第7話 過去を暴く目

 サリクスからもらった翠玉の護符の効果は、魔力を高め出力を安定させるものだった。さっそく試しに使ってみると、護符は見かけ以上に高い効果を発揮した。明かりを出すときもチラつかなくなり、火の粉も思い通りに飛んでいく。僕は嬉しくなり、大人気ないと思いつつも、台所の窯に向かってできるだけ遠くから火種を投げて遊んだ。

 翠玉はよい護符になるとされており、セントラルの授業でも使う機会があった。しかし、サリクスの護符と比べてしまうと、その効果は子供騙しだったようにすら感じられる。貴重なインクルージョン入りの石であることを差し引いても、サリクスの技術の高さが窺える代物だった。それから僕はいつもこの護符を身につけている。脆い石だと聞いたので、服の下にではあったが。


 そしてもちろん、サリクスに護符の作り方を教えてもらいたいと頼んだ。夕食を作り、食事をし、工房で護符作りを教わるという長い時間を、サリクスは僕のために割いてくれることになった。

「あの、きちんと弟子入りさせてもらえませんか」

 何日目かに、僕は勇気を出して言ってみた。

 その時、サリクスは僕のため、護符に刻む術式を何通りも書き出して説明してくれたところだった。どれも珍しいもので、廃れかけた古いもの、知られていないもの、サリクスのオリジナルまであった。なにより有り難かったのは、それらをどういう場合に使いわけるべきか、組み合わせて使えるのはどれかといった、実践的な情報まで惜しみなく与えてくれたことだった。それらは書斎の本よりもさらに貴重で得難いはずの知識だった。通りすがりのような立場でこれだけのものを与えられるのは心苦しい。できれば正式に教わる立場として、あなたの名の下に知識や技術を得たいのだと、僕はそう伝えた。

 しかしサリクスは首を振り、はっきりと「弟子はとらない」と言った。

「けれど、共同研究なら考えてみてもいいな。いつか君が稀石を恐れなくなったら、また聞いてみてくれ」

 サリクスは、弟子を取らないことに関して、強い意志をもっているように思えた。僕は大人しく引き下がる他なかった。



 月が欠けて新月の夜が過ぎた。そして新しい月が満ち始めた。

 ふと、見上げた窓枠の向こうに浮かんだ細い月を見て、僕は別れの日が近づいているのを知った。僕は最初の日以来、下山を試みることはなかった。今ではむしろ、もう少し長くここに滞在する許可をもらえないものかと考えるようになっていた。けれど、弟子入りの提案はすでに拒否されてしまった。結界の反転が直ってしまえば、僕がここにいる理由はなくなってしまう。


「僕が下山するまでに、手は治りそうですか?」

 その日の護符作りの工程を終えて寝室に戻ろうとしたとき、ふと魚釣りの約束を思い出して、僕は振り返ってたずねた。サリクスは、自分の仕事のために書き物机に座りなおしたところだった。

「ああ、どうかな。治るはずだよ」

 サリクスは椅子の背越しに答えたあと、僕がまだ何か言いたげにしていることに気付き、横向きに座り直した。

「そんなにあの渓流が気に入ったのか」

「それもありますけど、あなたの手が本当に治るのか心配なんです。ひどく病んでいるようでしたから」

 無理して釣り竿なんか持たなくていいんですからね、と僕が念を押すと、サリクスは小さく笑った。

「無理はしないよ。もうすぐ治る。心配なら見るかい?」

「本当ですか?」

 僕はにわかには信じられず、サリクスのそばへ戻った。サリクスは護符の指輪と手袋を外した。そして僕の前に差し出された手は、すでにほとんど健康な色を取り戻していた。僕は思わず彼の指に触れて確かめた。まだ指先と指輪の跡が変色しており、薬指のひび割れの跡が目立った。しかし手の甲などはほとんど回復したようだった。

「よかった……」

 僕は思わず息をついた。あのひどい状態からこれほど早く回復できるとは思わなかったのだ。

「でも掌の方がもう少しなんだ」

 サリクスがそう言って手を返すと、指の節にまだ深い亀裂が見えた。

「来週には治るだろう。そしたら、また行こう」

「はい!」

 元気よく答えたが、サリクスが困ったように首を傾げたのを見て、やっと僕はいつのまにかサリクスの右手を両手で掴んだままでいたことに気がついた。

 僕はあわてて手を離して謝り、寝室に戻った。眠る前に、僕はサリクスの手の、少し低めの体温を思い返した。そして彼も人間なのだなと思った。



 次の週の初めに、僕たちは再び渓流を訪れた。今回もサリクスと一緒に崖から飛び降りたが、僕が腰を抜かすこともなかった。

 薄々気付いてはいたのだが、河辺でサリクスに釣竿を持たせてみると、驚くほど似合っていなかった。ただ当人は気にしていないようだったので、僕も水を差すようなことは言わなかった。昼になると気温があがり、サリクスは厚手のローブを脱いだ。けれども、滑らかな絹織物の長衣を纏って岩場で釣り糸を垂らす姿は、どちらにせよ浮世離れしていた。

