第2話 ノア

 人にとって不幸とされるものは一体なんなのだろうか。

 肉体が損傷し、その痛みに苦しむことか。

 それとも大切なものを喪う苦しみを味わうことか。

 それとも愛を知り得ることがなく、生き続けることか。

 答えは否だ。

 この世には不幸などという概念は、きっと存在しない。

 有り得ないものに明確な定義をつけることなど馬鹿馬鹿しいこと。

 机上の空論に過ぎない理屈を悠々と語るに過ぎないほどに滑稽なことだ。

 それが彼ーーノアの考えだった。


「ならば不幸とは一体なんなのですか」


 少女がノアに問う。

 

「ただの思考の一種に過ぎん」


 ノアは答えた。


「誰が何を思い、考え、求め、憂う。その中の余剰部分に偶発的に生まれ落ちた、思考の残滓が、所謂不幸といわれるものだ」


 少女は首を捻る。


「成程。ならば思考の探求者たるノア様にとっての、不幸とは一体なんなのですか?」


 ノアは嗤う。


「そんなものは私には存在しない」


 嗤い、そして少女の頭を撫でる。


「私は人が不幸だと考える事柄の全てを体験してきた。だが、私にはそれが不幸なことだとは思えなかったのだ」


 少女は気持ち良さそうに目を細めた。


「君の両親を殺した時も、そうだ。親友だった彼らを殺したその時ですら私が得たのは、不幸などではない。ただの残された君に対する興味のみ」


「ノア様はロリコンなの?」


「ふむ。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。君の体を切り刻めばこの疑問も解決するかもしれんが、そうはいくまい」


「私は構いませんよ。ノア様なら……」


 ぽっと少女は頬を染めた。


「……やはり君は興味深い」


 本来ならば恐怖し、逃げ出すはずなのに、この少女の反応は全くの真逆。

 実の両親を殺したはずのノアを慕い、容易く自らの命すらを差し出す。

 死も、それに匹敵する苦痛も、少女は何一つ恐れず、平然とノアを慕い、愛する。

 生まれながらの破綻者なのだろう。


「それで、どうしますか、ノア様」


 少女は服を捲って、お腹を見せる。


「今の健康状態は実に良好です。この今、解剖すれば良い結果が得られること間違いなしです」


「それは魅力的な提案だ。しかし、そんな勿体ないことはしないさ」


「……そうですか。残念です」


 少女は肩を落とす。


「まあいずれは解剖させてもらうかもしれん。その時を待っているといいさ。だが、今はそれよりもやることがあるだろう」


 あ、と少女は声を上げる。


「そうですね」


 少女は手首に巻き付けた電子器具の表面に設置された電光板を弄り、虚空上に大量の陣形を浮かび上がらせる。

 そこには膨大な量の情報が乱れていた。

 その情報の中から一つを少女は指先で拾い上げて、ノアの前に展開する。


「人間と魔族の生存戦争ですが、どうやら優勢なのは人間側のようです」


 展開された情報は映像となって虚空に広がる。それは互いに流血の限りを尽くす、阿鼻叫喚な戦争の様子だ。


「あれから変化はなしか」


「はい。最初は魔族が優勢だったのですがノア様が昔に破棄した聖痕のシステムによって、戦局は一変。人間が優位に立ちました」


「ふむ。あれを使うなど、また愚かなことをするものだな。人の身に耐えられるはずもないのに」

 

「そうですね。恐らくは使い捨て扱いなのでしょう」


 ノアは呆れたように息を吐く。


「それにしても酷い有様だな。このままでは魔族全滅は確定か」


 少女は苦笑し、虚空に展開していた情報の全てを指先をスライドさせて消し去った。


「まあだからこそ彼女を魔王の元に送ったんですよね、ノア様」


「ああ、そうだな」


 ノアは頷き、ゆっくりと目を閉じる。


「今、魔物が滅ぼされるのは困る。非常に困る」


 その言葉に少女は呆れたように溜息をついた。


「ノア様、次からはきちんと後始末をしたほうがいいですよ。あのシステムはノア様すら殺しきるものなんですから」


 ノアは肩を竦め、鼻で笑う。


「おいおい、見くびるでは無い。この私を殺すのにはそんな大層な代物は必要あるまい。そこら辺に転がるナイフ一つで十分だ」


「ノア様は弱いですもんね」


「うむ。探求に暴力などは必要ないからな。そもそも力そのものが不要なのだから当然といえる」


 少女はノアに抱き着き、肩によじ登る。


「もう。そんなだからいつも被検体から裏切られては殺されるんですよ、あなたは。少しは学習してノア様ももう少し強くなるべきです」

 

「ふふ、この私がそんな勿体ないことをするはずもあるまい。裏切りは成長だ。進化なのだ。私の愛しい開発物たちが己が思考のままに裏切りを敢行する。これは親としてはとても素敵で素晴らしいことなのだ」

 

「子供に殺されるのが嬉しいの?」


 少女は嬉しそうに問うとノアは頷いた。


「当然だ。君の両親もきっと君に殺されることを望んでたはずだろう」


「ふーん。そうなのかな。そうだったら嬉しいな」

 

 少女はノアの首に抱き着き、そのままゆっくりと目を閉じる。







 



 

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