第5話 エフェクタ、あるいは渓流について

 僕がサリクスの城に居候を始めてから、また数日が過ぎた。僕はそのほとんどの時間を書斎から本を借りては読み耽ることに費やしていた。

 サリクスは食堂と工房以外ではあまり見かけなかった。探すとだいたいいつも工房で読み物や書き物をしていたが、石の加工などをしていることもあった。工房にはあまり立ち入らないようにしていたので、本の内容について質問をしたり、彼の意見を聞きたいときには、できるだけ夕食時に済ませるようにした。

 それなりに充実していたのだが、その日僕は少し寝坊して目覚め、なんとなく体が重い感じがした。たまには運動しないと体が鈍ってしまうのではないかとふと思い至り、僕は久しぶりに城の外へ散歩に出掛けることにした。


 もともと野育ちなので体を動かすのは好きだ。けれど山歩きには慣れていなかったし、結界の範囲も僕にはよく分からなかった。下山する道以外の境界がすべて反転しているのかどうかもわからない。おかしなところから迷い出て、城にも人里にも帰れなくなっては困る。

 僕は城を見失わないように、出来るだけ視界が開けた場所を選び、たまに木の枝に目印をつけながら周辺を散策することにした。


 まずは下山する道から外れて、城壁沿いに右側を進んだ。そちらの方が若干下っていて、おそらく城壁の崖の下に出ると思われたからだった。明るい広葉樹の木陰の下、積もった落ち葉を踏みしめながら歩いていくと、やがて、予想通りゴツゴツした天然の岩肌が城壁の下に現れた。

 森は少し鬱蒼となり、あたりは薄暗くなった。岩壁には地衣類やシダが茂っている。さらに進むと小さな崖に行く手を阻まれた。周りを見渡してみると、左手から崖の下に降りることができそうだった。しかし、実際降りてみると思ったより傾斜がきつく、所々で低木の枝を頼りながら坂を下らなくてはいけなかった。坂を下り切ると、そのあとは緩やかな斜面が続いていた。

 森は豊かで、歩くのが楽しかった。しばらく行くと針葉樹が増え、森が深くなってきた気配があった。迷わないように気をつけながら、落ちている木の実を拾い、食べられる針葉樹の新芽も摘んだ。木の子もたくさん見つけたが、毒があるかどうか僕には判断がつかなかった。

 袋代わりにした外套の裾がだいぶ賑やかになってきて、そろそろ帰ろうかと思ったその時、僕の耳がかすかな水音を捕らえた。音は小さいが明瞭で、音源はそう遠くはないだろう。きっと沢があるのだと思い、足元に気をつけながら探してみると、ほんのすこし進んだところで急に水音が大きく聞こえるようになった。そしてすぐに地面が途切れた。崖の下を覗いてみると、そこには大きな岩に縁取られた美しい清流があった。



「サリクス、あなたはこの城の近くに沢があるのをご存知でした?」

 夕食の時間、僕は待ちきれなくなってサリクスに尋ねた。

「沢?……ああ、あったはずだが、近くはないな。君、散歩に行くとは聞いたけれど、あんなところまで歩いたのか」

 どうりで持ち帰った食材が豊富なわけだ、とサリクスは呆れとも感心ともつかない調子で呟いた。僕は少し傷ついたが、しかしそれよりも好奇心が勝っていたので、聞こえなかったことにした。

