第3話 閉鎖結界
館の扉を開けたサリクスは、昼に見送ったはずの僕が立っているのを見て困惑したようだった。僕が事情を説明すると、彼ははじめてその声にわずかな動揺を滲ませた。
「ばかな。そんなはずはない」
「けれど、僕はずっと下っているつもりで……でも、いつのまにか元来た道を戻っていたんです。本当です。三回試しました。最後は道に印をつけながら歩いて、同じところは通りませんでした。なのに、気がつくと城の下にいて。もう、どうしたらいいのか……本当なんです。信じてください」
僕は情けない声で同じ内容を繰り返すことしかできなかった。まっすぐ彼を見ることもできず、肩が落ちているのが自分でもわかった。あなたが何かしたのでしょう、などと言える雰囲気ではとてもない。サリクスはあきらかに、その館へ僕を再び迎え入れることに躊躇していたからだ。
「あの、ご迷惑はおかけしませんから、せめて城壁の中に居させてくださいませんか。獣が怖くて……」
「――この寒さの中、客人を外で眠らせるほど薄情ではないつもりだよ」
サリクスは静かにため息をついた。
「しかたがない。入りなさい」
あからさまに迷惑そうなその態度に僕は悲しくなったが、屋根の下へ入れてもらえたことには安堵した。勝手に押しかけておいて今度は帰れないと言い出すなんて、もしもサリクスのせいでないのなら不審に思うにきまっている。
僕等は言葉少なに玄関広間を抜け、階段を上り、サリクスの工房に戻ってきた。
彼に促されて暖炉のそばに立つと暖炉の薪が小さく爆ぜた。その熱が頬を痺れさせて、僕はやっと自分の体が冷え切っていたことを知った。サリクスは僕が城の門を叩くまでなにか作業をしていたらしく、すぐに机の上のものを雑に片付けた。
それから僕は作業机の端に座らされ、暖炉で温めてあった小鍋から薄味のシチューを分けてもらった。
「食堂でのご馳走でなくてすまないけれど、仕事中だったんだ。そこで食べてから部屋へ行くといい。それと、下山の時の様子をもう少し詳しく聞かせてくれるかな。食べながらでいいから」
サリクスはそう言って書きもの机の前に座り、驚いたことに、無造作に頭巾を脱いで脇に放ってしまった。僕の座っている位置からは彼の横顔がよく見えた。高く結い上げてなお背中を流れる黒髪が少し乱れたのを気にも止めず、置きっ放してあった帳面を開いて羽ペンを手に取り、しばらくなにか書きつけていた。やがてサリクスは手を止め、顔を上げた。
「君はなにが原因だと思う?」
サリクスは前を向いたまま僕に問いかけた。こちらを振り向きはしなかった。
「歩いていた時には、あなたの結界のせいなのではないかと思っていたのですが、」
「うん」
「あなたの反応を見るにそれは違ったようなので、今は見当もつきません」
「君はちゃんと帰りたいと思っていたか?」
「もちろんです……たぶん」
「歩きながら違和感を感じたりしたかな」
「いいえ、途中ではなにも。違和感を感じた時には城の下でした」
サリクスは顎のあたりで羽ペンを揺らした。
「アルジャンから聞いていると思うけれど、たしかに私はこの山一帯に結界を張っている。私の名を指向して登ってくるものだけが、ここにたどり着けるように。けれど、出ていくもののことは特に規定していないんだよ。アルジャンはたまにここへ来るんだが、山から降りられなかったなんて聞いたことがない」
「すみません……」
僕の消え入りそうな声がおかしかったのか、サリクスは少し微笑んだように見えた。
「君を責めているわけじゃない。外からなにか干渉があったのかもしれないと考えていたんだ。可能性は低いが、もしも明日も下山できなかったら一度結界を外してみてもいい。ただ、その間この場所が人目についても困るし、少し大掛かりなものだから、魔力が増す満月の日にかけ直さなければいけない。ひと月待ってもらうかもしれないから、そのつもりでいてほしい。その前に私も外を歩いて、他の問題がないか見てみよう」
たちまち方針が決まったらしく、僕はやっと少しだけ肩の力が抜けた。サリクスはまだなにか書きつけていたので、僕はそのあいだ、彼の横顔の涼やかな稜線を眺めた。長い睫毛が鼻梁におとす影が時折瞬き、耳飾りの透明な石が揺れると白い頬に光を跳ね返した。
「なにかめずらしいか」
ぼんやりと見とれていた僕は、サリクスの言葉で我に帰った。
「あっ、すみません。あの、耳飾りが……」