 この日も魚はよく釣れた。初心者のサリクスも数匹釣り上げた。魚を掴むのが苦手らしく、毎回僕が魚を取って、針を外さなければいけなかった他は上々の結果だった。


「釣りはどうでしたか」

 今回は遅めに摂ることになった昼食のパンを手渡しながら、僕はサリクスにたずねた。今日の昼食は、サリクスが黒すぐりの砂糖煮とぶどう酒もつけてくれたので豪勢だった。サリクスは甘いものが好きなのかもしれない。

「思ったより楽しいよ」

 サリクスは黒すぐりを載せたパンを齧りながら答えた。

「何がどう楽しいのか、うまく説明できないが」

「理由なんて。楽しいことは楽しいでいいじゃありませんか」

「そうかな。そうかもしれないね」

 サリクスはそう答えて、あとは黙々と食べた。

「たくさん食べてくださいね。外で食べるといつものパンも美味しく感じませんか?」

 僕は、ローブを纏わないサリクスの姿をこの時初めて見たのだが、とても痩せているように見えた。日頃味のしない料理を食べていたなどと言っていたので、そのせいではないかと思ったのだ。

「今日は、多く獲れた魚も持ち帰って加工してみましょうか。塩漬けにできるかもしれません。楽しかった日のことを思い出して食べる料理は美味しいものです」

「君は、楽しむということについてよく知っているみたいだね」

 サリクスは呟くように言い、それから「アルジャンとも話が合っただろう」と続けた。

「ええ。教授と話すのは楽しかったですよ。そのおかげで、こうしてあなたに会えたんです」


 僕は、サリクスとアルジャンが一緒にいるところを想像してみた。二人はいったいどんな話をするのだろうか。サリクスの工房の安楽椅子が、ひとつはもともとアルジャンのために用意されたのだろうことは僕にもわかっていた。アルジャンは僕よりずっとおしゃべりなので、サリクスは聞き役だったかもしれない。稀石の話もきっとするだろう。サリクスは稀石の話をするときは饒舌だった。アルジャンは親しみやすくて忘れられがちだが、魔力操作の分野では大変な権威だ。博識な二人の会話はきっと刺激的だろう。いつか横で聞く機会があればいいと僕は思った。



 日差しが少し金色を帯びはじめた頃、僕たちは仕掛け罠の魚を回収して城に戻った。そして、さっそく魚を調理して塩漬けにしてみた。けれど、僕は調理場で塩に塗れた魚を見下ろしながら呻いた。

「もしかしたら、失敗するかもしれません……」

 漬けてしまってから思い至ったのだが、魚の身が大きすぎる気がした。僕が知っている作り方でうまくいくのか自信が持てない。せっかくの食べ物を、それもサリクスが初めて釣った魚だというのに、駄目にしてしまうのは忍びなかった。外出の高揚感も薄れて、急に気分が落ち込んでいくのが自分でもわかった。サリクスは隣でベンチに腰掛けて、僕の作業を眺めていた。

「構わないさ。物づくりに失敗はつきものだ」

「故郷では違う魚で作るんです。それはもっと小さくて。僕が……」

 下山したら手に入れてきますから、と言おうとしたところで、僕は言葉に詰まった。無意識にその言葉を回避してしまったのだが、代わりが見つからなかった。

「――機会、そう、機会があれば、サリクスにも。あの、とても美味しいので」

 突然しどろもどろになった僕を、サリクスは怪訝そうに見あげた。僕は、塩漬けの瓶に封をすることに集中して彼の視線をやり過ごそうとしたが、すぐに胸が苦しくなり、手も止まってしまった。

「だから、あの、もし変だったら、これは無理して食べないでください」

「わかった」

「あと、僕がいなくなっても、ちゃんとしたご飯を食べてくださいね」

「そうするよ」

「……稀石の実験も、ほどほどにしてください」

 サリクスは、話題の飛躍に首を傾げながらも「気をつけるようにしよう」と言ってくれた。

「あなたは――」

 僕は、自分の手元を見つめた。いま胸の内にある感情を、どう言葉にすればよいのかわからなかった。

「さっきから、一体どうしたんだ?」

 立ちすくんでいるとサリクスが僕の腕を引いた。僕は項垂れたまま、よろめいて彼の隣に座り込んだ。サリクスの強い魔力の気配をすぐそばに感じながら、僕は腕まくりした襯衣シャツの袖で目元を拭った。

