第9話 中央学府
「君、悪いけれど、お使いを頼まれてもらえないかな」
城のまわりも夏めいてきたある日の朝、サリクスは僕を呼びつけてそう言った。彼の前の作業机には、書類の束と宝石箱の山があった。サリクスはそれを丈夫な革の鞄に詰めているところだった。
「学府へですか?」
「うん。前回アルジャンが、次は君を寄こすように言っていたのを思い出した。唐突で済まないが、君さえ良ければ挨拶がてら行って、ついでに羽を伸ばしてきたらいいんじゃないかと思ってね」
サリクスはどうやら数ヶ月に一度、こうして依頼の品をアルジャンに届けているらしい。稀石はともかく、護符はその辺で適当に売ってもかなりの金額になる。盗難の可能性を考えると気が引き締まる思いがするが、幸いここから学府までの道はよく管理されていて、それほど治安も悪く無いはずだ。大切な品物を僕に預けてくれるのは単純に嬉しいことだった。
「それは嬉しいですね!バートルド教授にはお手紙を出しましたが、直接お礼を言いたいと思っていましたから。ついでに学府の図書館にも寄ってきます。先日サリクスに訊ねた薬品のことも調べたいので」
「それはいいね。では、荷物が多いけれど頼むよ」
荷物を詰め終えたサリクスは、鞄の蓋をなぞって魔法で封印をした。
「お任せください。できるだけ遅く帰ってきますからね」
僕はそう言って、とびきりの笑顔で片目を瞑ってみせた。
結界の反転は無事に直り、今では僕も自由に下山できるようになっていた。度々麓の村に使いに出ることがあったが、学府まで足を伸ばすのはここにきてから初めてのことだった。
サリクスは魔法陣を利用する転移魔法が使えるらしく、長く城を空けることもなかったが、まだ高等魔法が使えない僕は歩いていくより他なかった。転移魔法は術者を運ぶことしかできないのだ。
鞄を背負って外へ出ると、夏の山は生命力に溢れていた。日を透かした緑の色も鮮やかに、梢枝はたっぷりと重たく茂り、空は柔らかに濃く青く、清潔そうな綿雲が浮かんでいる。標高が高いので気温はそれほど高くないが、日差しが強い。それでも風が吹けば爽やかで、気持ちの良い日和だった。夏は日が長くて旅をするにはいい季節だ。
サリクスの城から学府まで、歩いて二週間ほどの道程だったが、サリクスが路銀を奮発してくれたので、僕は州都から乗合の馬車を使って学府へ向かった。
快くお使いを引き受けたのには、サリクスに話したことの他にも理由があった。サリクスの言葉を疑うわけでは無かったが、あの小箱の黒い指先について調べたかったのだ。サリクスが自分の罪を償いたがっているらしいのは彼の態度からして明白だった。それなのに彼が証拠をただ小箱に入れて持っているだけなのは、なにか理由があるはずだった。名声や富にサリクスが執着するとは思えなかったし、サリクスが当事者だとするならば、僕がセントラルで彼のことを調べ回っていた時に、悪い噂を耳にしなかったのも不思議だった。高等院には、何十年も研究に励む年嵩の魔法使いも多くいたからだ。
†
「おお!待っていたよ、リコ君!よくきたね、可愛い教え子よ!」
年齢の割に張りのある丸い頬をした老魔法使いは、僕を見るなり大仰に両手を広げた。三角頭巾の下からもしゃもしゃした白い髪と髭が溢れて赤い顔を縁取っている。その顔全部を笑顔にして、アルジャンは僕を抱きしめた。彼は、鮮やかな緑のローブの袖が乱れるのにも構わず、僕に盛大な歓迎の口づけをし、力強く背中をたたいた。僕はそれからまた抱きしめられて、肩を押されてよろめきながら研究室の中へ通された。
高等院 研究棟一階の、南向きの角部屋がアルジャンの研究室だった。研究棟は石造りの建物で、天井の高い屋内にも明るい色の大理石が使われていた。教授の趣味が反映されるため部屋ごとにだいぶ趣きが異なるのだが、アルジャンの部屋は明るくて風通しが良く、しかし彼の仕事道具に紛れて雑多な美術品や骨董品が飾られており、調度類は古風で温かみがあった。いかにも持ち主の性格を反映した部屋だった。
