第四十三話 「ミヅチの巫女、ナズチの聖杯」
扉を開けた瞬間、魚のはらわたが腐ったような生臭さが、突風とともに吹き付けた。
黒く湿った風が身体の中心を吹き抜け、その嫌悪感に鳥肌が立つ。
慌てて自分は帽子を押さえ、そして屋上の有様に口の端を痙攣させた。
泥沼だ。
泥の領域が、そこにあった。
いびつな表情で佇む湖上結巳の両目、全身から溢れ出す泥が、屋上一帯を覆い尽くし、未知の生態系を発生させている。
焼け付く熾火じみた、まだらな光を放つ泥沼の中には、生物ともいえないような奇妙なモノドモが蠢き、ときに牙を、ときに爪を覗かせる。
ワニのようなバケモノがいた。
アネモネのようなバケモノがいた。
イソギンチャクが牙を剥き。
野霊が尻尾を波打たせる。
ここは異界。
異形の世界。
「きてくれたんですね、そよかぜおじさん! 待ってましたですってー。さあ、今度こそ一緒に、この世の終わりを見ましょうって!」
その中央に、壊れた人形のように笑う結巳と。
両目を血走らせた白装束の金泥虞泪がいた。
虞泪は結巳の背後に立ち、空の赤い海に向かって一心不乱に祈祷を行っていたが、やがて自分たちに気がついたのか、ゆっくりと視線を落とした。
「……っ」
希歌が息を呑むのが解った。
虞泪の蓬髪は総白髪になっており、右目に宿っていた闇黒は、にじみ出すように顔の半分を浸食していたからだ。
「来たか、水の巫女」
爛々と輝く眼で、虞泪が言う。
その声は相変わらずしわがれており、砂漠を一月も彷徨ったあとのようだった。
「不完全なる泥の聖杯はこの手にある。そして、羽化する直前の水の巫女が揃った。三千世界のカラスを殺す、我が大願成就の夜が来た! 永遠が……ここにあるのだから!」
希歌が叫ぶ。
「巫山戯るんじゃない! あたしたちが、それを止めに来た!」
「……活きのいい人格だ。だが、泥の神気に晒されれば、どうなるか……?」
虞泪が右手をこちらへ向ける。
瞬間、結巳は忠実に虞泪へと従った、心のない人形のように。
泥の聖杯の喉が、異常な音を吐き出した。
「るうういいいいえええああああああぃいいいいぁあああああぁるうううう!!」
てんでデタラメ、メチャクチャな音階の叫びが。
しかし、的確に何かに干渉する。
「う、ううう……!」
「希歌さん!?」
隣の彼女が、急にうずくまった。
額をびっしりと珠の汗が覆い、顔色は蒼白を通り越して色味がない。
希歌は右手を強く握りしめており、それだけですべてを察するにはあまりあった。
「希歌さんを、聖杯にするつもりか」
「道化師……この舞台にお前は無用だ。失せろ」
残念ながら、そうも行かない。
「ぼくは、結巳ちゃんと約束をしているので」
「もはや湖上結巳などという矮小な人格は存在しない。〝これ〟は、泥の聖杯だ」
「だとしても!」
自分には、やることがあるのだと。
希歌をかばうように一歩進み出ながら。
橘風太という道化師は、両手を突き出した。
「ショーマストゴーオン!」
§§
「舞台はまだ、始まったばかりだ!」
それは自分を鼓舞する言葉であり、同時に彼女へと語りかけるためのキーワードでもあった。
突き出した両の手のひらを目一杯に開けば、指の間にジャグリングの球が現れる。
「八連ジャグリング、見事やりとげましたら、拍手喝采!」
「抜かせ」
ボールを空中に放った瞬間、虞泪が動いた。
彼女の一挙手一投足に反応し、結巳の全身から奇っ怪な泥が立ち上がる。
それは異界の生物に命令を下し、こちらへと襲いかからせるには十分な権威を持っていた。