そうは言ったものの、もちろん僕は耳飾りが珍しくて見つめていたわけではなかった。サリクスは書き上がったものをすばやく見返すと羽ペンを置き、同時に僕の言葉に呆れたように首を傾げた。それからまた頭巾を掴むと雑にかぶり直した。
「あまり人の顔をじろじろ見るものじゃない」
「失礼しました……」
僕は頬が熱くなるのを感じ、どうか暖炉の火の赤さに紛れて彼に気づかれないようにと願った。
翌日、夜明けと共に起きた僕は身支度を整えてさっそく下山を試みた。外へ出るドアしか開いておらず、サリクスの気配はなかった。念のため書き置きを残して館を出た。薄く桃色に色付いた朝の霧があたりを覆っていたが、やがてきれいに晴れ渡ると森は明るく清々しかった。今度こそ下山できるのではないかと思われて僕の心は弾んだ。
しかし、早くも昼前に、僕はまた城の門を潜る羽目になった。なんとなく気まずさを感じながらそっと通用口の扉を閉めた僕の背中に、広間の階段の上からサリクスの声が降ってきた。
「だめだったか」
「サリクス……」
言葉に抑揚はないが「まだいるのか」と呆れられたような気がして、僕は思わず自分のつま先を見つめた。すこし尖った革靴は山道の湿った土で汚れていた。
「落胆していないで上がってきなさい。食事の用意ができている。食後、すこし休んだら今度は私も行く。体力があるなら同行してくれ」
サリクスは僕が階段を登っていくのを待ちながらそう言った。
食後はすぐに出かけるものと思っていたのだが、サリクスは、僕に寝室の隣の『狩猟の間』で待つように言って部屋を出たきりなかなか戻ってこなかった。僕が退屈に負けて長椅子で居眠りをしていると、日も傾きはじめた頃になってやっと彼は姿を現した。
「これではすぐに日が暮れてしまいませんか?」
彼の後に続いて森へ分け入りながら僕は聞いてみたが、サリクスは振り返りもしなかった。
「日が暮れたらなにか問題が?」
思わず、質問しているのは僕です、と言いそうになったがぐっと堪えて飲み込んだ。
サリクスは相変わらず首飾りや腕輪を賑やかに鳴らしながら、同時に不思議な静けさをまとって歩いた。動作が非常に静かなのだ。彼は僕よりも背が高かった。そのぶん歩幅も大きいようだが、宝飾品の鳴らす音はうるさくはなかった。むしろまるで楽の音のように、雅やかに響くのだった。
「サリクスの歩く音は綺麗ですね。楽器みたいで」
僕が褒めると、サリクスは「熊よけの鈴だよ」と返した。よくわからないが、照れ隠しだろうと僕は思った。
案の定すぐに日が落ちてしまったが、自分たちの周りだけ十分な明るさが保たれていることにやがて僕は気がついた。サリクスの魔法なのだろう。ふつうの魔法使いなら光球を浮かべておくものだが、彼の明かりは光源らしい光源がない。館でも気になってはいたのだが、ぼんやりと光が満ちるようにあたりを明るくするので、あまり強い影が生じない。目にも優しいし、便利そうな魔法だった。ただし難易度の点で言えば、きっと光球を出すよりずっと高度なのではないかと思う。
彼の魔法のおかげであたりは広い範囲で薄明るく、昼間と比べても歩くのに苦労することはなかった。これならたしかに困ることもないだろう。僕はサリクスの言葉を思い出して密かに舌を巻いた。
そのとき突然サリクスが足を止めた。あたりの森はすでに深い闇で、空には星が輝いていた。彼はゆっくりと周りを見渡して、次に左手のロッドで地面を軽く叩いた。耳を澄ませているようなその様子につられて、僕も動きを止めて息を詰めた。遠くでフクロウの鳴く声が聞こえた。
「このあたりから
沈黙のあとでそう呟いて、サリクスはすこし考えこんだ。
たしかに僕もそろそろ戻ってしまうのではないかと思っていたところだった。五度も繰り返せば距離も覚える。なにか魔術的なしかけがあるなら、それを取り除けば良いはずだった。
「しかし、特に仕掛けがあるわけではないようだな」
サリクスの言葉に僕はすこしがっかりしたが、彼がまたすぐに歩き出したので慌てて追いかけた。
「どうせ戻るならそのまま進んでみよう。来た道を戻るより早そうだ」
サリクスはそう言ってまっすぐに歩き出し、かと思うとほんの数歩で立ち止まった。僕もそれに倣って顔をあげた。
いつのまにか下り坂は上り坂に転じ、目の前には背後に置いてきたはずの城壁が月の光に照らされていた。
寝台で横になり、眠りが訪れるのを待ちながら、僕は何度目かのため息をついた。
結局、僕はとうぶん下山できそうにないらしい事だけがわかった。ここに一月も滞在することを思うと、正直それだけで気が滅入る。