彼の仕事道具については、なんとも説明が難しい。使途不明の管だらけの金属管、計測機のついた窯や、大きなバランサーをはじめとした装置類である。彼はセントラルの二年生に、魔力を上手く引き出したり、方向付けたり、整えたりする、魔力操作の術式を教える授業を持っていたが、装置による魔力操作も研究しており、その装置というのがこの雑多な機械類なのだった。その種類は多岐に渡る。旺盛な好奇心の赴くままに、長年いろいろなことを試してきた結果がこれなのだと言いながら、いつか研究室の装置について説明してくれた事があったが、正直僕には何がなんだかさっぱりわからなかった。
「サリクスから連絡をもらって楽しみにしていたんだよ!ああ、元気そうでなによりだ」
アルジャンはもともと赤い顔を興奮でさらに赤くしながら、心底安心したというふうにため息をついた。
「さぁ!話題の種は山ほどあるぞ、お茶を淹れようじゃないか。ところが今日は助手をもう返してしまってね。ちょっと待っていてくれるかね」
真紅のベルベットが張られたマホガニー製の長椅子を勧められた僕は、けれど荷物を床に下ろして顔を上げた。
「よかったら僕にやらせてください。以前は僕がお茶を淹れていたんですから、久々に」
「そりゃいかん!今日の君は客人だ。今度君たちのところを訪ねるつもりだからね、その時に頼むよ。今はだめだ。あぁこれこれ、戻って!君はそこに座ってなさい。そうそう、大人しくしているんだよ」
彼の手にかかると自分が小さい子供か、犬か猫にでもなったような気持ちになった。じっさい玄孫までいるらしいアルジャンは、自分の孫のような気持ちで生徒に接しているのだろう。僕が特別贔屓されているということではなく、彼は誰にでもこんな調子なのだ。
アルジャンはいかにも楽しげに、暖炉のそばにかけてあったお湯を汲み、古めかしいが趣味の良い茶器をがちゃがちゃいわせながら戻ってきた。僕はお茶を注ぐのを手伝った。
「リコ君!君は大変なことをしてくれた、大変なお手柄だ!いやいや、まさかあのサリクスが共同研究なんてね!いやまだ助手かな?いや、どちらにせよすばらしい!ああ本当にすばらしいことだ!君が高等院に進まないと聞いた時には残念に思ったものだが、サリクスの元にいた方が君も得るものが多いだろう」
僕の向かいに腰掛けるなりアルジャンは声を上げた。褪せてほとんど灰色のように見える水色の瞳を輝かせ、アルジャンは何度も手を挙げて喜びを示した。彼の前にいると、こちらまでつられて笑顔になってしまう。
「バートルド教授のお陰で、僕はサリクスに会うことができました。どうもありがとうございました」
「サリクスは君に優しいかね?」
「ええ、とても親切にしてくださいます」
「そうかそうか、あの子はね、優しい、いい子なんだよ。私が受け持った生徒の中でもひときわ聡明でいい子だ。君も同じくらい賢くて優しい子だからね、もしかしたら話ができるんじゃないかと思っていたんだよ。だから、君から指輪のことで相談を受けた時には嬉しくてね。いや、つい口を滑らした。春にはサリクスに怒られてしまったが、先日またあの子が来た時には、君が来てくれてよかったというのだから驚いたよ。うまくやっているならよかった。けれどあの子は魔力が強いからね、それだけは、君、よくよく気をつけなくちゃいけないよ」
「ええ、教授。それで……今日僕は、そのことについて、教授にお聞きしたいことがあったのです。けれど、今この時になっても、教授にこの事を尋ねていいものか判断がつきません。サリクスの過去についてです。不適切な話題でしょうか?」
アルジャンは微笑んだまま、左眉を持ち上げて見せた。僕は探り探り言葉を続けた。
「人の過去を勝手に詮索するのはよくない事でしょうね。けれど、知っておいた方がいい事なのではないかという予感がしているんです」
「ふぅむ。そうだね、私も知り合いの過去について勝手に他人に話すのは気が進まないね。よく知られている話ならば、まぁ話せないこともないがね」
「サリクスが学府を去ったときのことは、よく知られた話でしょうか?理由ではなくて結構です。状況を詳しく知りたいのです」
「ああ!君は本当に賢い子だ。君のような教え子を持つ喜びといったら!教師冥利に尽きるとはこの事だ」
彼はいつも生徒を褒めるが、さすがに僕は恥ずかしくなって俯いた。言ったのがアルジャンでなかったら、僕はきっと皮肉として受け取っただろう。
「話せる範囲で話してあげようかね。君は何を知っているんだい」
