稀石の魔道士

s.nakamitsu

プロローグ

 ここにひとつの指輪がある。

 際立った特徴もない真鍮の指輪だ。滑らかな曲面に仕上げられた細くも太くもないその輪には、小さな石がひとつ嵌め込まれている。石は透明で、輪の径は小さく、一見すると小柄な女性の持ち物のように思われた。掌の上でさしたる重さもなく鈍く光っているそれを、僕は指先でそっとなぞった。



 僕の一番古い記憶は父の胸元でその指輪が虹色に煌く光景だった。節くれだった自分の指には嵌めることができないそれを、父は鎖を通して首から下げていた。僕は父の腕に抱かれるとき、つい手遊びにその鎖を弄んだ。指輪そのものというよりは、輪にはめ込まれた石が妙に僕の気を引いたのだ。

「リコはそれが好きかい?」

 僕が肯くと、父は破顔した。

「お父さんも好きだよ。きれいだろう。宝物なんだ」


 その父は僕が十になる前に死んだ。肌が朽ちる奇病にかかり、医者も早々にさじを投げたのだという。医者と言っても小さな貧しい村でのことだ。丘の上にある小さな《教祠きょうし》の神官がその役目をも担っていた。

 彼は任期を終えて村を去る時、少し成長した僕に父の病について詳しく話をしてくれた。父の病は街でも見たことのないものだったと。

 父は皮膚の異変に気づいていながら、ずいぶん長いことひた隠しにしていたらしい。生活に支障が出はじめた頃にはすでに手遅れの感が強く、薬草の類はなんの効果ももたらさなかった。馬で三日かかる大きな街の医者を頼ってみようと手配を整えた翌朝、寝所で静かに息を引き取った。霜立つ晩冬の朝だった。



 時が流れて僕は十五になった。村では大人として認められる年齢であり、夏至祭には未来の花嫁に声をかけても良いことになっていた。

 小さな村だが土地は豊かで実りは多く、四季が美しいところだった。うねるように連なった丘には石垣と灌木、たまに背の高い樹が植えられているのは風除けだ。緑の丘のほとんどが牧草地で、いつも羊が長閑に草を食んでいる。近隣の村とも交流があってあまり閉鎖的でもなく、人々はみんな仲がよかった。


 小川からの帰り道、その日の釣果は上々で、芽吹いたばかりの若い下草を裸足で踏むのも心地よかった。春の空はほのぼのと青く、みどりは輝いていた。十人ばかり集まった同じ年頃の少年たちはみんな上機嫌で騒ぎながら、水面を撫でるように枝を伸ばした柳のそばから村へ戻る小道に上がった。小さな水守の精霊を祀った祠のある辻を過ぎたところで、僕の隣を歩いていたバドが突然顔を上げて切り出した。

「おい、リコ。おまえはどの娘を狙ってるんだ?」

 釣れたばかりの魚が入った大きな籠を日に焼けた腕に抱え、満足げに獲物を検分していたと思っていたのだが、頭の中では別のことを考えていたらしい。

 僕と同じ歳の男子は村に数人いた。まだ夏至祭はずっと先だが、日差しが暖かくなるにつれて、みんな期待と不安で落ち着きがなくなっていることは僕にもわかっていた。

「それって内緒にしなくちゃいけないんじゃなかった?」

 僕ができるだけつれなく返すとバドは鼻を鳴らした。

「当日恥をかきたくないだろう?こっそり前もって話をつけておくもんだってじじが言ってた」

「夏至祭までまだあと三月はあるよ」

 気が早いな、と僕が言うと、今度は前を歩いていたザジが振り返った。

「早くないよ!あっという間さ。おれはネアに申し込むんだ。おまえら手を出すなよな」

「ザジが?ネアを?ばか言え!全然ネアに釣り合ってないよ」

 バドがすぐに声を上げた。あんまりな言い方だったが、ザジを擁護する声が上がらないところを見るとみんな同じ意見らしい。

「じゃあ誰なら釣り合うって言うんだ?」

 ザジはムキになって返す。ザジはちょっと喧嘩っ早いところがある。

「おれはリコがいいと思う」

「えっ、僕?」

 突然流れ矢が飛んできて僕は慌てた。

「なんだ?不満か?ネアは村で一番美人じゃないか」

 僕はちょっと言葉に詰まった。たしかにネアはかわいい。僕等よりひとつ年下で、この村ではちょっと浮いて見えるくらい上品な子だった。その彼女とお似合いだと言われるのは気恥ずかしかくも嬉しいことだ。けれど僕は、そう言ってくれたバドと、かわいいネアと、僕自身を貶めないように気を使いながらなんとか誤魔化そうとした。

「ネアはみんなに好かれてるから、下手なこと言えないよ」

「あいつはおまえのことが好きだぜ」

「どうしてそう思う?」

「見りゃわかる」

 会話のかたわら、バドの横でふてくされているザジの目線が痛い。

「わからないよ。人の縁は導きの精霊ドゥクスしだいなんだから」

 バドは「お前のそういうところがだよ」と、またなにか言いだす素振りだったので、僕は釣竿を担ぎ直して駆け出した。そしてすぐに振り返って叫んだ。

「村まで競争だ!勝ったやつから好きな子に声をかける!」

 みんなそれを聞いて一斉に走り出した。僕は精一杯走るように装いながら、順位を落としてザジの後につけた。

 ――僕は夏至祭の前にこの村を出るつもりだった。



 六月の最初の週、ロアナの日に僕は旅立つことになった。ロアナは旅人を守護してくれる精霊といわれている。ずっと反対していた母も、僕が「魔法使いになるために街へ出る」という決意を曲げる気がないのを知って、とうとう諦め、旅立ちの準備に協力してくれた。

