嗤う泥泪

雪車町地蔵

幕外 ~アウトサイド~

第虚話 『泥の嗤笑』

 頭から布団を被る。

 それでも、病室の隅にいる〝あいつ〟の姿を完全に視界から追い出すことはできない。

 網膜に焼き付いた、真っ黒な人形。


 ──〝泥泪でいるいサマ〟。


 下手な子どもが──自分もまだまだ子どもだけれど──投げやりに泥をこねて作ったような、奇っ怪なそれは。

 水分過多で、どろりと溶けては、垂れ下がる。


 ぎょろりと、泥の中に咲く眼球が。

 音を立てながら、自分を探している。

 なによりも。ああ。

 あの、あの真っ赤な三日月が──


「どうして……どうしてこうなったのでしょうか。きっと、わたしが悪かったのですって」


 呟く声は、きっと誰にも届かない。

 けれども悪いのは自分だと、湖上こじょう結巳ゆいみは失敗作だと、これまで幾度も繰り返し否定されてきたのだから。

 きっと今回も、自分が悪いのだろう。


 だから、あんなおぞましいものが、ずっと見えてしまうのだ。


「ああ……」


 何度目かも解らない絶望を口から吐き出し、ギュッと目を閉じる。


 脳裏に刻まれた泥人形の三日月は陰らない。

 それは、真っ赤な笑顔だから。


 泥の人形はわらっている。

 ケタケタと声もなく哄笑している。


 どうして。

 なにが楽しくて笑っているのか、解らない。


『あれはね、〝ナズミヅチ〟と云うのだ。そういう現象に、いまは〝泥泪〟という記号が与えられている』


 ずっと前に聞いた母親の声が、今になって残響する。

 この頃の母は、まだ優しい眼差しをしていたはずなのに。

 いまはそれすらも、ただ恐ろしい。


「ううう……」


 うめき声は、張り付いた喉を引き剥がすように痛ましく。

 世界のすべてが恐ろしいモノであるような幻覚に震え。

 いつしか、自分は渇きに喘いでいた。


 喉が、渇く。

 飲み込む唾液すらないぐらいに、口の中はカラカラだった。

 根負けしたように、とうとう布団から顔を出す。

 見る。


 いつもの病室。

 ……やつの姿はない。


 あんな怖ろしいモノに、どうして付け狙われるのか、幼稚な自分には理解のしようがない。考えも及ばない理由があるのかもしれないけれど、解らない。

 できるのは、ただ祈ることだけ。


「お願いですから。お願いしますから……」


 必死に祈りながら、枕元の楽飲みへと手を伸ばして、


「────」


 湖上結巳は、卒倒した。

 枕元で泥人形が。

 真っ赤な口を開いて、ケタケタと笑っていたからだ。


 消えゆく意識の仲で、考える。


「ああ──どうして」


 かみさま。

 どうして。

 どうして自分は。


「こんなにも──笑えないのでしょうか……?」


 いつからか、こころから笑うことはできなくなって。

 皮肉にも、自分の代わりに、怖ろしいモノが、洪水のように笑い声を上げる。


 苦しみばかりの人生。

 悲しいばかりの人生。


「だったら」


 幼い少女の意識は、絶望のうちに暗転した。

 最後に、


世界おまえが死んでしまえばいいのに、です」


 小さな。

 けれど確かな怨嗟を、呟いて。

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