振り下ろされた丸太ほどもある尻尾を、側転しながら躱す。
落ちてきたボールを掴み、即座に宙へと投げ上げれば、眼前には巨大なサメのような乱ぐい歯。
鼻先に手を突いて、跳び箱の容量で跳躍。
飛び越えた先で再びボールを掴まえ、今度は左前方に投げながら地を蹴る。
寸前まで自分がいた場所を、数十本の肋骨じみたなにかが貫通。
冷や汗が滴るのと同時に、自然と口の端が吊り上がる。
「……うな」
虞泪が。
「わらうなぁあああああああああああ!!」
絶叫し、両手を振り下ろした。
「るううううぐふたんるううぅうむがふなぐるぅうううううう」
結巳の咆哮に調律され、異界の生態系が活性化。
同時に迫る無数の翅を躱しきれず、吹き飛ばされる。
「……っ」
衝撃に息が詰まる。
手に持っていたボールは、あちこちに散逸してしまった。
なら──
「で──では、バルーンショウはお好き? まずは花のひとつでも」
途切れそうになる呼気を、それでも取り出した風船に注ぎ込み膨らませる。
背後から飛びかかってくる無数の鼠のようなものをバク宙でしのぎ。
空中で素早くバルーンをひねって加工する。
「結巳ちゃん! さあ、きれいなお花が咲きました!」
「黙れ道化師! さっさと
真下から飛び出した、大部分が骨と牙のようなバケモノに突き上げられ、身体が宙を舞う。
全身に仕込んでいた奇術の道具がボロボロとこぼれ落ち、屋上のあちこちへ飛んで行ってしまう。
地面に叩きつけられ、内臓でも痛めたのか血反吐を吐く。
それでも。
だとしても。
「まだ、まだ笑うのか、道化師……ッ!」
笑うさ、何度でも。
目の前で泣いている少女を、笑顔にするまでは。
「だってぼくは〝そよかぜおじさん〟! どんな絶望だって吹き飛ばす、陽気な風に他ならないのだから!」
だから、立ち上がる。
「──だが。やはり無駄だったぞ、道化師。オマエの所為で、たくさん死ぬ」
「なに?」
「刮目せよ、神の降臨を!」
虞泪が、叫んだ。
自分の横を、誰かが歩み通り過ぎていく。
それは。
それは──
「希歌さん!?」
「────」
白目を剥いた、黛希歌だった。
§§
「希歌さん!」
「────」
彼女は応えない。
白目を剥いたまま、虞泪たちのほうへおぼつかない足取りで向かっていく。
「〝泥〟の聖杯よ」
虞泪がなにかを命じ、結巳がそれに答える。
放たれる神気としか言い様がない圧倒的なプレッシャー。
それが、希歌を直撃し。
「『──控えよ』」
恐ろしく低い声音で、まるで別人の表情で。
黛希歌は、その場にいる全員に命じた。
彼女は右手のグローブを取り去ると、さっと眼前に掲げる。
刹那、屋上のあちこちで爆発が起こり、黒煙が上がった。
爆発は水となり、自分たちの顔にビシャリと降りかかる。
「おお、おぉおおぉぉお……神よ!」
虞泪が、感涙にむせびながら、叫んだ。
「このときを、どれほど待ち望んだか。〝水〟の巫女を殺しても無意味だった。それだけでは、せいぜいこの街が吹き飛ぶだけだ。けれど、〝水〟の聖杯ならば話が違う。それは神に辿り着くための穴、神気のるつぼ。ああ、大願成就のこの夜を、幾百幾千夜待ち望んだことか──」
彼女は希歌の前に跪き、滂沱の涙をこぼし。
次の刹那には顔を跳ね上げ、哄笑を上げた。
「くけけ、きかかかかかかかかっ! みたか、みたか道化師! 傀儡、最初の死め! 我らはついに辿り着いた! 泥の聖杯、水の聖杯! ナズミヅチのすべてを手にした! これをもって、いまこそ世界を洗濯する。大洪水の再来を起こす!」
