絡められた女の話

帰っておいでと、そう、聞こえるんです。わたしが逃げ出したことなど、微塵みじんも怒ってないというように、ただ優しく穏やかに柔らかに、あのわたしたばかった連夜の睦言むつごとのように、耳から入って、蜜のように焼け付く甘さでどろりとわたしの内を流れ落ちて、わたしの心の臓を雪のようにひやりと冷たく心地良い手で優しく鷲掴わしづかむのです。何度も、何度も、いつも、いつも、いつだって、逃げても、逃げても、その声が、わたしを絡め取りに来るのです。そうして絡めるだけ絡めて、あのはただわたしめつけ、帰っておいでと言うばかり。一思いに喰らうなら喰らえば良いのに、獲物を甚振いたぶってたのしむように、舌舐したなめずりをして、わたしが帰るのを待ち侘びている。わたしを連れ去ったあの沼底の、暗くて黒くて閉じてて開いてるあの玄室くらきやのような場所で……あそこは、わたしの帰る場所などではないのに、絡め取られたわたしの下で、あのは落ちてきたわたしを呑もうと、大きく口を開けている。

何故、何故、わたしなのでしょう。

わたしがあの山でをしたのがいけなかった? あのはいつからわたしを見ていた? あのはいつを知った?

何故、何故、あのはわざわざに化けてまでわたしにあんなに優しくしたのです?

嗚呼、だから、だから――だから、わたしは、もうを思い出せない。確かに違って、でも同じで、わたし、もう、思い出せない。あのが全部、全部、上から塗り潰してしまった。あのが、などではないのは確かなんです。なのに、なのに、思い出すは別れの後のまがい物ばかり!

あれは、あれは、あれは、あのわたしたばかって手篭てごめにした化け物なのに!

どれだけ逃げても、時も空間も、世界すらいくつ隔てても、あのはただ、帰っておいでと、そのしなやかな身体でわたしを締め上げて絡め取る。――どれだけ逃げても、わたしはあののせいでであることから逃げられない。

うろこの下にやわしなやかな肉を閉じ込めた、あのひんやりとしたなめらかな身体がこの腕に絡んで、ぞろりと這う感触が離れない。

もう、の声もおぼろなのに、ただの真似をしたあのの声だけが、わたしを、わたしを!

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