第1話 サリクス

 山は神域、夜は魔の時である。夜の山はあきらかに人間の領域ではなかった。鬱蒼とした森の斜面で僕はひとり途方に暮れていた。

 あたりは暗闇だった。なんとか木の幹くらいは判別できたが、足元の闇がただの影なのか、それとも深い穴なのか分からない。下手に動けば落ち葉に埋もれた窪みに落ちかねなかった。

 暦は満月のはずだが曇っており、梢枝から時折覗く空には星も見えなかった。


 僕は大きな木の根元の、盛り上がった根の乾いたところに腰掛けて、眠ることもできないままじっと時間が過ぎるのを待っていた。湿気て独特の匂いを放つ落ち葉の上に腰を下ろす気にはなれなかった。

 傍にはカンテラがあった。魔法使いが使うものではなく、油の入ったごく普通のカンテラだ。僕も魔法で明かりをつけるくらいはできるようになっていたが、夜通し明かりを灯し続けるのはまだ難儀だった。

 油がもったいないので消してしまったが、なかなか暗闇の恐怖に慣れることはできず、いざとなればすぐに明かりをつけられるように風防は開けたままだった。握りしめた魔法の杖だけが心の支えだった。



 麓の村に着いたのは三日前のことだ。長旅の体をやすめながら「山に住む魔法使いの話を聞いたことがあるか?」と手当たり次第に聞いて回ったが、返答は軒並み芳しくなかった。どうやら魔法使いが住んでいるらしいという噂はあるが、その姿はおろか、住処さえ見たものは誰もいないということだった。

 山に出入りする木こりに道を教えてもらい、細い林道に足を踏み入れたのは今日の早朝のこと。慣れない山道を夢中で歩き回っていたら、下山の時を逃してしまった。

 山の日没がこれほど急なものだとは知らなかった。見る間にあたりは青くなり、霧が湧きたって、まるで人間に許された時間がおわったことを知らしめるように視界を奪った。その時の焦りと不安といったら経験したことのないものだった。僕の故郷は丘陵地帯で、丘のような山しか歩いたことがなかったのだ。ここは霊峰カナイアに連なる峻峰のひとつで、地元の小山など比べるべくもない。


 夜明けはまだずっと先のはずだった。幸い霧は薄まったが、目の前に広がる得体のしれない闇と、そこから生じる気が狂いそうな恐怖から意識を逸らそうと、僕は過去の温かな思い出を遡り、ここに来た理由について反芻しつづけた。

 どれほどの時間そうしていたのかわからない。長い時間が経ったかに思われた頃、僕は不意にめまいのような感覚に襲われた。続いて耳鳴りと、背筋を駆け上がる寒気。一拍遅れてそれが恐怖であることを自覚し、同時に全身から冷や汗が吹き出した。なにかが近づいてきている。

 僕は必死で木の幹にすがり、なんとか体を支えながら周囲を見渡そうとした。しかしすでに迫り上がる吐き気とめまいで目を開けていることも難しかった。意識が暗転する間際、樹々の間に淡い光が見えた気がした。



   †



 故郷を出た十五の僕は、いくつかの小さな宿場を辿って、近郊で一番大きな都市にたどり着いた。ランカラという街で、カナイア連峰を迂回するための道と、海から内陸へ向かう道が交わる大きな街だ。ここには魔法使いの組合ギルドもあるということだった。


 街に到着した僕は賑やかさに圧倒されながらも、道ゆく人を捕まえては道を訪ね、まっさきに魔法使いの組合を探し出した。その建物は、目抜き通りから少し離れた、路地の最も奥まった一角にあった。簡素な看板がかかっているだけで、一見すると普通の住宅に見えるそのドアを叩くと、すぐに若い魔法使いがドアを開けて対応してくれた。

 中はあまり広くなかったが小さなカウンターが作りつけてあり、棚には名簿らしき紙束や手紙の類が積まれていた。事情を話すと、呪いに詳しい魔法使いを紹介してもらうことができた。

