第2話



「おはようございます」


「あら? どなた?」


「鈴木です。お手伝いに来ました」


「あら、ありがとうございます。さぁどうぞ、お掛けになって」




 母がいる介護施設に通って、毎朝同じやりとりをする。私はあの日から「鈴木」という他人になることにした。


「お茶を淹れましょうね」


 母は認知症になっても、他人には親切に振る舞う。昔からそうだった。私には氷のように冷たくても、他人には愛想がいい。


「あなたのお母さんはどんな人だったの?」


 お茶を私の前に置いて、母は突然切り出した。本当に、すっかり忘れてしまったんだなぁ。


「私の母は、とても厳しい人でした」


「そうなの? よく叱られた?」


「はい……」


 母は全く分かっていない。今なら言えるかもしれない。


「どうして産んだんだろうと言われました」


 母は、あぁと眉を潜めて私の手を握った。


「酷いことを言われたのね、可哀想に」




 え……何だろうこれは?




 分からないにも程がある。杭を打ち込まれたように何十年も苦しんだ原因を、そんな簡単な言葉で済ませないで! 怒りと悲しみが噴き出しそうになるのを堪えて尋ねてみた。


「お子さんはどんなお子さんでしたか?」


 母はとても優しい顔で話した。


「私の娘はね、とても可愛くていい子なのよ。お勉強も習い事も頑張って、立派に育って家業を継いでくれたの。素敵なお婿さんもとってくれて、自慢の娘なのよ」


 嬉しそうに笑う母の顔を信じられない気持ちで見つめた。この人は、本当に私の母なんだろうか?こんなこと言うなんて、今まで一度もなかった。


「でもね……」


 顔を曇らせ俯き、母は私の知らない話をしはじめた。


「妊娠した時は大変だったのよ。お腹の子が女の子だと分かって、姑から中絶するように言われたの。男の子じゃないと跡取りになれないから、姑もそうしてきたからって。夫は海外に出張中で守っては貰えなかった。私にはどうしても出来なかったの。ずっと拒み続けていたけれど、毎日が針のむしろでね……。ある日、耐えられなくなって、海に入ろうと思ったの。お腹の子と一緒に」



 祖母は母にだけでなく、私にも冷たかった。そのことも、私の心に影を落とす一因になっている。



「海に着くとね、夕陽が映ってキラキラ輝いて、とても綺麗だったの。その時に夕陽の夕に寄せる波で夕波ちゃんって名前、素敵だなぁなんて考えていたら、ポコンとお腹を蹴飛ばしたのよ。初めてよ! 気持ちが通じたみたいで嬉しかった。生きたいんだって、夕波って名前、気に入ってくれたみたいだって感じたの。どうしても産みたかった。私は孤独だったけど、この子がいれば頑張れると思ったわ」



 産みたかったんだ。



「それから家に戻って、女の子でも男並みに立派に育てるから許してほしいと姑に頭を下げたの。夫も戻って一緒に頭を下げてくれて、なんとか許してもらえたのよ」



 だから、あんなに厳しかったんだ。



「だけど最近、来てくれなくて寂しいの。どうしているのかしら……?」






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