「……サリクスが学府を去る前に、気がかりな事件があったそうですね。人がひとり――姿を消したと聞きました。サリクスはその事件の中心に居たのでしょうか。つまり関与が疑われていたのでしょうか」
「君のいう通り、不可解な事件があった。そしてサリクスは事件の証言者だったよ」
「それは、サリクスが自ら名乗り出たのですか」
「そうだ。彼だけが経緯を知っておった。彼が黙っていれば、そうとは分からなかっただろうな。けれど彼の説明は少し、信じがたいものだった」
「彼の告白は表沙汰にならなかったようですね。それはなぜでしょうか。当事者の言なのに詳しい調査も行われなかったのですか」
「それには色々と事情があってな。どこから話そうかね……」
長く伸ばした髭を撫でながら、アルジャンは遠い目をしてしばらく黙った。
「これは広く知られた話ではないし、むしろ限られた関係者しか知らん。だが不幸にも私は多少関係があってな。そして私はこれをうやむやにしたくなかったんだ。つまり学府とは相容れん意見でな。だから話してしまおうと思うんだが、聞いてくれるかな?」
どこか言い訳めいた調子で前置きをして、アルジャンは話し出した。
「当時からサリクスは非常に優秀でな。やれ天才だの、希望の星だのと言われていたのは君も知っとるだろうな。そして常に好奇の目で見られてもいた。つまり、まぁ、誰から見ても特別な子だった。当時の学長は、彼に魔法使いの未来がかかっているとまで言いおって、目をかけて可愛がっておった。けれどそれは、実のところは自分の名声のためにしとった事だったようだな。……人というのは勝手なものよ。他人に勝手に希望を託したり、役目を押し付けたりしよる。あの子は、サリクスはおそらく自分のした事をちゃんとわかっておったんだが、周りの人間のほうがそれを認めることができなかったのだ。そしてまた、サリクスが過つというのは、彼らにとっては裏切りに等しかったのだよ」
「……それで、無かったことにされたのですか」
アルジャンは重々しく頷いた。
「嘆かわしいことだ。学問を司る
「では、サリクスが真実を主張することは難しいことだったと、教授もお考えなのですね」
「ああ、残念なことにな。無理を通せばサリクスは殺されておったろう。いや、殺されるだけで済めば、まだ良いほうだ」
普段陽気なあかるいアルジャンの目元が翳り、深い悲しみが浮かんだように見えた。
「確かにサリクスの証言が本当ならば、彼は裁かれるべきだった。場合によっては、命をもって償わなければならなかったのかもしれん。しかし、被害者のことはもみ消したままで、正しい手順を踏まずにサリクスをも損なうというのは、それは筋が通らん。話が別だよ。サリクスがいなくなれば真相を知るものが誰もいなくなってしまうのだから。私も悩んだが、かわいい教え子を酷い目にはあわせられんくてな……」
そう言って僕を見た老教授もまた、許しを乞うような色をその瞳に宿していた。彼も罪悪感を抱えながら、彼なりにサリクスを守り、助けようとしてきたのだろう。
「話してくださってありがとうございます。僕は、教授のこともサリクスのことも信じています。ですから、後は自分で考えてみます」
僕がそう言って話題を変えると、アルジャンは「ありがとう」と言って、静かに微笑んだ。
そのあとは明るい話題に戻って話が弾んだ。僕はサリクスと釣りをしたことも話した。アルジャンは始終嬉しそうに僕の話を聞いてくれた。立ち去り際にアルジャンはまた盛大な別れの挨拶をしてくれ、硬い握手をした。僕の手を握ったまま彼は言った。
「図書館の閉架に在籍者名簿と議事録がある。私の名前を出して『この本を読みたい』と言えば、近くの書架まで案内してもらえるだろう。もしも君が必要だと思うなら、遡ってみるといい。たいして目新しい情報はないだろうがね」
アルジャンは手を離し、僕の肩を叩いた。僕の手には一枚の紙片が握らされていた。
セントラルの図書館は、世界でも随一の蔵書数を誇る大図書館だった。古代の神殿を模した巨大な建物で、古今東西の魔法と、その周辺に関するあらゆる知識の断片がここに集められている。そしてその数は今もなお増え続けていた。開架になっているのはそのごく一部で、閉架にこそ貴重な書物が多く保管されている。僕は入り口で、青いローブの司書にアルジャンから渡された紙片を見せた。
