖は三毛を撫でている。彼女も未湖の手に擦り寄っている。


 それからグリーンの車の中で、二人は猫たちついての話をした。

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