第4話 キャパシタ、あるいは古城について

「君。城を案内するからついておいで」

 サリクスと共に山道を歩いた翌日、つまり僕がこの城を訪ねてから四日目の朝。僕が『狩猟の間』で暇を持て余していると、サリクスがやってきてこう言った。そして返事も待たずに歩き出して部屋を出ようとしたので、僕は慌てて彼の後を追う羽目になった。


 今まで僕が使わせてもらっていたのは城の主館だけだった。だけとはいっても十分な広さがあって、僕が足を踏み入れたことがあるのはその一部に過ぎなかった。たとえば最初に当てがわれた寝室、その隣の『狩猟の間』、サリクスの工房、食堂とそこへ至る各部屋、また玄関広間とその階段などの通用口へ繋がる一連の部屋だ。

 本来は、『狩猟の間』の他にも、部屋ごとに名前がついているのだとサリクスは教えてくれた。たとえば彼の工房は大部屋であることと、そこに掛けられたひときわ巨大なタペストリーの図案から『大樹の間』。僕の寝室は、眺めの良い角部屋で昔から客室として使われており、外へ大きく張り出した窓もあるので『宿木の間』といった調子だ。

「大仰なばかりで、今では名前を言う必要もないけれどね」

 サリクスはその館のほとんどの扉を開けて案内をしてくれた。

「君に立ち入って欲しくない部屋はあらかじめ入れないようにしてある。開いている部屋は安心して好きに使っていい」


 北向のひとつの部屋は美しい書斎だった。作り付けの本棚に整理された書物がずらりと並んでいる光景は圧巻で、こんな場所にも出入りを許されたのはまったく予想外のことだった。これで当分暇を持て余すこともないだろうし、彼の知識の一端に触れられると思うと興奮を抑えきれなかった。

「あなたの蔵書をお借りしてもいいのですか?――すごい!夢みたいだ」

 僕は思わず歓声をあげた。

 ドラーゲのもとで読み書きを教わってからというもの、書物がどれだけ僕の視野を広げてくれたことかわからない。それ以前の僕がどうしてあれほど漠然とした理解の中で生きていられたのか、今ではすっかり思い出せなくなっていた。知りたい事が山ほどあったし、学べば学ぶほど、世界はどこまでも広がっていくようだった。僕はいつも知識に飢えていたし、学府にいた時は図書館に入り浸っていたので、本当に嬉しかったのだ。

「もしも知りたい事があれば、適当な書物を見繕ってあげるから言いなさい」

 喜ぶ僕に、サリクスはそう言ってくれた。彼も喜んでくれている気がしたのは思い過ごしではないと思う。


 上階から下へ、ひととおりの部屋を見たあと通用口の横の廊下を進み、小さな階段を降りた。その先は別の棟で、広い調理室になっていた。作業台がおかれ、大きな獣の肉でも丸ごと焼けそうな暖炉があった。別の部屋にはパン焼き窯もあるのだという。ふいごや火箸、桶や樽、たくさんの調理器具が壁際に並ぶ中を僕らは通り抜けた。奥にある二つの扉は、ひとつは別の作業場や食料品庫へ、もうひとつは外に通じていた。

 サリクスに続いて空の下へ出ると、よく晴れて柔らかな風が吹いており、たまに長閑な羊雲が通り過ぎて地面に影を落としていった。このところ昼間の日差しが温かく感じられるようになり、やっと春らしくなってきたようだった。

 外には古井戸があり、釣瓶が取り付けられたアーチには蔦が絡みついている。城壁や石畳は砂色の石で、晴れていると明るく乾いて鑿跡さえ詩的に思われた。

 それから僕らは、城壁に作り付けられた階段を上がって歩廊を巡った。


「この城はどこまで本物の建築なのですか?つまり、魔法による復元ではなく」

 荒い造りの矢狭間の向こうに幾重にも連なる山裾の広葉樹林を眺めながら、僕はサリクスに尋ねた。

「ほとんどそのままだよ」

 彼はこともなげに答えた。

「二百年ほど前に、この土地の領主から臣下の魔法使いに与えられた城だが、もともと古代からの砦なんだそうだ。上物は比較的新しいが、城壁は古いものらしい。ただ、王政の崩壊と共に放棄され、その時に持ち主の魔法使いが結界を張って世俗から隠してしまった。それをアルジャンが見つけ出した」

