沼中の蛇

沼中の蛇1

弟日姫子おとひひめこの居場所が移ったのを察して、褶振ひれふりの峰の主はおやおや、と片眉を上げた。

人の世にては大蛇としてある彼は、この幽世かくりよにては一人の青年である。

すで言挙ことあげの対象としてしまっている弟日姫子おとひひめこの居場所の把握など造作ぞうさもない。


――弟日姫子おとひひめこよ、一夜共寝すれば、家に返そう。


そう歌ったのは、呪ったのは他の誰でもない青年である。

そう、あの歌はまぎれもなく、人の世の天を道行く日輪の系譜に連なる者であろうとくつがえすことができぬとされる呪い――言挙ことあげだ。

つまりは、青年弟日姫子おとひひめこと寝ない限り、弟日姫子おとひひめこを人の世に返す事などできない。

ただその嘆きをと考えて、なまじ弟日姫子おとひひめこという連れて来た事が災いとなっていた。


肉体的に縛るものがなければ、逃げるのは容易たやすい。

そうして隙きを突かれた結果が現状だ。

早めに魅入ってしまうべきだったとは思うが、起きたことは仕方ない。

いま言挙ことあげのかしりが、細く長く、ささがねの蜘蛛の糸のように遥かまで伸びて絡んでいるにもかかわらず、世界をへだててまで逃げ回る弟日姫子おとひひめこのその様は、流石さすが神代かみよに産まれた娘と言ったところか。

本人は必死だとしても、はたから見る分には実に世界のり糸を手繰たぐって絡めるのが上手い。

かしりの糸から伝わる彼女の動向に、青年は目を細める。


弟日姫子おとひひめこ青年を主と頂く山のある地の娘だ。

だから、青年は元より彼女を知っていた。

昔から美しく愛らしい娘だった。

新羅しらぎ任那みまな侵攻を治めるべくこの地を訪れた大伴おおともの狹手彦さでひこと恋仲になった事は純粋に喜ばしいと感じた。

何故ならば、如何いかに美しいとはいえ、弟日姫子おとひひめこはただの地方豪族の娘でしかない。

それが朝廷より遣わされた軍の将たる狹手彦さでひこに見初められたというのであれば、それは弟日姫子おとひひめこの一族が更なる権力を手にしうるということだ。

日輪の系譜の力強さを思えば、個としては不満がなくもない。

だが、純粋にこの地に住む人のことを考えれば、この地が権力を持つことは決して悪いことではない。


しかし、喜ばしいのは確かだったが、狹手彦さでひこの役目を考えれば、別れも必然だったことは憂慮していた。

そしてあの日、弟日姫子おとひひめこ青年を主と頂く山で、己がとの別れを嘆きながら、遥かに見える船へとをした。

必死に己の身につけたひれを船に乗ったに向けて振り、そして嘆き崩れ落ちた様は、青年が以前から知っていた弟日姫子おとひひめこよりもずっとずっと美しく、そして同時に張り裂けそうなほどに、苦手とする鉄の針を幾本もその身に突き立てられたように痛ましかった。


だから、少しでも慰められたらと、そのに似せた姿で何度もおとなった。

その内に、嗚呼、これはそうではない、と思った。

狹手彦さでひことして見られる事に、鉄の針を刺されたような痛みは増すばかりか、焼け付くような苦しみすらも覚えたからだ。

だから、事態をいぶかしんだ弟日姫子おとひひめこ苧環おだまきを使ってまで跡を辿たどって来た時、如何いかに無様をさらしていたとて、この好機を逃して良いはずもないと思った。


その感情の根本が、本性が蛇であるが故の狩猟本能であったとしても、蛇であるが故の執念であったとしても、それは青年が預かり知ることのない未来の表象の読み解きであるし、青年自身その感情の由来など、そんな事は最早どうでもいいのだ。

ほんの少しの隙を突かれて逃げ出されても、言挙ことあげをした以上、弟日姫子おとひひめこはどうあがいても青年の手中から――いな蜷局とぐろの中から抜け出せない。

言挙ことあげをした事がすでに過去の事実である以上、それは確定した事なのだ。

その確定事項に対して、飴のようにねばる甘い感情を、或いは獲物を口内でねぶる時と同じような感情を抱いていても、それはただそうなった事――或いはそうした結果にただ満足しているだけなのだ。

だから、青年弟日姫子おとひひめこが思っているように怒ってなどはいなかったし、むしろこの感情を味わっていられる時間が長くなる事については嬉しささえ感じていた。


――帰ってきたら、とびきりやさしく迎えてやろう。


自身の抱く感情に酔い、恍惚とそう思いながら、青年は誰も見ることのない笑みを浮かべる。

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