第2話 文化祭

 私が筧先生のことを目で追いかけるようになったきっかけは、本当に些細なことだった。

 今から1年前、私が1年生の時のことだ。勉強に不真面目なわけでもなく、かといって特別勉強ができるわけでもない。顔はお世辞にも可愛いとは言えないけれど、虐められるほど不細工というわけでもない。そんな私は、とにかく先生たちにとって空気のような存在だった。

 別にそれが不満だったというわけではなく、穏やかに学校生活を送れるならそれでいいと思っていたのだ。いたって普通の高校生だと思う。

 しかし自己主張をあまりしない私は、ほとんど友達がいなかった。悪口を言うよう求められても、上手く言葉が出てこない。そういう子は「つまらない子」認定されてしまう。

 入学してすぐ女子グループに所属したのに、いつの間にか1人になっていた。ハブられたのではない。自主的に離れたのだ。私を含めて5人のグループだったから、しょうがなかった。

 廊下を歩くときも4人が2列で歩いて、一番後ろを1人で歩くのは私だった。体育の時間、「2人組を作って」と言われて皆が真っ先に見るのは私だった。その繰り返しに、私が耐えきれなかっただけだ。

 学校に行って、授業を受けて、部活をして、家に帰る……。それの繰り返し。

 虐められているわけではなく、クラスメイトとの関係は良好だった。「クラスの友達」とは言える。しかし「特別な友人」とは言えない。


 そのことを痛感したのは文化祭の時だ。私たちのクラスでは、縁日を出し物としてすることになった。

「縁日の店番さ、クラスを3つのグループに分けて回していくから。仲がよさそうな子同士で固めといたよ。ちゃんとサボらないで来てよね! マジ、バックレたら許さないからー」

 文化祭実行委員のアキちゃんが言った瞬間、クラスの空気が明るいものになった。皆仲のいい友人と文化祭を回りたいのだ。慌てたように皆が、黒板の前に貼ってあるグループ分け表を見に行った。私は席を立たなかった。

 文化祭当日、自分が店番じゃないときの方が苦痛だった。賑やかな中1人で焼きそばを食べることが、なんだか虚しかった。1人でいる人間は、2つに分かれると思う。孤独を好む人と、本当は1人が寂しい人。私は後者だ。

 焼きそばの空箱を捨てるためにゴミ箱の場所へ向かうと、そこにジャージの冴えない成人男性がいた。1人でゴミ箱から溢れたゴミを拾っているが、あまりにもビニール袋が小さくて苦戦している様子だった。彼が筧先生だった。

「先生、手伝います」

 背の低い彼がワタワタとしている姿が、可哀そうだと思ったのかもしれない。そもそも美化委員の仕事なのに、先生がする仕事じゃないはず、と憤ったからかもしれない。私は先生に声をかけた。

「平塚! いいのか? 汚れるぞ?」

「えっ?」

 先生が自分の名前を知っていたことに驚きすぎて、言葉が出てこなかった。

「もちろん、やってくれるなら助かるが……」

「あ、はい! やります!」

 声が裏返ったのが恥ずかしくてたまらなかった。2人でビニール袋にゴミを入れていく。こういう単純作業は、結構好きだ。

「まったく、なんで『溢れているからゴミを別の所に捨てよう』ってならないのかな……。美化委員も遊ぶのに夢中で、仕事忘れてるんだろうなあ」

 先生のぼやきに何か反応しなければ、と頭をフル回転させた。「そうですね」とだけしか言えない。気の利いたことが言えない、つまらない子と思われただろう、と肩を落とした。

 しかし先生は私が言葉を続けることを期待しなかった。本当にただのぼやきだったようだ。


「よっし! ありがとうな平塚。お礼に……あー財布カバンの中だ。とりあえず飴ちゃんでいいか?」

「えっ、そんな、いいのに……すみません……」

 先生が財布を持っていなくて良かった、と心底ホッとした。もし何か奢られていたら、私は走って逃げていただろう。

「本当は飴1つだけじゃ足りないぐらい、平塚は色々してくれているのにな。黒板だっていつも消してくれているって聞いたぞ」

 私が黒板を消しているのは、理由が2つあった。そのうちの1つは、休み時間に一緒に過ごす友達がいないこと。もう1つは先生に怒られたくないからだ。

 入学してしばらくした頃、国語の授業が始まる時間になっても、黒板に字が書かれていたままだったことがあった。そしたら国語の先生は、黒板を消さずにそのまま授業を始めた。遣唐使の歴史が書かれた上に、伊勢物語の原文を書き始めたのだ。

 授業の後「今度から消しておくように」と言い放った国語の先生に対して、クラスメイトたちは「なにあれメンドー」や「口で言えばいいのにー」などと言っていたが、私はとにかく「怖い」としか思えず、それ以来誰も消さない黒板を消すようになったのである。

 誰も私が黒板を消していることなんて知らないはずだ。なんで先生が知っているのか、全く見当がつかなかった。

「うちのクラスの松江がな、窓の外からよくお前の姿を見ていたそうだ。いつもあの子ばっかり黒板消してるって思って、気がかりだったらしいぞ」

 私は思わず顔が熱くなった。虐められてるって思われたんじゃないかと思うと、途端にどこかへ隠れたくなった。 

「私、虐められてるわけじゃないですよ」

「ああ、分かってる。でも平塚だけじゃ消すの大変だろう。このままじゃいけないと思うのは、松江も俺も同じだ。松江っていう子もな、最初1人でクラスの面倒ごとをしていたんだが、今ではクラス全員で役割分担をするようになったんだ。まあ、それが当然なんだけどな。

 友達もできたと言って喜んでたよ。平塚とも話してみたいと言っていた。1回会ってみてほしい。君ら気が合いそうなんだ」

 その時私はなぜ自分の担任でもない彼が、ここまで親身になってくれるのか分からなかった。

 高校生にもなって、つい人前で泣いてしまった。先生はおろおろと手を彷徨わせ、私にティッシュを手渡した。少しだけしか触ってなくてもセクハラと言われてしまうこのご時世、彼の行動は適切だったと言える。

 でも私は、それじゃあ物足りない、と思ってしまったのだ。少女漫画みたいに頭を撫でてほしい、と思ってしまった。

 こんなことを思うのは、筧先生に対してだけだ。間違いない。他の男の先生に頭を撫でられても不快なだけだ。たとえどんなにイケメンな先生でも。


 先生と別れた後ふと鏡を見たら、前歯に青のりがついていることに気づいた。焼きそばを食べた後に鏡を見なかったことを、ここまで後悔したことはない。


 数日後、私は松江さんと会話をするようになった。しばらく経って彼女のことを「杏」と呼ぶようになったころ、私は先生への恋心を自覚してしまったのである。

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