りんごあめ

Chiroru.

りんごあめ



彼女はただ、そのびいどろを思わせる紅い飴に、舌を這わせていた。









 噛み付くこともせず、ただただ林檎飴のあめ細工をじっとりと舐めあげた、彼女。

 彼女――といっても俺は、その実彼女の名を知っている。というか今日付けで住所まで知ってしまった。彼女が何所に住んでいるのか、何という名前を持っているのか、俺とどういう関係があるのか。まあそれは置いといて。

 とにかく彼女は、道路の向こう岸、祭りの喧騒を離れ、屋台やら花火やらの光も届かない暗闇の、唯一の光としては余りに頼りない街灯に背を凭れ、煌々と滾る紅い赤いリンゴ――いや、その赤を覆うガラスのような飴をもったいぶるように舌先で弄んでいた。


『彼女は今日、仮病を使って学校を休んだ。』

 現時点でこの仮説は推測に過ぎないが、それでも一定の説得力はある。第一に彼女はこうやって、現在進行形で程々に冷気を帯びた夜街に繰りだしている。この仮説がやはり仮説に過ぎなかったとして、彼女が本当に風邪なのか体調不良なのかは知らないが、一般常識で言えば夏祭りになど出掛けるものでもないだろう。

 そう、ここは夏祭りの現場であるから、無論彼女もまた涼しげな夏服で、というか、何故か学校指定の半袖セーラーに軽く浴衣を羽織った様な恰好で、足元は、足袋を履き朱い鼻緒の下駄を履いている。

 可笑しな出で立ちのはずが、不思議と全くそんなことは思われなかった。紺のスカートに藍色の生地はよく合っているし、スカーフやリンゴや鼻緒の赤が良い挿し色になって、この田舎町には不釣り合いな張り詰めた空気を纏ってさえいる。





 彼女は異質な存在感を放っていた。人ごみに身を任せ放浪していた俺の視線を縫い止めるくらいに。

 けれども、祭りに来ている群衆は皆、揃って彼女に気付かない。スカートと着物と髪色が彼女を闇に溶けこませる反面、いやだからこそ、着物から覗く上着や肌の白さが妖しく浮かび上がる。それなのに、ここに居る人間の中で俺以外の誰一人、彼女を気に留める者はいない。














⦅リンゴ飴は林檎か飴か⦆


 彼女は実に模範的な生徒だ。

 定期試験では常に上位に位置し、スカートの端はぴったり膝丈で、化粧や煙草をするはずもなく不用品の持ち込みなどとは勿論無縁の、息苦しいまでに完璧を体現するいち生徒は、しかしそういった意味とはまるで離れたところで注目を集めていた。

―――まあ、あの子ったら。毎度お手数をおかけしてごめんなさいねぇ。

 植物性の香水の匂いが染みついた玄関先で、俺が差し出すプリントの束を受け取りながら、確かに彼女の母親はこう言ったのだ。人づてに聞く彼女のある種武装的な鋭利な言葉からは到底思いもよらない、人柄が滲み出た声音、と形容するに相応しい柔らかなゆったりとした口調で。

 毎度――…つまり、高校三年の今まで、こういうことはたびたび繰り返されてきたということだ。

 

 彼女は模範的な思考能力をもった生徒である。

 その持ち前の頭脳があれば、卒業認定が下りるぎりぎりのラインを弾き出すことなど造作もないだろう。試験日や行事を押さえつつ、最小限の労力で肩書を掻っ攫ってゆく。どこで誰と会って何をしていたのかは知らないが、彼女の姿を校内で見かけるのはむしろ希だった。

 そして俺は、クラスの中でたまたま出身中学校が同じだったというだけで、諸々の書類を彼女宅に届けるという名分のもと、彼女の人生の一端に否応なく編み込まれる。


⦅ねえ、どっちだと思う⦆


 中学時代から彼女は、―――或いは小学生の時から、とことん合理主義に生きてきたらしい。らしい、というのも、実際のところ彼女と同じクラスになったのは今年が初めてなのだ。

