第十四話 「泥泪サマの杯を」
階段を降りきると、そこには扉があった。
踊り場に全員が降り立って、どうするかを考える。
番組的には、希歌が開けるのが正解だろう。
しかしここにきて、TAKASHIが譲らない。
「ここ、一番の見所でしょ? それはTAKASHIの役目だと思うの」
「で、ですがねぇ。こっちも主演女優が活躍無しとなると……」
「大事なのはTAKASHI。そして再生数。違う?」
ギスギスとした雰囲気。
その元凶が誰なのかは明らかで。
けれど、誰も何も言えないでいる。
重苦しい空気が立ちこめるなかで、希歌が、拳を震わせていることに気がついた。
「ばっ──」
「それでみなさま! よくご覧あれ」
彼女が激発する寸前、風太は扉の前に飛び出し、両手で顔を覆っていた。
「わん! つー! さん! し!」
ことさら
「ほぉ……?」
TAKASHIが、少しばかり興味深いといった顔をした。
先ほどまでただの雑用係にしか見えなかった風太の顔に、いまはクラウンのメイクが引かれていたからだ。
ポンと音を立てて、赤くて丸い鼻を装着すると、風太はにっこりとおどけてみせる。
瞬間メイクと呼ばれる類いの奇術だった。
「へー、面白いことができるんだね、雑用くん。それは、不思議の技ってやつかい? 霊能力?」
「〝そよかぜおじさん〟と呼んでおくれ。楽しい風を運ぶ〝そよかぜおじさん〟!」
「〝そよかぜ〟でも〝よたもの〟でも構わないけどさ。ふーん、はーん?」
彼は風太と、目を丸くしている希歌を見比べて。
それから下世話な笑みを浮かべた。
「いいよー、気が変わった。この扉は黛ちゃんが開けていいぜ」
「え?」
「だってTAKASHI、馬に蹴られるほどバカじゃないもん」
「────ッ」
言葉の意味を理解して、希歌はつかみかかろうとしたが、今度は保が押しとどめた。
ふたりは視線を交わし、やがて希歌が頷く。
「3、2、1……それじゃあ、開けますね」
仕切り直しの編集点を挟んで。
いよいよ、一行は扉を開けた。
「…………?」
暗闇。
真っ暗だった。
扉の向こう側は、闇黒の世界だった。
ライトの真っ白な灯りが闇を切り裂くけれど、しかしそれですら一番奥までは照らし出せない。
よほど広い空間が、そこにはあるようで。
「黛」
「解ってるよ、カトーさん。行きましょうかTAKASHIさん?」
「うんうん、すべての道はTAKASHIに通ず。TAKASHIが先頭に立つよ」
意気揚々と歩き始める彼の後を、一行はついて行く。
どれくらい歩いたか。
軽く息が上がるぐらいの距離を進んだとき、鼻先をツンとした臭いが捉えた。
腐敗臭。
そして。
「……風太くん。これ、さっきからあった?」
希歌の問いかけには、無言で首を横に振るしかなかった。
その場にいた全員。
TAKASHIですらが、ぎょっと身を引く。
ほんの最前までなにもなかったはずの場所、目の前に。
見上げるほど大きな祭殿が、存在していた。
「え? なにも、なかったよな? 所在、動画どうなってる?」
「撮れてるッスよ。ただし映ったのは、いましがたです」
「へー。やるじゃん、いいじゃん、ディレクターちゃん。これ仕込みでしょ? 大規模だねぇん、ロマンだねぇ」
ウキウキとした調子になったTAKASHIが、不用心に祭壇へと近づいていく。
祭壇の形は神社のそれと言うよりも、大陸のものに近い。
天皇や皇帝が腰掛ける高御座のような、御簾に覆われた祭壇。
その上の部分には、黒と白の球体が絡み合うような──いわゆる太極図のような──いびつにねじくれたエンブレムが刻印されている。
御簾の内部によく目をこらせば、なにかが安置されているのが見て取れた。
「さかずき……?」
台座の上にのせられた、
「これ、そうじゃない? そうでしょ? 泥泪サマの──」
「──聖杯」
希歌が言い終えるより早く、彼は。
TAKASHIは駆け出していた。
そうして御簾を剥ぎ取り、祭壇へ躊躇無く踏み込むと、杯を無造作に持ち上げる。
「ちょ、ちょっとTAKASHIさん!?」
「そう目を白黒させなくたっていいじゃないか黛ちゃーん。TAKASHIは、これに呼ばれてきたんだから。繋がってるものに繋がってるんだなぁ」
呼ばれて? 繋がる?