「バートルド教授の持ち物なんですか?」

「うん。なんだか色々とややこしい手続きをこなして自分のものにしたそうだ。彼は私に譲るといったが、私は間借りしているつもりだよ。本来は小さな住処のほうが落ち着く。ただアルジャンが、高等院を出た魔法使いが見窄らしい小屋に住んでいてはいけないと言うんだ。まぁ、あらかじめ結界が張ってあったので、隠れ住むにはちょうどよかった」

「……教授の気持ちがわかるかもしれません。この城はあなたにとても相応しい気がしますから」

「管理するのが大変だから、押し付けられたんだよ」

 サリクスはそう言って先へ行ってしまったが、僕はセントラルの陽気な教授のことを思い出して嬉しくなった。小柄ながら溌剌としたアルジャン・バートルド教授は、もう随分高齢だったがユーモア好きで講義が面白く、生徒たちからも慕われていた。彼は古風な歌劇が好きだった。話してみると特によくわかるのだが、ひどくロマンチストで人情家である。『美しい古城に住む魔法使い』という画にはきっと強く惹かれるはずだった。「せっかくの古城に住んでいるのが私では格好がつかないからね」などと言いながら、手を広げて笑う様子が目に浮かぶような気がした。


 城壁の上を半周して東側の階段から降りると、小さな礼拝堂があった。様式は古く、けっして華美ではないが、中に足を踏み入れると美しい天井画が描かれていた。

「アルジャンは、ほとんどこの絵のためにこの城を手に入れたんだそうだ」

「教授はあれでいて、美しいものに目がないようですものね」

 僕が思わず口を滑らせると、サリクスは「ふふ」と小さく笑った。

「そう、あれでいてね」

 きっとサリクスも、アルジャンの白い髭に埋もれた、ふくよかな赤ら顔を思い出しているに違いなかった。


 礼拝堂の横から再び外へ出ると中庭に出た。主館と礼拝堂の間にあり、その奥はかつて馬房と騎士の詰所だったのだという。中庭には素朴ながらみごとな細工の施された美しい柱廊が付属しており、庭の中央には水盤が置かれ、一本のトネリコの木が若葉を風に揺らしていた。


「この柱頭の……なんでしょう?いろんな生き物が彫られていますね」

 整然と並ぶ柱の上で、石彫の生き物たちがしがみついたり身を乗り出したりしていた。手足の長いもの、短いもの、羽のあるもの、ねじれているものなど様々だったが、どれも現実の動物ではないようだった。それらは非常に躍動的で、柱自体の幾何学模様と印象的な対比をなしており、柱の一本一本がまったく異なって見えるように作られていた。

 セントラルにもこの類の柱廊があったが、建築自体がもっと大規模だったし、これほど工夫された意匠でもなかった。

 僕は思わずそれらに目を奪わた。ずっと横か後ろを見て歩いていたら、それに気がついてサリクスは足を止めた。

「なんだろうね。それを掘った石工も、なんだか分かっていなかったんじゃないか」

「そんなことってありますか」

 僕は思わず笑って答えたが、サリクスは案外真面目らしかった。

「私も護符の類を作る時、よくわからないものを刻んでしまうことがあるよ」

 ほら、とサリクスは左手を差し出して、指に嵌められた大振りの銀の指輪を示した。なにか模様が刻まれていたので覗き込んでみると、うねる螺旋模様が刻まれていた。模様は赤い石を取り囲みながら、指輪をぐるりと一周しているようだ。よく見るとかなり複雑かつ不規則で、植物に見えなくもないが動物的な印象もあり、もっと他の何かがモチーフだと言われてもそうかもしれないと思うだろう。

「――ときおり、刻まれる素材から作り手に対して、彫るべきものを訴えてくることがあると聞く。そういうときは下手に我を通すよりも、大人しく従った方がどうやら正しい結果になるようだ。魔術に類する事柄においても、特にそういうものは意味があるとされることがある」