「あの沢には魚がいるでしょうか?降りていきたかったのですけど、足場が悪くて。あなたなら道を知っているかもと」

「降りてみたことはことはあるけれど、行ってどうする?魚でもとるのか?」

 サリクスは揶揄ったのかもしれないが、僕はまさにそのつもりだった。

「ええ、好きなんです。魚釣り!」

 そうして僕はサリクスに頼みこんで、一緒に魚釣りに行く約束を取り付けた。



 その日、僕は楽しみのあまり無駄に早起きをして、昼のためにパンやチーズを籠に入れ、一日かけて拵えた釣竿や仕掛けを抱えて、サリクスが起きてくるのを待った。

 服装も、貫頭衣は足捌きが良いように、たくし上げてベルトで押さえ、外套は頭巾付きのケープだけを身につけた。

 サリクスと合流して一刻も早く沢に向かうためには、僕がどれだけ楽しみにしているのかを彼にわかってもらわなくてはいけない。

 村にいた頃は、気が向けばいつでも友人たちを誘って釣りをしたものだが、街に出てからは一度も機会に恵まれなかった。特に恋しいと思う事もなく過ごしてきたが、魚釣りにうってつけな場所が近くにあるというなら話は別だ。魚料理もしばらく食べていない気がしたし、釣り糸を垂らして川辺に座っているだけでも気持ちが安らぐだろう。考えるだけで心が躍った。

 狩猟の間に現れたサリクスは、僕の姿を見て少し怯んだようだった。

「準備は……できているようだね」

「万端です!さぁ早く行きましょう、サリクス!」


 サリクスはいつもと全く変わらず、厚手のローブを引きずりロッドを手にしていた。そんな服装であの沢まで行けるのだろうかと心配になったが、行ったことがあるというのだから問題ないのだろう。余計な口出しができる相手ではない。いざ森を歩き出すと、サリクスの美しいローブの裾はたちまち落ち葉まみれになった。

 しかしさすがはサリクスで、長い裾に足を取られることはなさそうだった。むしろ僕よりも軽やかに歩く。僕は優雅に進むサリクスの後を、親鳥のあとを追う雛のように危なっかしく追いかけなくてはいけなかった。

 それでも彼がいれば道に迷う心配もない。先日よりずっと早く沢についたが、それでも一時ほどは歩いた。たしかに近くはないかもしれない。

 前回あきらめた崖の前までくると、サリクスは右側に折れた。そちらの方が高くなっているのは前回確認済みだった。本当に降りる道があるのだろうかと訝しみながらついていくと、崖沿いに続いた茂みが途切れたところでサリクスは立ち止まった。

「ここを……降りるんです?」

 サリクスの横から覗き込むと、かなり下方に大きな岩の平らな上面が見えていた。たしかに他の場所と比べて見通しは良く障害物もないのだが、ここから飛び降りればまず間違いなく、頭か脚のどちらかの骨が粉々になるだろう。サリクスは垂直の崖を歩けるようになる魔法でも使うのだろうか。

「おいで」

 しかしサリクスは僕の言葉には答えずに、やんわりと僕を引き寄せた。そして次の瞬間、左腕で思いのほか力強く僕を抱きしめると、考える間も与えずに崖下に向かって飛び降りたのだった。



 結果から言えば、どういうわけか僕の頭は割れずにすみ、足の骨も砕けなかった。しかしサリクスが僕から手を離したとたんに腰が抜けて、その場にへたり込んでしまった。

「なんで……なんで降りる前に、飛び降りるぞと言ってくれなかったんですか……」

 僕は弱々しくも抗議せずにいられなかった。先ほどまでの弾むような心持ちは恐怖で萎みきっていた。心臓が止まるかと思った、というより、おそらく本当に一瞬止まったはずだ。

「言ったら動揺するだろう。どうせ他に道はない」

「……心の準備というものが必要なんですよ」

 僕は深く項垂れたまま、反射的に出てきた涙を拭って鼻をすすった。しばらく立ち上がれそうになかった。

「まだ降りなければ」

 サリクスがそう言って僕の腕を引っ張ったので、僕はまた文句を言うために顔を上げなければいけなかった。涙目を見られることになるが、仕方がない。引っ張られたところで歩けないのだ。あなたのせいで!

 しかし、いざ顔を上げると、すぐ目の前にサリクスの顔があった。ヴェール越しでも目鼻立ちがわかりそうな距離で、僕はとっさに目を瞑った。そして、次には自分の体が抱え上げられたのがわかった。僕は驚いてすぐまた目を開いてしまった。僕はサリクスと比べれば背が低いが、かといって小柄というわけではない。健康体なので体重もおそらく人並みにあるだろう。細身に見えるサリクスに、そんな力があるようには見えなかった。これも魔法の力なのだろうか?