父の指輪が引き合わせてくれた稀代の魔法使いは、あまりにも人間離れしていた。彼が本当に父の友人だったらしいことが分かっても、親近感は全く湧かなかった。彼が持つ力に対する恐怖の方が先に立ってしまい、うっかり彼の機嫌を損ねて、なにかひどい目に合わされはしないかと気を使わずにいられなかった。気のせいでなければ、今日はまた首飾りが増えていた。
空間が反転するこの不思議な現象について、サリクスは「なんとなく察しはついたが、確信は持てない。一度結界を解除するのがやはり確実だろう」と話してくれた。横で見ていても彼の目立った行動はロッドで大地をつついたくらいで、あれでなんの察しがつくのか僕にはわからなかったが、彼にはなにか見えているのだろう。
彼の結界は俗に閉鎖結界と呼ばれるもので、任意の空間の外縁に触媒を設置し、術式を用いて障壁を出現させて、その空間を外界から隔離するものらしい。効果範囲にいろいろな制約を加える事ができるのだが、広範囲の結界は持続が難しかったり、出力が足りず脆弱になりやすいのだという。彼も山ひとつに結界を張るのは骨が折れると話してくれた。それを補うために複雑な術式を用いるとのことだった。
今回は、その境界に外部から干渉がなされ、サリクスの結界を利用するような形で効果が歪められた可能性があるという。結界は部分的に解除することができないので、一度完全に結界を解き、魔術的な影響をすべて確実に排除したところで僕を下山させ、のち再び結界を張り直すということだった。
彼も、僕を早く下界に返したがっているのはどうやら確実だった。それならば、おとなしく彼の言う通りにする以外、僕にできることはなさそうだった。
僕はそこでふと思い出し、寝台の近くに放り出してあった自分の荷物に手を伸ばして、一冊の魔導書を取り出した。セントラルで教わる初級から中級の魔法が載っている辞典のようなものだ。小さく作られていて、若いうちはいつでも持ち歩き、何度でも参照するようにと持たされる基本の書だった。ちなみに結界は高等魔術なのでこの本には載っていない。僕はうつ伏せになって本を開き、破邪と解呪の項を引いてみた。
じつは、最初に下山できなかった時に、まっさきにこれらをいくつか試してみたのだ。なんの効果も得られなかったのだが、なにか間違っていたのではなかったかと、僕は頁の隅から隅まで目を通した。呪文の発音、術式の順序、印の切りかた……二度三度と記憶を確かめてから、僕はため息をついて本を閉じ、枕の横に投げすてた。そしてまた、ため息をつき、天井を見つめ、もう一度ため息をついた。
ここにきてからというもの、サリクスは僕が知っている魔法など一つも使っていなかった。この城の扉や雨戸が勝手に開閉するのも、明かりで満たされているのも、どういった仕組みでそうなっているのか僕にはよくわからない。複雑な魔法陣も、貴重な触媒も目にしていない。結界に関しては術式を用いているらしいと聞いて、少し安堵したほどだった。
嫉妬などという大それた感情ではなく、ただ自分の矮小さを突きつけられることが僕を憂鬱にした。自分なりに努力して結果を出してきたと思っていただけに、努力しても手に入らないものを見せつけられているようで、複雑な気分だった。
彼が際立った能力の持ち主であることはとっくに知っていて、憧れさえ持っていたはずなのに、なぜこんなにも気分が晴れないのだろう。そう考えたところで、僕ははたと気が付いた――そうだ。僕は憧れていた。サリクスに憧れていたのだ。僕はつまるところ、彼と親密になりたかったのかもしれない。だから彼に拒絶されている気配が、僕に余計なため息をつかせるのかもしれなかった。
親密になることは難しくても、なんとかまずまずの関係を築けたらそれでいいじゃないかと僕は考えた。むしろ、それすら難しいことかもしれない。能力も、性格も、経験も、なにもかもにおいて溝は深く、ほんの僅かでも埋まることはないような気がした。
けれどなんにせよ、ひとりでサリクスに勝手な期待をして、勝手に幻滅しているのだとしたら、ひどく馬鹿馬鹿しくて失礼な話だった。
僕はやっと目を閉じて、堂々巡りする不安の渦の中に意識を放り投げた。
サリクスが僕をどう捉えるかなんて、僕にどうこうできる問題じゃない。――どうにでもなればいい。やれることをやるだけだ。どうせ、なるようにしかならないのだから。
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