第3話 「よろしく」を重ねて

 宴が終わって後片付けを済ませ、就寝のための諸々の準備を終わらせた俺は自室のベッドに横になっていた。

 しかし、困ったことに全く寝れなかった。


 理由は分かっている。急激な環境の変化と将来への不安だ。

 将来というと大げさな言い方だが、この先の未来に大きく関わるという意味ではこれ以上の言葉は無いと俺は思う。


 家族でも無ければ、ましてや恋人でも無い異性と一緒に住む。別に同じ人間同士なんだから深く考えすぎる必要も無いだろうと考えていたが、眼を瞑って寝ようとすれば何の役にも立たない悪い想像が脳を駆け巡る。


 姉が合鍵を渡しているくらいなのだから、おかしな奴であっても悪い人間では無いことに間違いは無い。

 でも、夜の暗闇の中だと普段は考えもしないことが脳の中でぐるぐるし始める。これは極めて厄介なことだった。


「とりあえず気分転換に水でも飲むか……」


 このまま横になっていても埒が明かない。こういうときは一度気を落ち着けてから睡眠導入ASMRでも聞いて強引に寝るに限る。


 そう思ってドアを開けた時のことだ。リビングの方で何かが光っているのが見えた。

 チカチカと光の色が変わることや、耳をすませば男の声が聞こえてきたところから誰かがテレビを見ているのだろうとあたりをつけた。


 さて、今リビングに居るのは姉か、それとも桜井か。

 姉なら普通に出ていけば良いのだが、もしも桜井なら夕方の時のように余計なものを見てしまってトラブルになる危険がある。


 俺は気付かれないようにこっそりとリビングに近付いていって、音を立てないように細心の注意を払いながら扉を開けて、おそるおそるリビングの中をのぞき見た。


 そこに居たのは桜井だった。ただし、ソファーに座ってラーメンを食べながら映画を見ている桜井美奈だ。

 テレビ台のBDプレーヤーが発光しているところを見るに録画していたものか、レンタルなり購入なりをした映画だろう。


 それにしてもだ。こいつ、さっき過剰と言えるほどのピザを食べてはいなかったか? そのあとで夜食としてラーメン鉢まで持ち出してラーメンを食べている? だとすれば桜井の胃袋はなかなかご立派なものらしい。


 テレビの画面に映っていたのは実写作品だった。国民の彼氏として今人気を集めている俳優が画面いっぱいに映し出されていた。

 桜井は見た目が分かりやすくギャルっぽいので、どうせ恋愛映画でも見ているのだろうと偏見丸出しのことを考えていたのだが、その推測は間違っていたらしい。


 というのも、よくよく見てみるとその映画は過去に俺も見たことがあった。付け加えると両手で数え切れないほどの回数をリピートしたのでちょっと見ただけでどこのシーンなのかだいたい分かってしまう。


 我ながらオタクが極まっているが、それは置いておこう。可能ならば永遠に。


 そして桜井が見ている映画の話だが、間違っても恋愛映画などでは無い。いや、恋愛要素も少しはあった気はするがジャンルとしてはヒーローものだ。


 つまり今の状況を完結に纏めるとこうだ。女子が明かりもつけていない部屋の中で一人でラーメン食べながらヒーローものの映画を見ている。

 個人の趣味にとやかく言うような精神はしていないのでバカにすることはしないが、向こうからすれば死んでも他人に見られたくない情景だとは思う。シンプルにだらしない。


 とにかくこんな場面を陰から覗いていることが知れたら何を言われるか分かったもんじゃ無い。ここは大人しく撤退するのがベスト。――俺の頭はそんな風に考えていたが、俺の目に関してはそんな風にかしこい動きをしていなかった。

 何度も見ているはずのその映画を、ただ個人的な趣向だけを理由にじーっと見ていた。それこそ、頭で考えていたことなんてすっぽり忘れてしまうくらいに没頭していた。


 そして、ついに口までがやらかした。


「おおっ」


 クライマックスにさしかかった時に俺が漏らした感嘆の声。その一言は完全に悪手でしか無かった。

 桜井が俺の存在に気付いてこちらをバッと振り向く原因になってしまったのは言うまでも無い。


「あ、アンタ……いつからそこに?」

「つ、ついさっきからここに」

「み、見たの?」

「見てないって言ったら許してくれる?」

「そんな言い訳通じるわけ無いでしょバカ!」

「まったくもってその通り」


 桜井は暗闇の中でも分かってしまうほどにプルプルと震えている。その理由はきっと恥ずかしさで。

 そんなに恥ずかしいなら自室でできることをやっておけば良かったのにと思わなくは無かったが、ソレを言ってしまえばこの家の中のパーソナルスペースを極端に狭めることになる。