 混乱する僕には構いもせずに、サリクスは何も言わずそのまま歩きだし、大きな岩の縁からもう一度飛び降りた。着地の瞬間、サリクスの足元で風が巻き起こって砂埃の波紋が広がり、かなり広い範囲に余波が及んで空気が渦巻くのが、今度ははっきりと見えた。どうやら魔法で着地の衝撃を打ち消しているらしかった。そうして河べりの平らな岩の上まできて、サリクスはやっと僕を地面に下ろしてくれた。

 僕はもう何か言う気力もなく、ただ深くため息をつく他なかった。サリクスは人を恐怖させる才能がありすぎる。

「魚がいる。釣らないのか?」

 水面を眺めながら言うサリクスに少し苛立ちながら、僕は釣竿ではなく軽食の籠を開けて中身を広げた。

「先にお昼を食べます……腰が抜けているのに魚釣りなんかできるものですか」



 道程はともかくとして、渓流は間近に見ても美しかった。川の大きさは、ところによっては岩で狭められて飛び越えることもできそうだったが、広いところでは二尋くらいあるかもしれない。水は透き通っていて意外と水深もあり、春だからか流れは早い。岩の下が削られて魚の住処になっているらしく、魚の影も多かった。対岸は比較的なだらかな斜面で、ところどころで広葉樹の枝が水面の上に若葉を翳していた。

「あっ!また掛かりました」

 慎重に食わせてから釣り竿を引く。水面から躍り出た魚を僕は空いた手で捕まえた。魚は僕の故郷にいたのに似ているが小ぶりだった。背が深い緑で、白い腹との境目に黄色い線が入っている。虹色に光る体に浮かぶまだら模様が美しい。きっと味も良いはずだ。


 昼食の後、サリクスがどこからか、木苺に似た甘い実が鈴なりになった枝を手折ってきた。それでようやく機嫌を直した僕は、釣れなかったときのためにまず下流に罠を仕掛け、それから釣り糸を垂らした。だがそれは杞憂だったようだ。すでに魚籠の中はやや窮屈になっていた。

「サリクスもやりませんか?楽しいですよ」

「私はいいよ。数が足りないなら手伝うが」

 サリクスはそういってまた木の実をつまんだ。てっきり僕の機嫌が治るようにと、気を遣って木の実を取ってきてくれたものと思っていたが、僕が釣りはじめてから彼はずっと枝を抱えて実を食べていた。ひょっとすると単純に自分が食べたかっただけなのかもしれない。

「手伝うって。もしかして、魔法でですか?」

「うん」

「数は釣れそうですけど、あなたがどうやって魚を獲るのか興味があります」

 僕が獲物を魚籠に放り込んで釣り竿を置くと、サリクスは「では」といって右手を振った。次の瞬間、近くの水面から魚が跳ね上がって、僕の籠の中に飛び込んだ。

 僕は呆気にとられてサリクスを見た。

「……何をしたんです?」

「風を圧縮して魚を撃った」

 単純明快な答えに僕は逆に戸惑った。呪文を唱えるでもなく、杖を振ったわけでもない。どう風を圧縮したのかという点では全く答えになっていなかった。

「さっき崖から飛び降りた時もそうですが、あなたは一見『何もせず』に魔法を使っているように見えるのですが……」

 僕は困惑しながらも訊ねずにいられなかった。

「私は指を振ったよ」

「ええ?ですから指を振るだけでは、ふつう……」

 そこまで言って、僕はサリクスが触媒なしで呪いをかける人物だということを思い出した。僕には考えられないような事も、サリクスにはできてしまうのかもしれない。ドラーゲも、彼の魔法は奇跡に近いなどと言っていたのを思い出した。しかし実態を伴った現象を起こすとなると、物に呪いをかけるよりは数段難しいはずだった。