 そうして僕は翌日、身嗜みを整えて魔法使いの工房を訪ねた。



 気難しい顔で僕の持ち込んだ指輪を矯めつ眇めつしてから、その男は「ふむ」と唸った。黒い髪を撫でつけた、髭面の魔法使いだった。初老だが体つきががっしりしていて、魔法使いというよりは鍛冶屋の親方と言っても通用しそうな雰囲気をしている。

 暖炉の近くで机を挟んで僕らは向き合っていた。まだ暖炉に火を入れる季節ではなく、中庭に面した高窓から光が差し込んで部屋全体が明るかった。目の前の机はおそらく食卓か応接用なのだろう。奥にある雑然とした大きな机と違ってきれいに片付いていた。僕は思わず少し身を乗り出した。

「どうですか」

「確かに呪いの類だね」

 僕はそれを聞いて、自分の考えが肯定された嬉しさと、安堵と、同時に一抹の淋しさを覚えた。形見の指輪を手放すのはやはり名残惜しい。

「では父はやはり……」

 僕の言葉に、しかし魔法使いは首を振った。

「たしかに呪いがかけられている。しかしそれ自体は悪意ある内容ではないよ。これで人が死ぬことはない」

「どういうことですか?」

「……君のお父上は皮膚を病んだのだったか」

「ええ」

 魔法使いはおもむろに立ち上がると、奥の部屋にひっこみ、すぐにまた出てきた。手には一冊の本があった。彼はそれを広げて何回かめくり、すぐに目的の箇所を見つけたようだった。どのページになにが書かれているのか、もうすっかり頭に入っているのだろう。本を回し、僕の方に向けて見せてくれる。そこには鉱物と思しき絵と小さな文字が書き込まれていた。鉱物は角柱のような形をして石くれから生えている。僕は恐る恐る彼を見た。

「すみません、文字が読めなくて……」

 彼は表情を変えずに話しだした。

「これは《稀石きせき》についての本だ」

「稀石?」

「うん。一般の人々は知らなくても仕方がない。これは特殊な鉱物で、めったに産出しない」

「はぁ」

 僕は不穏な予感を感じて指輪の石をちらりと見た。彼は続けた。

「《護符タリスマン》のことは知っているか?」

「魔力を封じた宝石で作られる魔法の護符のことですね」

「そうだ。もともと石は魔力と干渉しやすい。その性質を利用して石に魔力を付与すると、その効果を継続的に得ることができるようになる。そうしたものは、まぁ一般にも比較的知られているだろう。魔法使いが作り、魔力のない人間でも金を積めば買えるし、使える」

 僕の村にも時折ながれの魔法使いがやってきて、路銀稼ぎにそういったものを売っていたのを見たことがあった。村長の奥さんは自分の娘にペンダントを買ったらしい。また、教祠の神官もこの類のものを用いることがあると聞いた。


 魔法使いは僕の顔を伺ってから話を続けた。

「普通、石は勝手に魔力を帯びることはない。また呪いの効力も時とともに次第に薄れる。しかしこの稀石はちがう。採掘された時点ですでに強力な魔力を帯びているのだ。普通の人間は魔力に当てられて身体を害してしまう。魔力のあるものでも下手に使えば反作用で命を落としかねない。故に教祠によって流通を厳しく制限され、一般には出回らない。魔法使いや神官以外が手にする機会はまずない」

 彼は僕の指輪を摘み上げてみせた。

「だが、この石は、それだ」

 透明な石がチラリと光を跳ね返した。

「この本によるとこの石はおそらく、これだ。メヌスライト。持ち主の魔力に干渉して打ち消すことで知られる。反作用は主に皮膚の損傷、同時に魔力で臓腑も蝕まれることが確認されている……君の父上がもし指輪のせいで亡くなったのだとしたら、この石こそが原因だったかもしれない」