「……図像に、作る人が意図するもの以外の、意味や役割があるということですか?」

 サリクスは頷いた。

「人間の意図から離れて、図像自身が素材の上でを望むんだ。石柱の彫刻とはまた事情が違うけれど、例えばこの指輪は、既存の模様では稀石の力をうまく循環させることができなかった。いろいろ試したあと長いこと放っておいたが、ある時再び眺めていると、この指輪にふさわしい、新しい模様が必要なのだとわかった。それでこれを刻んだんだ。効果も安定するようになったが、なんの模様かと聞かれたら自分でもわからない」

「不思議ですね。あなたはいつもそんなふうに仕事を?稀石の研究をされているんですよね?」

 聞いてから僕は「しまった」と思った。魔法使いに研究の話を振るのは、あまりよくない事とされている。普通はよほど信頼している相手の他には話さないし、聞かないのが礼儀なのだ。

「いつもではないよ」

 サリクスは短く答えた。

「あの、すみません。立ち入ったことを」

 慌てて取り繕ったが、サリクスは答えなかった。彼はしばらくなにか考えているようだったが、やがて回廊の柱の下に腰掛けて、僕にもそうするように促した。

「少し、稀石の話をしてあげよう」



 その場所は、ちょうどトネリコの木陰になっていて、明るくて涼しかった。まだ厚着をしていたので、冷たい石もむしろ心地よい。小鳥のさえずりが遠くから聞こえ、ときおり木漏れ日が風に揺れて煌めいた。僕が大人しく彼の向かいに腰掛けると、サリクスは穏やかに話しだした。

「稀石の事を研究している魔法使いは、まだほんの僅かだ。現在知られている稀石の姿は、あまり正確な理解に基づいたものとは言えないと私は考えている。――君は、魔法使いが自分の研究について人に話したがらないのはなぜだと思う?」

「アイデアを盗まれ、名声を得る機会を失わないようにでしょうか」

「そうだね。だいたいはそんなところだろう。護符とか霊薬とかいったものは沢山の魔法使いが研究しているから、長い年月をかけて実験を重ねて得た知見を、たとえ小さなアイデアでも、自分の名前で発表する前に盗まれてしまってはそれまでの労力が報われない。けれど稀石に関してはそもそも使える人間があまりいないし、使いたがる人間も多くない。だから私はその質問をあまり問題視していないんだよ」

 僕はサリクスの、膝の上に置かれた彼の手の、美しくも不穏な指輪たちを眺めた。


「君は稀石を恐れているね」

 すこしぼんやりしていた僕は、サリクスの言葉にはっとして顔を上げた。ヴェールの向こうから視線を感じた。僕は思わず彼の表情を探ったが、やはり感情を窺い知ることはできず、言葉の意図は判然としなかった。

「危険なものだと、教わってきましたから」

 僕は慎重に答えた。

「うん。それは間違いなく事実だ。君は、私がこんなふうにいくつも稀石を身につけていることを、理解し難く思っているだろう」

「…………」

 返答に困って僕は黙った。全くその通りだった。

「君は正常だ。私は少々度がすぎている。一方では魔力を増幅し、一方では減衰させている。普通こんな使い方はしない」

 サリクスは「増幅」のところで赤い石のはまった指輪を指し、「減衰」のところで首飾りの透明な石を指し示した。

「特に首飾りは、大半が減衰の効果を持つ稀石と言われているのを、賢い君なら知っているかもしれないね。大量の稀石を身につけているのに、なぜ魔力が尽きないのかと不審に思っているのでは?」

 僕は小さく頷いた。

「実は、稀石というのは、単純な個数や、大きさや、純度の良し悪しで効力や危険度が変わるわけではないんだ。加工の仕方や他の稀石との組み合わせ、触媒を介して繋ぐ事で、より安全に働くように効果を安定させることができる」