「あ、もしかして、稀石?」

 閃きがそのまま僕の口をついて出た。サリクスは頷き、僕に右手を見せた。

「人差し指の二つの指輪はどちらもエフェクタだ。魔力を風圧に変換するものと、指向性を高めるもの」

 示された指には、淡い緑色の石と暗い青色の石の指輪がふたつ並んで嵌っていた。

「石に十分な力があれば、あとは指先から魔力を放出すればいいだけだ。簡単だよ」

 サリクスは手品の種明かしでもするように言ったが、常人にはまず指先から魔力を出すというのが難しい。できたところで、せいぜいそよ風程度が関の山でないかという予感が僕にはあった。ふつうは魔力を向ける先へ意識を集中しやすくするために、魔力を帯びやすい材質でできた杖を頼るのだ。

「使ってみるか?」

 僕の心を読んだように言いながらサリクスが指輪を外そうとしたので、僕はあわてて辞退した。サリクスがなんと言おうと、父の命を奪ったかもしれない稀石を僕はいまだに忌避していた。

「エフェクタは、セントラルの教授陣が使う実験器具にも意外と多く用いられているんだ。様々な装置を作る時に利用できる。切り方さえ間違わなければ、あとは常に身につけていなければ、大した害はない」

「あなたは常に身につけているようですけど……」

 僕は、もはやサリクスがどんな強靭な肉体を持っていても驚くまいと思い、軽い気持ちでそう聞いた。だが、帰ってきた答えは意外なものだった。

「だから釣り竿などは持ちたくないんだ。体を害しているから」

 僕が言葉の意味を察しかねてぼんやりしていると、サリクスは右手の指輪をすべて外して、いつも嵌めている手袋も取ってしまった。僕は意味がよく分からず近寄ってみたが、サリクスの手指を間近に見て、たちどころに血の気がひいてしまった。

 サリクスの右手は、不気味な色のまだら模様だった。全体的に赤く炎症を起こしているようだったが、あまり節の目立たない長い指はすべて半分ほど黒ずんで、さらに薬指は鱗状に亀裂が入っている。そのひび割れた隙間からは鮮やかに赤い肉の色が垣間見えた。彼がひらりと手を返せば掌も悲惨だった。膿んだように肉が緩み、そこかしこに血が滲んでいた。僕はヴェールで見えないとわかっていても、おそるおそるサリクスの表情を窺わずにいられなかった。

「痛くないんですか……」

「痛いよ」

 サリクスは相変わらず無感情に答えた。

「これが、その、指輪のせい……反作用なんですか?」

「そう。まぁでも、大抵は完全にダメになってしまう前に外せば治せる」

「いえ、そんな風になる前に外してください……」

 僕は気分が悪くなって目を背けた。

「そうもいかない。こうやって、どんな反作用が出るか確認しているんだよ。料理をするときは手を使っていないから安心してくれ」

 サリクスはなぜかそこだけ丁寧に主張すると手袋と指輪をつけなおした。そしてまた呑気そうに木の実を食べだした。


 結局その後は釣りを楽しむ気持ちになれず、僕は早々に片付けをしてサリクスと帰路についた。十分釣れたので、仕掛け罠の魚は逃してやった。

 帰りはすこし下流の方に登れそうな岩の段があり、そこをサリクスの力を借りながら上がった。降りられそうな道が他にあるじゃないかと僕は内心憤慨したが、いざ登ってみると上の方は木の枝などがあって、登る時には手がかりになって良いのだが、降りるには邪魔そうではあった。

 僕はサリクスの手が気になって仕方なく、彼が枝など掴むのを見るたびに辛い気持ちになった。僕が頼み込まなければ、彼は痛む体で山歩きをしなくて済んだのだ。

 城に帰りついたときには日が沈みかけていた。そして僕はだいぶ悲しい気持ちになっており、うってつけの釣り場ではあったが、もう釣りに行くことはないだろうと思った。少なくとも、自分の力で沢に降りる手立てを得るまでは。