 学校という密閉された透明な容器の内側で、彼女の噂、もとい興味と嫉妬の脚色に彩られた人物像は、隅々にまで共有されていた。

 たいして教室に顔を出さずそれでいて成績は上々、何より他を怯まない態度に反論の余地を与えない極めて理路整然とした物言い。そんな既成事実に助長され、本人の与り知らぬところで虚構は事実にすり替わって行った。


 ―――ぱりん―――




 ぱりん、正確にはがりっ、のほうがより適切だろうが、それはもっと軽やかであった。例えば、ぱりん。



 艶やかなコーティングが裂ける。

 知らず息が詰まる。彼女は飴細工に歯を突き立てた。

 空気に晒された林檎の皮、暴かれた噎せ返るほどの鮮緋、

 心臓を思わせるあでやかな血走り。








 剥離したアメの一片を口に含み、ゆっくりと融かす。

 真実を覆うまやかし、妄想を塗りたくった張りぼて、空論に虚偽を重ねた彼女という人格、そんなものを軽やかな、でもしっかりとした足取りで剝ぎとってゆく。ガラスの檻はいつだって彼女によって壊される。

 道路を挟んで彼女を傍観している俺に、そんな音が聞こえるはずもないのだが、耳の奥に余韻を引いて鳴り響くのだ。あの日の聲と甘くまざり合って。

 



「………りんごじゃないのか」

 実際に言葉を交わしたのは、中学のあの日、一度きり。

 蒸し暑い夏の午後のベランダだったか、寒さに震える冬の朝の廊下だったか。ともかく彼女と話という話をした、その記憶があまりに鮮烈すぎて、時期とか時間帯とか場所だとか、どういう流れでそうなったのか、だとかは一向に思い出せないでいる。

 リンゴ飴は飴だとか林檎だとか、考えたこともなかった。強いて言うならリンゴ飴はリンゴ飴として、林檎でもなく飴でもなく、あの姿こそが紛れもなく本質で、完全体だとばかり思い込んでいた。それは誰もに共通の認識で、疑いようのない了解事項で、異を唱える者など在るはずのない案件だった。

 それでも尚どちらなのかと問われれば。

「林檎にアメが被さってるんだろ、なら林檎だ」

 しかし彼女は、見えない枷からいとも簡単に、するりと抜け出す。曰く、

「桜餅はお餅、アンパンもパン。ならリンゴ飴もアメじゃない」

「カレーライスはカレーだ」

 思えば俺はこの時、平生とは雰囲気の異なる彼女の、その内に触れているようで、いい気になっていた。

「ライスカレーになれるから却下。イレギュラーな例ね」

「………林檎の檎の字には、何かをつつみこむって意味があるだろ、物理的である必要はないんじゃないか」

 そして彼女は澄ました顔で言い切る。



「でも正直言って、リンゴ飴の林檎が美味しかったことなんて、一度でもあったかしら」


 だから。

 だからそれが、リンゴ飴がアメたる十分な理由になってしまうというのだ。

 

 


 どよめきに似た歓声が地を這って沸く。空を薙ぐ振動にはっと我に返った。心臓がとくとく早鐘を打つ。彗星の如く、ひと際永く尾を引く火花が、夜空に爆ぜた。

 



彼女の頬までも染める烈火

 




         ちらりと閃光を見やる彼女





   ねじれた地平線





                   零コンマ何秒の刹那

 


 



交わらない視線

 


 



                         夢遊感に包まれる

 


 


 見ている世界が違うのだ。

 まるで別世界を生きている。

 あの時も、確かに彼女は俺に話しかけていながら、俺を見てはいなかった。応えを俺に求めていたのではなく、自分の中のそれに触れようと踠いていた。

 

 燈が遠ざかる。

 夏が終わってしまう。

 



――結局外面が好ければ、中身なんてどうだって善いの――




 祭りの後の切なさを抱えながら、人々は群れを成して足早に去って逝く。俺は潜熱の褪めない頭でそれに身を任せ、思い出したように視線を投じる。

 





 街灯の足元に、齧りかけの林檎が白い果肉をのぞかせていた。

 



 




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りんごあめ Chiroru. @chiroru02

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