第二十七話 「実践だよ実践!」
「なあ、おい。いま、ネコの鳴き声がしなかったか?」
それに気がついたのは、希歌たちだけではなかった。
他の席に着いていた客たちも、なんだなんだと周囲を見回し始める。
声が、数を増す。
声が、距離を縮める。
声が、明瞭となった。
『──うなぁあああああああああ──』
それは、赤ん坊の泣き声だった。
このときには、希歌たちは荷物をまとめていた。いつでも席を立てるように身構えていた。
血走った三対六つの眼が、店内をくまなく探し。
そして──気がつく。
ごぽっ、ごぽり……
粘度の高い音を立てて、誰かの湯飲みに熱湯が注がれる。
けれどそれは、途中から色を変え。
やがて泡立つ泥へと、変貌を遂げる。
「なんじゃこりゃあ!?」
誰かの怒声。
次に悲鳴が上がった。
ハッと視線を転じれば、さきほどまで楽しそうに食事をしていた親子連れが、ぐらりと床に崩れ落ちている。
父親も、母親も、老婆も、子どもも。
その、全員の両目からは。
「〝泥〟の涙……!」
希歌たちにとっては見慣れたものが、垂れ流されていたのだ。
「ご、ぶぁ!?」
家族連れの前にいた客が、泥を噴水のように吐き出しながら倒れる。
その隣の客は、すでに身体中から泥を溢れさせる。
店の奥から、希歌たちに向かって。
泥の被害者たちが、寄せる波のように次々倒れ込んでくる。
その起点に。
『ニタァ……』
希歌は、確かに泥人形の姿を見た。
「カトーさん! 泥人形がいる!」
「──黛ぃ! 田所! すぐに出るぞ!」
「は、はいッス!」
保の判断は速かった。
希歌の言葉を聞くなり、蹴立てるように席を立ち、会計へと走る。
多めのお札を、パニックになっている店員へと保は投げつけ、そのまま店の外に転がり出る。
「黛! 泥人形、ついてきてるか!?」
「自分で確認すればいいじゃん!」
「──だよ」
え?
「俺には見えねぇんだよ! たぶん田所もだ! だから、おまえが見ろ!」
「……っ」
そんな馬鹿なという心地も起きない。
だってこれは、どう考えても日常のそれではないのだから。
店内を見るが、泥人形の姿はない。
「いない! でも──」
でも、だけれど。
店の外は、地獄のような有様だった。
夕暮れ時の街並み。
家路につく人々であふれかえっているはずのメインストリートは、死屍累々の有様だったのだ。
子どもが、老人が、男性が、女性が、人種性別、老いも若きも関係なく倒れ伏し。
泥の涙と反吐を吐きながら、喉を掻き毟りのたうち回っている。
「こんな、ひどい……大丈夫ですか!」
倒れたものに片っ端から駆け寄り声をかけるが、だれも真っ当な返事をできない。
目を見開き、喘息のように喉を鳴らし、凄絶な表情で硬直している彼らには、身動きすら許されないのだ。
「な、んで、こんな……」
「どいてろ、黛ぃ!」
茫然自失する彼女を、張り詰めた怒声が押しのけた。
どこから持ってきたのか、熱された中華鍋を握った保がそこにはいて。
「か、カトーさん、それ」
「あ? そこの中華屋で作ってきた。酒と塩を炒めた、特製お清めの塩水だ!」
「そんなもん、どうするんスッか!?」
「〝泥〟は塩と水が苦手なんだろうが。だったらよぉ、実践だよ実践! エクスタシィをキメるんだよ!」
言うが早いか、保は酒に溶け残った大量の塩をひと掴みすると。
目の前の倒れ伏している子どもに、思いっきりぶちまけた。
「ちょっ!? カトーさんしゃれにならないって!」
「うっせぇー! 俺がやるっつったらやるんだよ! うぉおお、〝泥〟! 死ね! 〝泥〟!」
半狂乱で塩水をばらまき続ける保。
正気の沙汰ではなかったが──
だが、それは意外なことに、奇妙な効果を現した。
倒れ伏していた人々から溢れる泥の量が目に見えて増し、苦悶の表情がだんだんと消え、無表情になっていくのである。
「効いてんじゃねぇか、効果は抜群だなッ」
「どっちかっていうと悪化してるじゃん!? あー、もう、むちゃくちゃだよ、カトーさん……」
ガリガリと髪を掻き毟る希歌だったが。
あまりの荒唐無稽さに、口元が苦笑で歪んだ。
それを見て、保も太い笑みを浮かべる。彼がこちらへと手を伸ばす。
ゴツゴツとした手が、希歌をひいた。
「いくぞ黛ぃ」
保が、彼女を引っ張りながら、所在とともに駐車場へと走る。
「ともかく、こっから逃げるのが最優先だ! どう考えてもコイツは〝泥〟の攻撃だし、俺たちの手には負えねぇ」
「けど、カトーさん」
「けどもなにもねぇ、やれることはやった。救急車も呼んだし、いまはテメェらのことで精一杯だろうが。田所、運転しろ! 俺は川屋先生に連絡を取る!」
「合点ちゃんッス!」
後部座席に希歌を押し込んだ保は、そのまま助手席に滑り込む。
「どこに行けばいいッスか!? 観光スポットの撮影たらい回しにされたおかげで、地図なら頭の中に入っているッスけど!」
「とりあえず、病院に引き返……せ?」
スマホを取り出して、華子へと連絡を試みていた保だったが、その顔色が急速に青ざめる。
ぼとりと彼が取り落としたスマホ。
それを希歌が拾い上げようとして。
保が、叫んだ。
「よせ、触んな!」
「──え?」
と、声を上げるよりも早く。
スマホが、
『……ナァーゴ……』
何かの鳴き声を、吐き出した。
なぁご、なぁーご、なぁー、うなぁー、おぎゃぁ、おぎゃあ──
漏れ出す音は、やがて輪唱となり。
次の刹那、スマホのパネルから、噴水のごとく〝泥〟が吹き出した。
「きゃぁ!?」
「くそったれ!」
保がスマホを外に蹴り出し、所在が慌ててアクセルを踏む。
大通りに飛び出したバンは、至る所で立ち往生している車の間を縫って走る。
車からは、喉をかきむしった人々が、救いを求めるように転がり出ていた。
「カトーさん、これ」
「泣くな」
「でも……!」
「それでも泣くな! 自分の目元、拭ってみろ!」
言われるがまま、希歌は目元に触れ。
「────」
言葉を失う。
指先は黒く濡れており。
それは溶け出したメイクなどではなく──〝泥〟そのものだったからだ。
「たぶん、川屋先生もやられた。くそっ! こんなときに橘センセは何してんだ!?」
「風太くんは──」
たぶん、自分を殺そうとしている。
そんなことを、希歌が言えるわけもなく。
ただ重く、空気の沈殿する車内に。
「その件なんッスけど」
所在の覚悟を決めた声が、響いた。
「TAKASHIさんについて、調べてみないッスか?」
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