第二章 泪に雪の、花ぞ咲く
第四十五話 「狂気の逆転」
「お──おのれぇえええええええ、朽酒女菟ぅぅぅぅ!! ドゥーム・ワン! 愚かしい最初の死めぇええええ!!」
希歌に押し倒されたままの虞泪が、怨嗟の絶叫を上げた。
膨張を続け、世界を押し流すはずだった洪水は、破裂する前に栓を抜かれ、地に開いた裂け目へと流れ込んでいる。
それは終末のごとき様相だったけれども、まだ終わってなどいないのだと、胸の奥のなにかが告げていた。
予感に答えるように、空と大地を切り裂いた巨大な剣から、暗雲めがけて無数の光が照射された。
極限まで絞られ、指向性を与えられた光は、閉ざされた空に無数の光輝の穴を穿つ。
まるで、星空のように。
自分の手の中のプラネタリウムが、星を夜空に灯したかのように!
「結巳ちゃん!」
名を呼んでも、彼女はぼうっと立ち尽くし、両目から泥の涙を流し続けている。
希歌が虞泪を押さえ込んでいられるうちに、なんとしてでも、結巳をこちら側に連れ戻す必要があった。
「約束、したじゃないか」
「やくそく……?」
そうだ。
一緒に見ようと願った。
「星を、一緒に視るって」
「ほし……」
ゆっくりと──このわずかな時間ですらもどかしい──彼女が、空を見上げる。
真紅の海、流れ落ちる大瀑布、暗雲。
そのすべてを照らす、地上からのハイビーム。
「そうだよ、星だ」
「わたしは」
「結巳ちゃん。きみは、もう泣かなくなっていいんだ。きみは──」
この光が届くなら。
ほんのわずかでも、その心が揺れるなら!
「風太くん!?」
希歌の切迫した叫びが、言葉のつながりを断ち切った。
ハッと気がついたときには、もう目の前に〝それ〟が肉薄していて。
「がっ!?」
横っ面をハンマーで殴られたような衝撃とともに、身体が吹き飛ぶ。
いままで自分がいた場所に、巨大な泥の腕が叩きつけられ弾けるのが見えた。
「けぇえええええええええええ!!!」
金切り声を上げたのは、金泥虞泪。
彼女が両目を裂けるほどに見開き、聞き取れない難解な言語──もはやそれは、獣のうなり声に近かった──を吐き出せば、屋上を満たす泥の沼から、大樹ほどもある腕や足が、いくつも生える。
「なぜ我が操れないと思う、この程度の呪術はできて当然……」
「お、大人しくしなさい!」
「聖杯にもなりきらぬ巫女の分際で、我らに口出しするなど……否、もっとも忌々しきは朽酒女菟……! 恥知らずな海棲人類の姫君めぇぇ!……」
「動くなって! この腕、本気でへし折る覚悟ぐらいあたしにだって!」
「…………」
「──え?」
虞泪が、何事でもないように、身をひねる。
響き渡る、耳障りな破砕音。
そして、希歌の呆気にとられたような声がこぼれ落ちて。
「どけぇええい!!」
「きゃっ!?」
自ら腕をへし折った狂気の虞泪が、希歌をはじき飛ばす。
気息奄々、怨身一体の彼女はのっそりと立ち上がり、ずかずかと無遠慮に結巳へと歩み寄って、その頭髪を鷲掴みにする。
「なにをしている、泥の聖杯」
「……あ」
「聖杯の役目は、泥の神気を垂れ流すこと。ひとの言葉に耳を貸してどうする?」
「…………」
「朽酒女菟め。地獄の釜を開くことで大洪水を押しとどめたつもりになっているようだが……地獄が開けば、こちらとて使える力が増すだろうが! さあ、やれ、聖杯! その力で、世界を焦土に変えて見せろ!」
「…………」
「解ったら返事をしろ、この出来損ない!」
「……はい」
結巳が。
今度こそ表情を、漂白されたように消して、両手を広げる。
指先から滴るのは、泥。
彼女は、それを大きく左右に振って。
街中に、飛散させる。
泥の雫を。
「邪魔をするなら、祟り殺すまで。ゆけ、泥人形達よ! 朽酒女菟を殺せぇ!」
放たれた泥は地に沈み。
やがて、地獄の底から這い出してくる。
ネクスト永崎タワーの根元は大地の裂け目とつながり、亡者とバケモノが犇めく泥沼と化す。
永崎の街が、泥に沈む。
人も、建物も、なにもかも。
そして異形のバケモノが列をなし、百鬼夜行となって、本殿──保たちがいる場所へと殺到する。
「どれほどあれが不撓の体現者でも、殺せば死ぬ。アレが死ねば、この悪あがきもご破算だ。世界は大洪水に漂白され、地獄からは亡者がせり上がる! もはや終わりだ、橘風太! オマエが抗ったせいで、余計に人間は苦しむ!」
どういう意味だ。
「本来なら天への道だけが開くはずだった。だが、朽酒女菟は地獄まで開けた! ゆえに世界は泥にむさぼり食われる。やがて地獄は飽食し、天の水を受け止めることもできなくなり、溢れる。地獄に繋がれたものは永遠の苦痛を味わい、残るものは生命を漂白され、精神生命への第一昇天が完了する! オマエがやったのはな、橘風太! 人間の苦しみを増やしただけなのだ!」
そん、な。
「に、逃げてください、保さん」
自分は、か細い声でカメラへと声を投げる。
「ああああああああああああ!?」
倒れていた希歌が絶叫し、身体を大きく仰け反らせた。
必死で押さえ込もうとする右手からは、漆黒の神気が立ち上り、奇妙な音を立てる。
かさ、かさささ……
生える音、覆う音。
彼女の右腕に、びっしりと鱗が生えそろい、身体を覆い始める。
「希歌さん!」
「ふ、うた、くんんんん……っ」
苦しげに身を捩る彼女は、倒れたときに強くぶつけたのだろう、頭から血を流し、こちらへと這いずってくる。
その髪は、蛇のようにのたうちはじめ、右手から始まった鱗の汚染は、顔にまで及んでいた。
「ごめん、ごめんね。あたし、もう──」
「……大丈夫。大丈夫だから」
なにが大丈夫なものか。
なにも大丈夫なんかじゃない。
このままじゃ希歌は、また聖杯になってしまう。
それでも自分はどうしてか、この絶望的な状況でも涙を流すことができない。
悔し涙の一つさえ零れない。
「きけけけ、かかかかかかか!」
勝ち誇るように笑う虞泪。
そして。
「…………」
虞泪に頭を掴まれたままの結巳が。
茫洋と、自分たちを眺めて。
世界を、見渡して。
「……ですって」
コポリ。
流れる。
零れる。
落ちる。
泥とは違う、清水のようなひと雫が。
涙が、一条の輝きとなって滑り落ちて──
「これでおわりなんて、かなしいですって」
「────!?」
刹那、全員が総毛立った。
悍ましいまでの恐怖を、絶望を感じて。
自分は、反射的に振り返る。
ぎょろり、闇黒に踊る両眼。
真紅、闇に裂ける三日月。
『──ぅなぁぁごぉお──』
「泥泪、サマ」
いた。
これまで何度も自分たちを苦しませてきた怪異が、確かにそこに。
そして──
「なんだ……? 貴様はなんだ? どこから、何故現れた? 泥の眷属……いや、わからない、お前は──なんだ!?」
突如取り乱す虞泪を見て。
「……ああ、そうか。そうだったのか──」
橘風太は。
突如として、すべてを理解した。
「
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