「……僕のこと、覚えていてもらえるでしょうか。また、訪ねてきても?」

「魚釣りがしたくなったら、いつでも来ると良い」

 サリクスはそう言って、すこしぎこちなく僕の背をさすってくれた。

 僕はおかしいような、寂しいような気持ちになって、力なく笑った。サリクスは、僕が渓流と別れ難くて泣いたと思っているのだろうか。もしかしたら、感情を誤魔化すのにちょうどいい理由を与えてくれたつもりなのかもしれない。けれど、僕はこの息苦しさを有耶無耶にしてしまいたくはなかった。

「そうじゃなくて、」

 サリクスは僕の背中をさする手を止めた。

「あなたのいない下界に、帰りたくないんです」

 勇気を振り絞っても、今の僕にそれ以上の表現はできなかった。けれど、おそらくサリクスは、僕の逼迫ひっぱくした声とその裏側にあるものに気がついたに違いない。しばらくの沈黙ののち、サリクスは言った。

「君は帰らなくてはいけない」

 顔を上げると、サリクスはやはり僕を見ていなかった。彼の視線の先にある暖炉の炎が、彼の姿を暖かなオレンジ色に照らしていた。しかし声は淡々としていた。厳しい雰囲気が、冷たい空気のように重たげに、僕と彼の周りにわだかまっていた。

 僕は我に帰り、ひどく惨めな気持ちで、自身を恥ずかしく思いながら小さく頷いた。


 サリクスは、やや人の都合を疎かにするところはあったが、基本的には始終親切だった。しかし、それは彼が開かれた精神の持ち主であったためで、僕個人に対してなにか感情を持っているわけではなかったのだろう。そう考えて、僕はまた裏切られたような気持ちになった。

 沢山の人々から尊敬のもとに名を修飾され、憧れをもって賛美されるような人物に、これだけ丁寧にもてなされて、なお不満を述べるのはあまりにも身の程知らずだと思う。頭では十分にその事をわかっていたのだが、僕は今度こそ胸の内に虚な穴が空いたように思われ、それはサリクスと城で暮らす残りの日々の幸福をじりじりと蝕んだ。



 ほんのわずかに歪んだ月が、星空に浮かんでいた。僕は寝室の窓辺からそれを見ていた。空は深い紫色に澄んでわずかに明るく、雪のない山並は黒々としている。瞬く星と月の他に明かりはなく、雲もなかった。僕は抱えた膝の上に頭をのせ、心が自ずと向かう先を定めるのを待っていた。

 護符の作り方は昨晩までに一通りのことを教わり、小さな護符が一つ出来上がっていた。サリクスの護符とは較べるべくもなかったが、セントラルを出たばかりの魔法使いが作ったものとしてみれば上出来だった。サリクスは相変わらず態度を変えることもなく、僕の護符を褒めてくれさえした。

 今夜は出立の準備のために空けられていた。準備といってもたいした荷物があるわけではなかった。やることもなく、心は中心を見失ったまま不安定に揺れていた。迷っているのではなかった。いまから取る自分の行動が彼に拒否されることを僕は知っており、それを実際に確かめるための勇気が、なかなか湧いてこないだけだった。しかしどちらにせよ、今日が最後だった。僕は翠玉の護符を握りしめてその時を待っていた。やがて夜遅くに僕は部屋を出た。


「サリクス」

 工房の扉はしまっていたが、手で押せば開けることができた。サリクスは作業台の前で新しい石を加工しているところだった。

「どうした」

 サリクスはすぐに傍に置いてあった頭巾をかぶって僕を見た。珍しく少し眠たげな声をしていた。僕はサリクスに近寄り、けれど慎重に距離をとって足を止めた。サリクスは、僕が何か言いにくいことを言おうとしていることに気付いたらしく、手を止めて僕に向き直った。

「お願いがあります。あなたの共同研究者の候補として、僕をここに置いてほしいのです」

 僕は直截に言った。言い澱むこともなかった。決意が伝わるように心を込めたつもりだった。しかし、サリクスは僕よりももっと迷いなく答えた。

「君は稀石を扱えない」

 否定されること自体は覚悟していたものの、この断固とした返答は予想していなかった。僕はサリクスを見た。相変わらずヴェールが彼の表情を隠していた。僕は、初めて彼と工房で相対した時に似た苛立ちを覚えた。

「能力的な話でしたら、サリクスには初めからわかっていたはずです。あなたは、僕が稀石を恐れなくなったら考えても良いと言ったではないですか。あれは詭弁だったのですか」