 僕は黙って魔法使いの指し示した図版を見、そして指輪を見た。

 なぜそんなものを父が持っていたのか。この小さな指輪の持ち主はやはり魔法使いだったのか。魔法使いなら、なぜそんなものを父に贈ったのだろう。


「あの、呪いの方はどんなものなんですか」

 僕はやや混乱しながらも、気になっていたことを聞いてみた。魔法使いは指輪をまた机の上に置いた。


「『この指輪が持ち主の手を離れることがないように』」


 黙っている僕に、魔法使いは息をついてからたずねた。

「護符と違って稀石を無力化することはできない。呪いの方も、不可解だが術式がわからないから簡単には解けないかもしれないな。君はこの指輪をどうしたい?」

 僕はどうにも整理のつかずおさまりの悪い心持ちになり、困惑していた。

「わかりません……父はこれをとても大切にしていました。もしかしたら呪いの効果だったのかもしれませんけど、でも大切な友人からもらったものだと言っていました。僕は、その人は魔法使いだったのではないかと思っていたのですけど、それならなぜ普通の呪いではなく、そんな貴重なものを手放して、周りくどいやり方をしたのでしょう。どちらにせよ、悪意のある贈り物だったのでしょうか」

「普通に考えると、魔法使い以外の人間が稀石を持つことはないだろう。君はそのご友人の名前がわかるかい?魔法使いなら必ず教祠が把握しているはずだ。どんな人物かわかるかもしれない」

「遠い記憶でややおぼつかないのですが、たしか、父は『サリクス』と……」

 僕の言葉に魔法使いは目を見開いた。

「サリクス?本当に?」

「はい?」

 彼は信じられないとでも言いたげに首を振った。

「もしもそれが本当なら、教祠に問い合わせるまでもないが……いや、しかし……」

 怪訝な顔をしていたらしい僕に気づいて、彼はすこし眉を上げた。そして居住まいをただし、咳払いを一つした。

「幸いというべきか、サリクスという名前は魔法使いならおそらく誰でも知っている。近年稀に見る大魔法使いだ。今生きている魔法使いでこの名前はおそらくひとり。少々信じがたいのだがね。しかし、この指輪……さきほど私は術式がわからないと言ったが、おそらく触媒が用いられていないんだ。なみの魔法使いにできることじゃないんだが、彼の仕業なら納得できる」

 魔法使いは興奮気味にそう言って、ふたたび指輪を摘んでうっとりと眺めた。それから不意に顔を曇らせて、僕をみた。哀れみのような目で。

「――しかし、君は彼を探し出したいのだろうね?その点では、この指輪が彼のものだとしたら不幸なほどに困難だ。なぜなら、今ではだれも彼に会うことができないのだから」



 指輪を見てくれた魔法使いは名をドラーゲといった。彼は、指輪は解呪の必要がなかったので相談料は必要ないと言ってくれた。けれども僕が村長からの紹介状を差し出し「それでは代わりに働きたい。できれば弟子にしてほしい」と申し出ると、意外にも快諾してくれた。ちょうど、下働きの少年が家庭の事情で辞めてしまったところなのだと、彼は肩を竦めた。

 思わぬ幸運にめぐまれて、僕はさっそく彼のもとで働きながら、魔法使いになるための勉強に励むことになった。



 ドラーゲは真面目で、なおかつ気の良い男であることがすぐにわかった。気難しそうに見えて意外と人を褒めるのがうまい。同い年の奥さんがいて、たまに彼女に贈る花を買ってくる。息子がいるがすでに家を出たらしく、僕のことを二人目の息子のようだと言って可愛がってくれた。


 彼はかつて《中央学府セントラル》でサリクスを見た時の話もしてくれた。セントラルは魔法使いを教育する教祠の学府、および研究機関の通称で、ここで二年の教程を修めるとひとまず正式な魔法使いになることができる。

 ただしこれは基礎でしかなく、優秀者は高等院に進み、そうでないものは再び市井の魔法使いの下で修行を積むのが一般的だった。

 サリクスは彼と同じくらいの世代らしい。しかしドラーゲよりもずっと早く入学し、あっという間に高等院まで卒業した。卒業した後も、長いあいだ学府で研究に打ち込んでいたという。

 あまりにも異例の飛び級だったし、その能力の高さで大変有名になったので、魔法使いで彼を知らないものはいないのだとドラーゲは言った。


「私よりも若いのに、私が入学したときにはすでに高当院で教授になるとかならないとかいう話だった。あまり人前に出てこないんだが、学府の行事で時折見かけたよ。けれどいつもフードを目深にかぶっていて、顔を見たことはない」