それは、どういう意味だ?
「ふふん」
彼は、鼻で笑った。
「しかしまあ、これは事情が変わったかな……視たい夢は変更か……」
「……?」
彼は何故か、皮肉を煮染めたような表情でこちらを見る。
それから、合点がいったように何度か頷き。
「それで? どうすればいいんだったかな? 願い事を思い浮かべると──泥が湧くんだったっけ?」
目を閉じ、TAKASHIが祈るように杯を抱くと。
ゴポリ……ゴポリ……と。
どこからか、重く沸き立つような音が響く。
「あ!」
希歌が指差した先。
TAKASHIが持つ杯の底から、重油のような粘着質の液体が、湧き出しているのが見えた。
それは、杯をいっぱいに満たし。
「これを飲み干せば、願いが叶うんだったよねぇ? でも、噂話じゃ自分が飲まなきゃいけないなんて言ってない」
かつん、かつん。
足音を不気味に響かせながら、彼が祭壇から戻ってくる。
その視線は、真っ直ぐに希歌に固定されていて。
「ねぇ、黛ちゃん。TAKASHIの代わりにさぁ──」
彼が、笑う。
「この泥、飲み干してくれるぅ?」
「えっ」と声を上げる希歌に、TAKASHIは穏やかな表情とともに近づく。
けれどそれは、穏やかすぎて。
風のない海が、これから
「TAKASHI、この建物に呼ばれたって言ったじゃん? そのときにさぁ、黛ちゃんがこれを飲む姿も見たんだよね、夢で。あの白と黒のマークも見たし、間違いない」
「で、でも」
「でももだってもないさぁ。これは黛ちゃんの番組でしょ? だったら──わかるよねぇ?」
あれだけ豊かだった表情が、いまのTAKASHIには欠片もなかった。
ただ薄暗がりの中に、無表情の長身の男が立っているのである。
その手の中には、水面が揺れることもない泥の詰まった杯が握られており。
一歩、また一歩と希歌の方へと近づいてくる。
彼女が助けを求めるように保を見て、そして絶望したように目を見開く。
希歌の上司であるディレクターは、苦悶の表情で俯き、「飲め」と一言告げるのだった。
「ディレクターちゃんは賢いなぁ。TAKASHIそういう契約でここに来たからね。黛ちゃんにこれを飲ませるのが仕事なワケ。わかる? 知らないと思うけど、TAKASHIの台本にはそう書いてある」
「…………」
「オカルトに体当たりするのが、黛ちゃんの仕事でしょ? 仕事もろくにできないやつが売れるわけ無いじゃん。このまま動画がお蔵入りになってもいいのかって話で──」
「──飲む」
はぁ? と、わざとらしくTAKASHIが耳に手を当てて聞き返す。
それを、決然と睨み付けながら、ゴシックドレスの主演女優は、覚悟の言葉を口にする。
「あたしが! 飲むって言った! 泥泪サマ? 祟り? なんだか知らないけど──あたしはプロなんだ! 動画のためなら命だって賭ける! だいたい、ここまで全部ホンの通りなんでしょうが! ならやるつってんの! だから!」
彼女の手が閃き、チャラけた男から杯を奪い取る。
震える希歌の手の中で。
それが、チャプンと、揺れた。
ちゃぷん。
──遠いどこかで、水音がする。
ちゃぷん。
ひとつ、ふたつ、みっつ……水滴の落ちる音が、増えていく。
ちゃぷん──
ぞろりと、暗闇がうごめくのを感じた。
「……なに?」
怯えたように一歩下がる希歌。
その手の中で、奇妙な変化が生じる。
杯の水面がざわざわと波立ち、色を泥のそれから虹の色彩へと変えていくのだ。
「虹色の、泥……?」
そうして、泥が変化を終えたとき。
同じように、水音も止まる。
希歌は不安げに周囲を見渡すが、それ以上の変化はない。
ただ、もうひとりのユアチューバーが、睥睨するように彼女を睨み付けているだけで。
「飲みなよ」
「飲むって」
「はやく」
「わかってるから」
「さあ、早く!」
「──っ!」
促されるままに、彼女が杯に唇をつけた。
その刹那──
「飲んではいけませんよ! 黛さん……!」
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