 サリクスは大振りな首飾りを一つ掬い上げた。

「稀石には主に、《ブースター増幅するもの》、《キャパシタ保持するもの》、それから《エフェクタ効果を与えるもの》があることはどこかで習っただろうか」

「……いえ、様々な効果があることは教わりましたが、それほど具体的な分類があるとは」

 サリクスは「そうか」とだけ言って話を続けた。

「これはキャパシタをいくつか組み合わせている。キャパシタは魔力を吸うが一定量保持でき、いざとなれば利用できる。比較的扱いやすくて反作用も少ないが、常に魔力を吸うので消耗する。それでながらく減衰させるものと言われてきたが、どうもこの語は正確ではない。それで、今ではキャパシタと呼んではどうかという流れになっている。この類の石は、概ね純度が高く、大きい方が安定した効果を発揮する。純度の低い屑石はむしろ危険だ」

「そうなんですか」

 僕は素直に驚いた。まったく初耳だった。

「うん。それに加えて、効果や反作用の出現には石の切り方も影響してくる。他の石との組み合わせでも効果が変わることがあるし、宝飾品にする際に用いる素材も影響する。そこに術式を刻むかどうかでもまた変わってくる。私がやっているのは、出来るだけ様々な組み合わせを試みるということなんだ」


 確かにこんなことは、並の魔法使いでは試したくても試せるものではないし、下手に盗用してもセントラルの教授陣あたりが見ればすぐにばれてしまいそうだ。こんな無茶な研究をしているのは、おそらく彼以外にいないだろうと思われた。

 話し終えたサリクスは、右手を見つめて軽く左右に揺らした。指輪にはめ込まれた稀石が、木漏れ日を受けて虹色の光を四方へ跳ね返すのを僕も見つめた。それぞれに様々な色を持ちながら、日差しの下ではどれも虹色に煌めくのが稀石の特徴だった。


 僕はふいに疑問を感じた。サリクスはなぜこの研究をしているのだろうか?やはり自分の特異な能力のためなのだろうか?

 ただでさえ美しい宝石は人を魅了する。稀石は魔法使いを虜にすると聞く。そうして稀石に取り憑かれ、破滅した魔法使いの話は教科書にも載っていた。けれど、少なくとも僕には、サリクスが稀石に狂っているようには見えなかった。

 もしも本当は稀石を身につけたくないのだとすれば、僕が下山できずに引き返した時の、彼を動揺させた理由の一つはそれだったのかもしれない。僕がこの城にいる間は、彼が稀石の首飾りを何連も身につけなくては僕の体調に障りが出るからだ。

 しかし、それならば首飾りの他は外すこともできるはずだった。だが、彼は今も色とりどりの指輪を身につけている。


 サリクスが、たとえば必要や義務感から稀石を研究しているのだとしたら。――僕はそれがいちばん納得できる理由のような気がしたのだが、もしそうなら、はたしてこの仕事は彼にとって幸福をもたらすだろうか?むしろ稀石の虜になって身を滅ぼす方が、よほど幸せなのではないだろうか?


 僕はそっとサリクスの顔を窺ってみた。ちょうどその時風が吹いて、乾いた日向の良い匂いであたりを満たしながら、トネリコの梢を大きく揺らした。ヴェールの隙間から差し込んだその明るい木漏れ日は、彼の顔の右側をほの明るく照らした。彼が静かに手元へ視線を落としているのが見え、そしてわずかに唇を噛んでいるのが見えた。

 僕は急にいたたまれなくなり、落ち着かなくなった。わけもなく、彼に唇を噛むのをやめてほしいと思った。


「思っていたよりずっと繊細なんですね、稀石は」

 この会話を終わらせるのにはどんな言葉がふさわしいのか、僕にはよくわからなかった。仕方がないので率直な感想をただ述べた。サリクスは顔を上げた。

「貴重なお話が聞けて嬉しいです。でも、そろそろ行きましょう。暖かいうちに外を案内してください」

 僕は「まだ建物があるんでしょう?」と言い添えて立ち上がった。

 サリクスは思い出したように「ああ、そうだった」と呟き、やや億劫そうに腰を上げた。彼の隣に立ち、僕はふたたびその口元を盗み見た。もう唇は噛んでいなかった。

「サリクス」

 もう一度呼びかけると、サリクスは僕を見た。今は右の口元だけがわずかに透けて見えた。

「もしよかったら、稀石の話、また聞かせてください」

 僕がそう言うと、サリクスはわずかに微笑んだようだった。

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