 サリクスの話になると、ドラーゲはいつも少し興奮気味に彼の能力を讃えた。

「彼を受け持ったという教授が話してくれたことがあったな。彼に何か魔法について『教える』ことができるものなど、当時の学府には誰一人としていなかったということだ。彼は学ぶより前にすでに知っていて、既知の魔法をいくつもの別のやり方で再現してみせた。あたらしい魔法すら編み出したのだという。誰にも教わらずにね」

「すごい人だったんですね」

 僕はサリクスの話をする時のドラーゲが好きだった。少年のように瞳を輝かせて彼は熱心にサリクスを褒めた。

「ああ。彼のそれは魔法というよりは奇跡に近いと言われていた。……魔法は体系化された集合知だということは教えたな?」

「はい」

 彼の話の腰を折らないよう短く答えると、ドラーゲは満足げに頷き、鷹揚に腕を組んだ。

「術式を組みあわせ、触媒を用いて魔法をかける……先人が少しづつ改良し、安定した効果を出す術式が研究されてきた。私たちはそれを用いて、人が扱いやすいように加工した形で現象を再現する。それはたとえば油脂に灰を加えると石鹸になるとか、火打ち石に鋼を打ちつけて火花を出すとかいうのと似たようなことだ。とにかくそうすればこうなるという、知識の積み重ねだよ。常人はなぜそうなるのかなんて知らない。ただ作り方を知れば作れるし、使える。普通の魔法使いもだいたいはそんな程度のものだ。多少素質があれば、学ぶことで使えるようになる。でも彼の場合はどうしてそうなるのか、根本的な仕組みが自ずと分かってしまうらしいんだな」

 俗に言う天才というやつだ、とドラーゲは唸った。

「しかし、何よりも彼を有名にしたのは別のことなんだ」

「他にも?」

「強大な魔力だよ。無尽蔵なんだ。なんでも彼が学府を去ったのはそれが原因だったと言われている。周りに影響が出るとかで。そしてそれきり行方知れずになってしまった。周りに影響を及ぼすほどの魔力というのがどれほどのものなのか、私には想像もつかないよ」

 ドラーゲはため息をつき、両手を上げて、おどけたように天を仰いでみせた。

「とにかくそんなわけで、その居場所を知るものは誰もいない。けれど彼はいま、その魔力を活かして稀石を研究しているらしい。おかげで最近では稀石の事が以前よりだいぶわかってきているという話だ。まだ高等院の外には共有してもらえていないがね……」

 


 僕はドラーゲの工房でさまざまな雑用をこなしながら、来る日も来る日も蝋板をひっかき、文字を覚えて、術式の辞典をめくった。そして、僕は翌年のセントラルの試験を受けた。費用の面ではドラーゲが惜しみなく支援してくれた。夏にランカラを発ち、ひと月の旅を経てセントラルを訪ねた。僕は試験に合格し、そして無事に卒業したのだった。



   †



 目を覚ますと見慣れぬ部屋にいた。僕は服を着たままりっぱな寝台に横たわっていて、見上げる天井はとても高かった。その天井には濃い色の美しい木材がふんだんに使われており、広い壁には大きなタペストリーがかけられていた。装飾された木の扉に大きな暖炉、蔓草模様の絨毯……。どこの貴族の館かと思われたが、蝋燭もランプもないのに仄明るくあたりが照らされているのは魔法の明かりに違いなかった。


 そこまで考えて僕は森で気を失ったことを思い出し、そしてあの恐怖を思い出して飛び起きた。するとまるで見計らったように軋む音をたてて部屋の扉が開いた。僕は思わず飛び退って身構えた。心臓が早鐘のように鳴った。

 扉はひとりでに開ききったが、向こう側には闇が広がっているばかりで誰もいなかった。緊張したまま杖を取り出して、入り口を睨み付ける。しばらくすると、遠くからなにか硬質な音が響いてきた。靴音のようだった。そして金属が細かく触れ合うような音がそれに続いた。音がだんだんと近づいてきて、やがて空いた扉の向こうの闇の中に、浮かび上がるようにして人影が現れた。