 城に帰ったその足で、僕は調理室へ向かった。初めから僕はそのつもりだったのだが、サリクスからも許可を得て、夕食は僕が腕を振るうことになったのだ。魚はよく洗い、少しぶどう酒をふって、中庭に生えていた香草と一緒に蒸し焼きにした。それから、僕の故郷でよく食べられている卵黄とニンニクと油のソースを添える。しあげに帰り道で摘んだ針葉樹の芽もほぐして振りかけてみた。これは書物で肌に良いと書いてあるのを見たことがあったためだが、稀石の反作用に対して効果があるかはわからない。他にもスープや簡単な和え物を作った。我ながら、どれも会心の出来映えだった。


「君は料理人にもなれそうだな」

 サリクスは珍しく早めに食堂へやってきて、僕がたった今持ってきたばかりの料理を覗き込んだ。

「これは私が摘んだ木の実?彩りがきれいだ」

 僕は一瞬浮かれたあと、魔法使いに向いていないという意味だったのではないかと深読みして不安になった。けれどすぐに頭を振って打ち消した。僕が勝手に劣等感を感じているのだ。こんな事では彼の一挙手一投足すべてが嫌味に見えてしまう。せっかくサリクスが前向きな言葉で褒めてくれたのだ。味には自信がある。食べたらもっと喜んでくれるはずだ。


 サリクスは僕に気を使ってか頭巾を取って食卓についた。しかし、席について食べ始めると彼は急に黙ってしまった。僕は気が気ではなくなった。先ほどまで自信作だった料理なのに、今ではすっかりわからない。塩や酢が多かっただろうか。それとも足りないのだろうか?

 ちらちら彼の表情を伺ってみたが感情は読み取れず、サリクスが僕の様子に気づくこともなかった。

「あの……」

 とうとう耐えきれなくなって僕は声を上げた。

「お口に合わなかったら、無理して食べなくていいですから」

 するとサリクスははっとしたように顔をあげた。僕は慌てて目を伏せた。

「いや……すまない。美味しいよ。いま、君の故郷でご馳走になった食事のことを思い出していた」

「ソースですか?」

「うん。魚にもよく合う……実は、君が来てからというもの、君の故郷で食べた食事を思い出しながら味付けをしていた。私は味がしなくても平気だけど、君は美味しいものを食べてきただろうから」

 僕は驚いた。そういえばいつもしきりに味を聞かれていたような気もする。サリクスも不安を感じていたのだろうか。今の僕のように。

「いつも美味しくいただいていました。それに、味がしなくても平気って、塩くらいは振るでしょう?」

「しないこともある」

 いよいよこの天才魔法使いのことがよくわからなくなってきた。

「たまにアルジャンが訪ねてくるけど、彼は私の料理は味がしないからと言って、夕飯の前に帰ってしまうくらいだ」

 僕は返す言葉が見つからず、サリクスの手元を見つめたまま曖昧に呻いた。

「でも、今までいただいた食事は美味しかったです。本当に」

「そうかな。この感じだと、たぶんまだ少し薄かったと思う」

 サリクスはまたひとくち魚を口に運びながら呟いた。

「僕の味付けが濃すぎるかもしれません」

 彼は皿の上の魚を見つめたまま曖昧に微笑んで、少し首を傾げただけだった。これでは堂々巡りだ。

「あの、よかったら今度から僕もお手伝いします。一緒に作れば、自然とちょうどいい塩梅になると思うんです。差し支えなければ……」

 するとサリクスは珍しく目を見開いた。視線の先は皿の上ではあったが。

「それは助かる。君が味見をしてくれれば間違いない」


 サリクスはやっと安心したようにパンをすこし齧った。それから思いがけない言葉を口にした。

「また釣りに行こう。君があまり楽しそうだったから、私もやってみたくなった。手を治しておくよ」

 僕は思わずサリクスの顔を凝視してしまった。

「……社交辞令ですよね?」

「失礼だな。本心だよ」

 サリクスは相変わらず読めない声色で答えたけれど、どちらにせよ、僕は彼がそんな風に言ってくれたことが妙に嬉しくて仕方がなかった。

「本当ですか?やった!また行きましょう!絶対ですよ?」

 釣竿をもう一つ作りましょうね!などと、僕がはしゃいでいる間、静かに目を伏せてくれていた彼の穏やかな微笑みを、僕はきっと忘れることはないだろう。

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