 だからきっと、ここは俺が譲歩を見せるべきなのだろう。


「え、なんで隣に座ったの?」

「寝れはしないけど疲れてはいるんだよ。だから立ち話なんてしたくない。あと俺もこの映画見たい」

「……あんたちょっと寝ぼけてない?」

「誰もボケてない。そんな歳じゃ無いのは見れば分かるだろ」


 何を当たり前のことを――と思ったけどさっきから的外れなことをしている気もするからよく分からない。そういう意味じゃ確かにボケていた。


「好きなのか? こういうヒーローもの」

「ヒーローっていうか、特撮全般? 怪獣映画もよく見るし」

「みんなが寝静まった夜に一人でラーメン食いながら?」

「いつもラーメン食べてるみたいに言わないでよ。今日はたまたまラーメンってだけで、カレーとかチャーハンも食べるし」

「夜食してるなら大して変わらんだろ」


 しかもどれもこれもハードな炭水化物だった。これでデブになっていないんだから心底恐ろしい。


「そう言うアンタもずいぶんとご執心に見てたみたいだけど、こういうの興味あるの?」

「一応好きってくらいかな。グッズとかは買ってないけどテレビと映画は全部見た程度」

「それめっちゃ好きってことにならない?」

「そうとも言うかもしれない」


 こういう話題の時は最初から大好きと言ってしまうと相手にマニアックすぎる話題を振られて答えられなかったときに取り返しがつかなくなるので、控えめな態度でいるのが話を続けていくコツだと俺は思っている。

 前にとんでもないオタクに絡まれたことは俺にとっての軽いトラウマだ。


「どっちかといえば浅く広く興味の赴くままにって感じで生きてるから一個のジャンルにドドドって入れ込めないんだよな」

「入れ込んでないのに全話見るの?」

「必要最低限見てるだけだよ」

「やってるなあ……」

「けっこう居ると思うけどな。こういう何でもかんでも手を出すオタク」


 多様性が叫ばれるようなこんな世の中だ。オタクだって多様化したって問題ない――というのは言い過ぎか。


「そういえば何しに来たわけ? わざわざこんな真夜中に他人をおちょくるほど娯楽に飢えてるの?」

「寝れないから水飲もうと思ったんだよ。そしたらこうなった」

「寝れなかったのはそっちも同じか。部屋から物音がしなかったからてっきりもう夢の中かと思ってた」

「夜に一人でドッタンバッタン大騒ぎしててもおかしな話だろ?」

「それもそうね」


 桜井も疲れているのか、軽口の応酬はそう長くは続かなかった。

 二人して無言でテレビを眺めるだけの時間が過ぎる。桜井に関してはズルズルとラーメンを啜ってはいたが。


「あの、さ。これだけは言っとかないといけないってこと、もう1つ残ってたんだけど」


 そんな中で桜井は唐突にそう切り出した。少しばかり、照れ臭そうにしながら。


「何だよ。そんな改まって」

「別に大したことじゃ無いわよ。よろしく、って言っときたかったってだけだから」

「え?」

「ほら、いくら気にくわなかったり、譲れないことがあったとしてもそれなりにやっていけるとは思うから。だからこそのよろしくってこと」

「それもそうだな」


 別に互いのことを知らなくたって、ほどほどに、それなりによろしくやることはできる。

 幸いにも俺たちは過去に因縁があるわけではない。ちょっとばかり互いに譲歩が嫌いなだけで、本質的には0からのスタートだ。

 そう考えれば気負いすぎる必要なんてどこにも無い。

 返事は決まっていた。


「こちらこそよろしく」

「うん、よろしく」


 そう言って俺たちはフッと笑った。

 出会ってからまだ数時間しか経っていないのだから決して仲良くは無い。

 でもなんとかやってはいけそうだ。


 俺はそう思いながら桜井と並んで座ったままでテレビを見ていた。

 ――俺が眠りにつくその瞬間まで。







 パシャリという音がした。

 その音はあまり大きくは無かったが、俺の意識を浮上させるには充分な音量だった。

 正直寝足りなかったが、二度寝をするには体が痛かったし、何より部屋の中が明るくて、眼を閉じていても光を充分に遮れなかった。

 だから俺は仕方なくまぶたを開いた。


「おはようユウ君。昨日は寝れなかったみたいだね」


 俺の目と鼻の先には姉の愛理がいた。何故だかとびっきりの笑顔を俺に向けながら。


「姉ちゃん……? なんで姉ちゃんが俺の部屋に……?」

「眠たいときは本当にポンコツなのは高校生になっても一緒か。ここはお姉ちゃんの家のリビングよ。分かる?」

「ああそっか。俺、昨日はリビングに出てきて、そのまま寝ちゃったのか」


 ポンコツとは失礼な。

 確かに起きているときと比べれば頭の回転は鈍いが、聞いた話を即座に理解するほどの頭くらいは持ち合わせている。

 昨日、今後の住居となる姉のマンションに来たことはちゃんと覚えているし、その夜に眠れなくてリビングに出てきたことも今思い出した。そんでもって桜井と一緒にテレビを見ていたことも――


「おっと?」


 さて、ここで俺の頭の中には疑問がひとつ。

 桜井はどこに行った?