 その人は一度立ち止まり、僕が杖を構えているのを見たはずだった。しかしその顔のあたりは暗色のヴェールで覆われていたので、はっきりとはわからなかった。


 一目見て彼が高位の魔法使いだとわかった。ヴェールがついていることを除けば、学府で教授陣がかぶっていたのと同じ錦織のとがった頭巾に、知恵を象徴する深い紫色のローブ。その襟や袖には金糸の刺繍が施されている。大きな宝石のはまったロッドを手にし、呪いを編んだ組紐を長衣の帯にしていた。しかし何より目を引くのはその身を飾るおびただしい宝石だった。彼の動きに合わせて、幾重にも連なった首飾りがさざめくように音を立てた。手袋越しの指にもそれぞれ指輪が嵌められていた。

 そして、同時に僕は胃の底が蠢くような不快さを感じて、彼があの森で出会った恐怖の正体なのだと理解した。しかし今回は気を失うほどではなかった。


 その人はまたゆっくりと歩き出し、沈黙のまま寝台のそばまでやってきた。僕は生唾を飲み込んだ。杖を握る手が少し震えているのが自分でもわかった。彼は少し逡巡するようなそぶりをみせてから、寝台の端にゆったりと腰掛けた。そしておもむろに僕の方へ指輪だらけの手を伸ばした。

 僕は反射的に身をかわそうとして、自分がすでに寝台の端にいたことを知った。勢い余ってひっくり返り、寝台から落ちて強かに肩を打った。その瞬間、自分の首にかけていた細い鎖がはずれ、鎖に繋いだあの指輪が引っ張られるようにして彼の手元へ飛んでいったのを見た。


 あわてて体を起こして寝台の上に上半身だけよじ登ると、魔法使いは小さな指輪を眺めているところだった。そして小さく呟いた。

「私の指輪だ」

 声は意外なほど若かった。低く柔らかで、少しだけ甘さがある。感情は読み取れなかった。

「あなたがサリクス?」

 おそるおそる僕はたずねた。

 彼は僕の方に向き直ると、片手でゆっくりとその面を隠すヴェールを持ち上げた。口元から現れていく顔に、僕はつい目を奪われた。陶製の人形のような、美しくも感情のない、怜悧な。しかしそのはっきりとした切れ長の眼がひとつ現れて僕の視線を捉えた瞬間、僕は自分の迂闊さを後悔した。突然奇妙な時間の歪みに飲み込まれ、時が止まったような感覚があった。漆黒の瞳に吸い込まれる意識、そして自分の過去が走馬灯のように駆け巡った。


(――視られた!!)

 指輪を見て呪われていることを知った時と同じように、僕は理解した。彼は僕の過去を断りもなく視た。それはあまりにも不快な体験だった。いきなり口に手を突っ込まれるような感覚とでも言えばいいだろうか。普段意識することもないような急所を無造作に掴まれ、探られているようだった。

 屈辱的だった。はじめて会ったばかりの人間に、自分の何もかもを暴かれるのがこんなに不快なことだとは思わなかった。僕の故郷の記憶、ドラーゲの工房、セントラルでの記憶が眼裏を通り過ぎていった。僕の父、僕の母、僕の友達、僕の大切な人たちが僕にだけ見せてくれた顔、言葉、僕だけが知っていたこと、押し込めた感情、旅立ちの日のネア……そうした景色と感情とが、自分の意思とは関係なく、抉りだされるように引き出されつづける。その苦痛から逃れようと、僕は無我夢中でもがいた。

 やがてどうにか顔を背けることに成功したらしい。とつぜん解放された僕は、動揺のあまり両手で顔を覆ってうずくまった。

「ひどい……」

 立て続けの恐怖と屈辱に僕はすっかり参ってしまって、彼を責めずにいられなかった。僕は震える声で訴えた。

「どうしてこんなことを?僕がなにをしたというのですか」

「君が私の領域に入り込んできた」

 平坦な声が返ってきて、にわかに怒りが湧いた。しかし言葉が出なかった。わずかに衣擦れの音がして、彼が立ち上がったことがわかった。僕は顔を上げて彼を睨みつけた。

「安心しなさい、もう視ない。君に悪意のないことはわかったから」

 魔法使いはヴェール越しに僕を見下ろして、感情のこもらない声で宣ったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る