第三十七話 「ユメノナカで出会ったような」
真っ白な場所にいる──と、ぼんやり思った。
どくん、どくんと胎動する、母親の胎内のような。
あるいは、おくるみに巻かれているような奇妙な安らぎ。
……よくわからない。
ちっとも考えがまとまらなくて、自分というものすら、ここではほどけて千切れていく。
このまま消えていくのだろうか茫洋と思ったとき。
なにかが、目の前にいることに気がついた。
苔色の長髪が、ふわふわと揺れている。
奇妙なグラデションをした瞳の少女が、膝を抱えている。
夕焼けのソラと、夜の藍色がきれいに別れたような、そんな瞳の少女。
けれど美しい瞳からは、絶えず涙がこぼれ落ちている。
あなたはだぁれ?
そんな言葉を投げかけると、ゆっくりと少女は顔を上げた。
「人に名前を尋ねるときは、まず自分からするものですってー。そんなふうに、わたしは習いました」
なるほど、正しい。
……けれど困ったことに、自分は名前がわからない。
そこで初めて、自分は自分が誰なのか認識できていないことに気がついた。
なんというか、そんな小さな事は、とっくに喪失してしまったようで。
「なくなってなんかいませんって」
え?
「どんなに小さな命でも、覚えている人はいるものですって。はい、わたしは知っています。あなたは──黛希歌さん、ですね?」
「──ッ」
その名を呼ばれた瞬間、消滅しかけていた自分の輪郭が、ギュッと凝縮されるように形を取り戻す。
「あ、あたしは」
「……呑まれかけていたんですってー。〝水〟は大きなものなので」
水?
いいや、覚えがある。
忘れているようで、覚えていることがある。
たしか。
確か自分は、保たちを──
「待って。あなたはどうして、あたしの名前を知ってたわけ?」
「簡単ですってー」
どうしてかと訊ねれば、少女は儚げに微笑む。
「だって、あのおじさんはお見舞いに来るたびに、お姉さんの話ばかりするんですもの」
おじさん?
「はい、わたしの大切な恩人です。なので、最後に恩返しをしにきたんです。わたしってえらい!」
「そのひとは、だれ?」
「それは……ナイショです。わたし、ちょっぴり怒っているので。でもでも、こちらは教えてあげますねお姉さん。あなたが忘れてしまった、真実なら」
彼女がそう口にした瞬間だった。
世界が/暗転した。
§§
暮れなずむ夕焼けの中、幼い日の黛希歌が、病床に臥せっている。
死の直前、医者がなすすべもなく首を振るなか。
まったく別の離れた場所で、一心不乱に祈祷をなすものがいた。
それは蓬髪をバサバサと振り乱し、首が折れるのではないかというほど激しく
焔の中には、次々に土器の皿が。
太極図の描かれた皿が投げ入れられ、緑色の炎色反応を起こす。
何者かは、女とも男ともつかない風貌をしていて、呪詛を唱える声は低く、吐き気を催すような汚れた装束に身を包んでいる。
呪詛。
そう、それは呪詛だった。
遠く離れた地にいる黛希歌を、より死の世界に近づけるための呪い。
彼女を〝水の聖杯〟として覚醒させるための呪術だった。
幼い希歌の顔が苦痛に歪む。
その場にいる誰にも見えなかったが、彼女の全身を闇黒の靄が覆っていた。
呪術師は頭から糞尿を被り、一層強く、呪い、念じる。
幼女の心臓が、はち切れんばかりに脈打ち、やがて鼓動を弱めていく。
医者が、居合わせた親族が、なによりひとりの少年が、衝撃を受けたように立ち尽くし、次いで、慌ただしく立ち回りはじめる。
少年が、どこかへと走り去り。
そして、幼女は──
「このとき、本当はお姉さんは死ぬはずでした。あおい天国がふってきて、世界は洗濯されるはずでした。けれど──祈る人がいたので」
幼女が死んで、生者がひとりもいなくなった病室に赤い影がよぎる。
その影は物言わぬ幼女へとなにかを問いかけると、小さく頷いた。
そして、自らおのれの口元を、メリメリと引き裂く。
現れたのは、いびつな赤い笑み。
口の裂けた女は、そして躊躇なく、幼女の心臓へと拳を振り下ろした。
ドクン!
止まったはずの心臓が跳ね、同時にとんでもない霊的な衝撃波が周囲に拡散する。
遠方の呪術師が、地面と垂直に吹き飛ばされた。
衝撃波によって護摩の中の杯が破裂し、呪術師の右目に突き刺さったのだ。
獣のような雄叫びを上げ、血をまき散らしながらのたうち回る呪術師。
一方で、幼女を救った何者かも、無事ではなかった。
神に繋がるものに触れた拳はズタズタに引き裂かれ、顔面の傷は正視に耐えず。
それでも、救い主は幼い希歌の髪と頬を撫で、満足そうに立ち去る。
去り際に、一言。
「泣く子と地頭には、勝てないからなぁ……」
そう、呟いて。
「このとき、お姉さんを呪っていたのが、わたしのお母さんです。お母さんは呪詛返しにあって。でもそのおかげで、ちょうど妊娠していたお姉ちゃんを〝泥の聖杯〟にすることができました」
ときが飛ぶ。
十年の歳月が流れる。
どこかの宗教施設──いや、覚えがある。ここは、泥泪サマを祭っていた──
「お母さんはお姉ちゃん──澪おねえちゃんを使って、またも希歌お姉ちゃんに呪いをかけようとしました。でも、失敗したんですってー」
閃光。
爆発。
地割れ。
地面より溢れ出す、溶岩のような汚泥が、なにもかもを飲み干し。
そこは、不毛の地へと変わる。
「希歌お姉ちゃん──〝水の聖杯〟は封印されていたので、呪いが暴走してしまったんですって。それで、澪お姉ちゃんは死んで──わたしが、うまれました」
……それは。
「あー、気に病むことはないですって。わたしはとても苦しかったですが……いまはこのとおり、好きにすることが出来ますから」
好きにする、とは?
「簡単に言うと、希歌お姉さんの封印を解いて、世界を洗濯します」
え?
「このくるしいばっかりの世の中を、洪水で洗い流して天国に変えるんです。だって、価値がないですって。お姫様が苦しんでいても、だぁれも助けてくれないなんて、ここは地獄ですって」
だからって。
「──いやいや、だからってなんて誰かを責める資格、きみにはないと思うんだよね、黛ちゃん?」
突如、第三者の声が白い空間に響いた。
ひとの癇に障るような、なんとも自己陶酔に満ちた声音。
それは──
「そう──TAKASHIが言うんだから、間違いない」
あの日死んだはずの亡霊。
人気ユアチューバーTAKASHIこと、
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