虞泪が腕を突き上げ、何事かを口に中で呟けば、それに異変が起きる。
夜空を覆い尽くす赤い海が盛り上がり、このタワーを中心に、いまにも決壊しそうなほど膨張を始めたのだ。
「水の巫女──否、聖杯よ! 今一度力をしめせ!」
彼女の言葉に応じるように、希歌が両手を左右に開く。
またも爆発が起こり、水の飛沫が空中を舞う。
「…………」
その様子を、首を傾げて見つめている者がいる。
湖上結巳。
泥の聖杯。
「ねぇ、おかあさん?」
「黙れ、いま我は随喜に打ち震えている」
「…………?」
結巳はさらに首を傾げる。
屋上に着いてからずっと見せていた、ニタニタという壊れた笑みはどこにもない。うねっていた髪すら力無く。
ただ不思議そうに。
おかしなぁとでも言いたげに小首を傾いで。
「せかいを、ほろぼすんですってー?」
「ああ、そうだ」
「そしたら、つらいこと、なんにもなくなるですか?」
「
「……でも、わたしとおかあさんは、一緒にいられるんですって?」
「────」
彼女の問いかけに、虞泪は。
実の母親は、答えた。
「黙れ。我は天の国へと昇る。人類すべて、生命すべて、死者さえも精神生命へと還元し、この星をもとある姿へと変える! だが、おまえはここで死ね。泥の聖杯は〝水〟の歯止めを消し飛ばすためだけのカウンターだ。奇跡の前の些事。死ぬためだけの人形が──我と同じ場所に行けるなどと思うな」
少女は、眼をぱちくりとさせて。
困ったように。
どうしたらいいか解らないような顔をして。
両目から、泥の涙を滴らせて。
「さあ、死ね。おまえが死ぬことで〝泥〟は再活性化し、それに引きずられて〝水〟の聖杯は真に覚醒する! 空は弾ける! さあ、失敗作の、使命をはたせぇええええええ!」
すべての準備が整い。
なにもかもが眼中から消え。
最後の命令を、虞泪が発したその刹那。
──それこそが、自分たちの待ち望んだ瞬間だった。
「ふっ、ざけんなあああああああああ!!」
「なぁっ!?」
何者かに背後から組み付かれ惑乱する虞泪。
その正体を知り、彼女は驚愕する。
「黛希歌!? なぜ!?」
「なぜもへったくれもあるもんか! こどもを犠牲にして世界を変えようなんて、反吐が出るったらありゃしない!」
「そんなことはどうでもいい! 何故人格がある!? 聖杯に置換されたはずのオマエに!」
「ふん……あのね、あたしは」
彼女は。
黛希歌。この幼馴染みは!
「ずっと、〝水〟の聖杯という演目を、演じてただけなわけ!」
「っ!?」
絶句する虞泪。勝ち誇る希歌。
そう、彼女の神気で起きた爆発も。
水しぶきさえも、すべては仕込み。
奇術を披露している間にばらまいた──ボールやバルーンに仕込んでいたもの!
「は──謀ったなぁぁあぁああ、痴れ者めぇえええ!」
「うっさい、未来の大女優を……ナメんなッ!」
「ガッ!?」
「風太くん!」
虞泪を押し倒し、そのまま組み伏せた彼女が自分を呼ぶ。
震える手足に鞭を打ち、橘風太は懐から〝それ〟を取り出す。
「結巳ちゃん」
それは、卓上プラネタリウム。
天井に星を描く、小さな灯火。
「約束、果たしに来たよ?」
だから。
「一緒に、星を視よう!」
プラネタリウムのスイッチを入れながら。
自分はカメラに向かって、全力で叫んだ。
「いまです──加藤さん!」
瞬間、永崎の街を。
蒼い光が包み込み──
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