「『魔法大全史――及びマケアラス諸民族の動向が教祠と学府の発展に与えた影響についての考察』全五巻……また卒業論文でも書くんですか?」
明るい金髪を三つ編みにしたマーゴという名の若い司書は、薄茶色の目でやや訝しそうに僕を見た。
「……そんなところです」
卒業して間もない僕は司書たちとも大抵顔見知りだった。
「市井に出たことで、改めて自分の無知を思い知ったんですよ」
「まぁ、自分の関わる組織についてよく知ることは大事ですわね。けど教授ったら、わざわざこんな難しい本をご指定でなくっても手頃な本がありますのに。まぁ、あなたなら面白がってくれると思われているんでしょう。結構なことだわ」
在学中の勤勉が報われたのか、マーゴはそれ以上詮索してこなかった。案内された先でも「あなたなら後はわかりますね?好きなだけ居ていいわよ」と言ってすぐに自分の仕事へ戻っていった。
僕はさっそく棚を確認して回った。アルジャンの言っていた資料は、書架から少し離れた壁際のキャビネットの中に見つかった。
どうもこのキャビネットは内部資料の仮置き場らしい。本来ならば鍵付きの棚に入れるものを、おそらく保管場所が手狭になったためにここに置かれているのだろう。ラベルもないが、鍵もかけられていなかった。自分でも良く短時間で見つけられたものだと思う。周りの書架の本が軒並み大著や豪華本だったので、ここに学内資料や名簿などを並べるのはおかしいのではないかと推理したのが当たった。
それにしてもアルジャンはセントラルの隅から隅まで知り尽くしているのではないだろうか。僕は改めて、その衰えない頭脳と好奇心を心の中で讃えた。それから僕は一度振り返り、周りに人気がない事を確認してから議事録に手をかけた。
†
「サリクス、ただいま戻りました!」
僕は工房の扉を叩きながら声を張った。僕は学府を出たあと少し遠回りをして、有名なモシュケラの大市を見物し、サリクスにお土産を買って城に戻った。「できるだけ遅く帰る」と言ったのは、サリクスも久々に僕に気を使わず、稀石の首飾りも外して羽を伸ばしたいだろうと思ったからだったが、城が近付くと僕は早くサリクスに会いたくて堪らなくなり、山道を駆けるようにして登ってきた。またあの忙しい日々に戻ることを考えると嬉しかった。
しかし扉の向こうから反応はなかった。慎重に扉を開いて中を見ても、工房にサリクスの姿はなかった。他の部屋も見て回ったが、どの部屋も人気はなく静まり返っている。
外出しているかもしれないので、夕飯でも作りながら夜まで待とうと思ったが、なんとなく嫌な予感がした。自分の寝室に荷物を下ろしてからもう一度工房に入る。工房の奥には僕が足を踏み入れたことがない部屋の一つ、サリクスの寝室があった。
その入り口は上部がアーチになっていた。扉はよく磨かれて木目が美しく、真鍮でできた古風な取手がついていた。僕は扉の前でしばらく様子を伺ってみたが、物音などはしなかった。僕は、かつてサリクスが、僕に入って欲しくない場所には入れないようにしてあると言っていたのを思い出した。そっと扉の取手に手をかけてみると、その扉は緩やかに開いた。
部屋の中は薄暗かった。奥まった古風な窓が左手と突き当たりに二つあったが、どちらにも緞帳が取り付けられて光量が絞られていた。その次に目に入ったのは、夜色の天蓋がついた寝台だった。天蓋は金糸や銀糸まじりの織物で、術式文様の縫い取りがあり、それらがチラチラと星のように光って見えた。寝台の上には上等の毛布がかけてあったが、やや乱れている。足元には複雑な魔法陣が描かれており、寝台の近くに置かれた香炉からはまだ細く煙が立ち上って、甘やかな香りで部屋を充していた。
肝心のサリクスの姿は見当たらなかった。しかし諦めて外へ出ようとしたその時、僕は寝台の上に奇妙な黒ずみを見つけた。違和感を覚えて近付いた僕は自分の血の気がひいていくのがわかった。それは血痕のようだった。
よく見れば、乱れた毛布は寝台の向こう側へ引かれるようにして波打っていた。僕は寝台を回り込む時間さえ惜しんで寝台に膝をついて乗り上げ、向こう側を覗き込んだ。
そして、絨毯の上でうつ伏せに倒れたサリクスの姿を見つけたのだった。
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