 サリクスは一瞬動きを止めたのち、首を振った。

「君は稀石に対する恐怖を克服できてはいない。他のことに気を取られて破れかぶれになっているだけだ」

「勝手に決めつけないでください」

 思わず強い調子で返したが、サリクスの言い分には心当たりがあった。下山したくないという気持ちが先走って、ここに身を置くための唯一の可能性にすがっただけだという事実が突如として僕にも自覚された。稀石に強い関心を持って、その未知を解き明かしたいという探究心から出た選択ではなかった。サリクスはその事を言っているのだろう。

「決めつけていない。ただ、君は未熟だ」

 追い討ちをかけるようにサリクスは言った。

「悪いように取らないで欲しい。君はまだ若くて伸び代がある。急いで誤った道を選択をしてはいけない」

「誤った道というのはどういうことですか?あなたのそばで学びたいと思うのは、間違った道なのですか」

 自分でも、それはサリクスの指摘に答えるものではなく、論点のすり替えに近いということは分かっていた。けれども僕にとっては、僕が本当に稀石を研究したいかどうかより、ずっと大切で、無視できないことだった。

「言葉が悪かったかもしれないが……半端な気持ちで稀石を扱ってほしくないんだ。人生を賭ける対象を急いで決めるべきではないと言っているんだよ……」

 サリクスは辛抱強く答えてくれたが、言葉尻に疲労が滲んでいた。

「あなたはどうなんですか?」

 僕は冷静になろうと、少し声を落として問いかけた。

「あなたはそんな風に、熟考し、納得して稀石を研究対象に選んだのですか?やむを得ず、必要に迫られてその道を選んだのではなく?」

 サリクスは答えなかった。

「なぜ僕がこんなに必死になっているか、わかっていただけませんか?たしかに僕は稀石に惹かれているのではないかもしれません。けれど理解したいと思っています。僕はまだ未熟かもしれませんが、僕も機会を逃したくないんです。あなたのお手伝いをさせてください。そうしなければならないと感じたから、お願いしているんです」

 しかし、サリクスは顔を背け、黙って首を振った。

「サリクス!」

 僕は思わずサリクスににじり寄った。

「あなたが見ようとさえすれば、僕の心の内など見透かせるのではないのですか?僕の目を見てください!そうすればきっとわかっていただけます!僕を見てください、サリクス!」

 僕は――あろうことか、勢いに任せてサリクスの頭巾を取り払った。

 そして見た。彼の青ざめた顔、驚きに薄く開いた唇、そして戸惑いのかたちに見開かれたアーモンド型の目を。次の瞬間、謎めいた黒瑪瑙の眸子ひとみが僕を捉えた。



 彼が意図せず行使する瞳の力は、普段の抑制されたサリクスの印象からは程遠いものだった。覗き込んだ者の意識を荒々しく引き寄せ、冬の訪れを告げる嵐のように、無節操に記憶を暴き立てる。身の回りを取り巻く、現在のあらゆる景色と印象から無理やりに引き剥がされ、意識と記憶の渦が暗い眸子の向こう側へと逆流していった。

 それも、幼児が玩具箱を探るように、連続した過去から一部を抉って次から次へと無作為に掴み出しては放り出すのだ。それに伴ってあらゆる印象がめまぐるしく立ち上がっては消えていった。その度に僕は喉の奥が不快にねじれる感覚を覚えたが、しかし今回は、いくつかの無意味な場面が彼に暴かれていくのをなんとか耐えた。

 歪んだ月、中庭のトネリコ、ドラーゲの工房の入り口に立てかけてある箒、釣り糸を垂らすサリクス、故郷の糸杉、セントラルの友人の惚気話、図書館の静寂……それらは一瞬で過ぎ去っていった。

 それから故郷の僕の家が現れた。雨戸を開けたばかりの、古ぼけた木製の窓枠から冷たい空気が流れ込んでいた。窓の外には、青から白へと明けてゆく早朝の空を背景にして、背の高い三本のポプラが葉を落として寒々しく佇んでいる。火の消えた暖炉。不安の中で目覚め、すすり泣きを聞いた。叔母に促されて開いたままのドアから見たのは、寝台に縋る母の後ろ姿と、横たわる父の――


 その時、僕は過去から突然引き剥がされて床に倒れ込んだ。気のせいでなければ、目の前で青白い閃光が散り、胸のあたりにビリビリとした痛みが走った。サリクスが僕を突き飛ばしたのだと理解したのは一呼吸の後だった。

 僕はうつ伏せに倒れた状態で我に帰った。そして、痛む胸元を押さえながら、なんとか体を起こして振り返った。そして、椅子の上で苦痛に耐えるように体を折り、両手で顔を覆うサリクスの姿を見つけたのだった。

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