 そして不幸にも俺には、家の中を見て回らずともその答えを出せるヒントを与えられていた。


 ヒント1。何かに触れている右肩からほどよい暖かさと柔らかさを感じる。

 ヒント2。目の前に居る姉は俺を見てニヤニヤしている。あと視線が俺だけでは無くて、俺の隣にも向いている気がする。

 ヒント3。時折隣から生暖かい風、というよりは息を吹きかけられている。


 このままヒント全てに気付かなかったふりをして無理矢理迷宮入りさせる選択肢も確かにあった。

 でも、それよりも知的好奇心を優先して、答え合わせをしてしまったバカがそこには居た。


 すこしだけ首を右に向けた。たったそれだけでご対面した。

 俺と肩を寄せ合う形で体重を預けてすやすやと眠る桜井美奈。その寝顔がそこにはあった。


「……………………」


 もしかしたら何かの間違いかも知れない。そう思って目をこすってみたが、なんと目に映る景色は変わらない。

 大失態であった。


「いやあ、昨日はどうなることかと思ってたけど、仲睦まじいみたいで安心したよ。お姉ちゃんは」

「いや、これは仲むちゅまじいとかじゃ無くて……!」


 俺の精神状態はもうぐちゃぐちゃだった。

 噛んだうえに声を荒げてしまった。こんなことをすれば桜井を起こしてしまいかねない。

 実際にこの叫びが引き金になって桜井は起きてしまった。


「うーん……優斗くん……?」


 昨晩の元気なときから比較しておよそ3倍の優しさと柔らかさを内包した桜井の声がした。

 眼を覚ましてはいるが今はまだ寝ぼけている。この隙に逃げてしまえば今起きていることは桜井にバレずに済むのではないだろうか。

 しかしそんな淡い希望は姉がおもいきり手を鳴らしたことで一瞬にして崩れ去った。


「ば、バカ! 何やってんだよ姉ちゃん!」

「え? 面白いことだけど」

「どうしたんですか愛理さん……朝からそんな大きな音なんて出して……」


 部屋によく響く音だったのもあって、姉のその行動は桜井の覚醒を促すには充分だった。

 最初は半開きだった眼も徐々に開いていき、ぼんやりとしていた表情もしっかりと意識のあるものに変わっていく。

 そして無言のままで周囲をぐるりと確認し、それが終わるとある一点に視線は固定された。すなわち、俺と桜井の肩が触れ合っている、その一点に。

 そのことは俺が逃げるタイミングを完全に失っていたことを意味していた。


 こんなとき俺はどうすれば良いのか。言い訳はしたいが何をどう説明して良いのかも分からない。無意識での出来事だから全てを飲み込めたワケでも無いのが大きい。

 あれこれ考えている間に桜井の顔が一瞬のうちに真っ赤に染まっていく。


「あの、これは、その違うんだ」

「大丈夫。別に言い訳とかしなくて良いから。状況は大体分かってるから」

「え?」

「映画見てたら2人揃って寝落ちしたってだけの話でしょ? だから別にどっちが悪いとかじゃ無くて痛み分けで良いわよ」

「ああそう。それでいいならそれでいいけど」


 顔が真っ赤な割には極めて冷静な対応だった。

 いきなり男と女が密着して寝てるなんて事態になったのでひっぱたかれても文句は言えないと思ったが、それこそ考えすぎだったらしい。

 やっぱりアニメの知識で人の行動を予測したって当たるものじゃないと、改めて思う俺だった。


 ――そんな風に完全に全部解決した感じに思っていたが、それは見通しが甘かった。


「ごめんやっぱり無理! こっち見ないで!!」


 桜井はいきなりソファーから飛び出し、恐るべきスピードで自分の部屋に戻っていった。

 あまりに突然だったから俺は何のリアクションも取れなかった。というか何が起きたかも理解が追いつかない。

 けど少し考えて、その答えを見つけた。


「さっきの、虚勢か」


 理性でかっこつけようとしたが、本能は恥ずかしさを抑えきれなかったということらしい。

 部屋に行って何か声をかけようかと思ったが、半分被害者で半分加害者みたいな俺が気の利いた言葉なんてかけても効果があるとは思えない。


 こんな調子では本当に桜井とよろしくやっていけるのだろうかと悩む、春の朝だった。




序章 俺と姉と知らない女 End

 →Next Ep.1 入学する者、迎える者

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