 その日はいよいよ明日に迫っていた。夜が明けるころ僕はもうこの村にいない。


 夕餉のあと、冷たい夜風に当たりながら納屋の軒下から星を眺めていると、フィリが出てきて隣に座った。三つ年下の弟である彼は、所在なさげな表情をして、しばらく地面に散らばった干し草を指でかき混ぜていた。

 父と僕とによく似たブロンドの髪の毛が額にかかり、目元に影を落としていたので、彼の表情は少し分かりづらかった。近ごろ僕は、大人たちから父の若い頃によく似ていると言われるようになっていた。フィリは母似と言われていたが、それでも時折父の面影が垣間見えた。

「僕がいない間、母さんを頼むよ」

 彼にはすこし荷が重いかもしれないと思いながらも、他に頼める家族はいなかった。言いながらすこし喉が痞えた。

「どうしても行くの」

 フィリは小さな声で言った後、すがるように僕を見た。

「うん」

「本当に魔法使いになれるの」

 疑問になりきらなかったその言葉尻に彼の気遣いが感じられた。フィリは昔から優しい子だった。

「わからない。でも本当はね、それは大切なことじゃないんだ」

「どういうこと?」

 誰にも言わずに旅立つつもりだったが、この優しい弟にだけは本当の理由を言っておきたくなって、僕は言葉を選んだ。

「おまえは父さんの指輪のことを知っていたっけ」

「兄さんがもらったやつ?」

「うん」

「その指輪がどうかしたの」

「昨年の降誕祭の演じものをする時に、あの指輪を子供たちに貸してあげようとしただろう」

「ああ、ずっと使っていた小道具を無くしてしまったと言ってたね。でも兄さん、指輪は見つからなかったって言ってなかった?」

「……僕はあの指輪をずっと箱に入れてしまっていたんだ。寝台の下のあの箱の中だよ。取り出してみて、驚いた」

「壊れてた?」

 僕はフィリの透き通った黄緑色の瞳を見た。それからできるだけ心を落ち着けて続けた。

いたんだ」

 思いの外自分の言葉が深刻に響いたような気がして怖くなり、たぶんね、と付け足した。

 フィリは口を開いたが、なにも言わずにまた閉じてしまった。

「きっと、もしかしたら、父さんは呪われて、そのせいで死んだのかもしれない。あれからずっとそのことが頭から離れない」

 フィリは首を傾げた。

「呪いって、見えるの?」

「いや、見えるわけじゃない。ただ、どうしてかそう思ったんだ。気のせいかもしれないけど、僕は確信してる。だから街に出て、魔法使いに指輪を見てもらおうと思うんだ。悪いものなら処分してもらう。もしも気のせいじゃなかったら、魔法使いの弟子にしてもらえるかもしれないし」

「そうだったの」

「だからさ、才能がなかったらきっとすぐに帰ってくるよ。本当はどうしても魔法使いになりたいというわけではないんだ」

「母さんには?」

 僕はゆっくりと首を振った。

「話していない。やっと前みたいに笑ってくれるようになったばかりなのに、そんな恐ろしいこと……」

「でも、兄さんが出て行ったら、また笑わなくなっちゃうかも」

 絞り出したような弟の言葉に僕は驚いた。言われてはじめて、僕は僕がいない家で暮らす母のことを考えた。そして、先ほど食べた夕食の、普段よりも僕の好物が多く並んだ食卓のことを思い出した。

「ごめんよ……でも知りたいんだ。この指輪がなんなのか。なぜそんなものを父さんが持っていたのか。きっと無事で戻ってくるから」

「呪いがかかっていたとして、誰がかけた呪いかわかる?」

「昔父さんから聞いたことがある。友人から贈られたものだって。その人が魔法使いなら、調べることができるかも。魔法使いは仲間同士でかならず繋がりを持っているって、前に流れの魔法使いが言っていたから」

 フィリは心配そうに僕を見ていた。きっとまだ引き留めたいに違いなかった。けれども彼は、一瞬唇をひき結んでから寂しげに笑った。

「明日、晴れるといいね」



 翌朝は無事快晴だった。外へ出ると朝露で土は柔らかく湿り、濡れた青葉がわずかに煌めいた。まだ開けきらない青い空気のなかで、僕は家族と、見送りに来てくれた村長とも抱擁し、別れの挨拶をした。そしてすぐに背中を向けた。しばらく行って道を折れ、民家の壁が僕とみんなを隔てたとき、一度だけだれかが鼻をかむのが聞こえた。


 荷物はそれほど多くなかった。肩から下げた布鞄ひとつ、腰につけた財布とポーチ、着慣れた外套。唯一革の靴だけが新しく、馴染んでいなかった。街へ出るのに肩身の狭い思いをしないようにと母が用意してくれた靴だった。そのわずかな差異が、畑仕事へ行くのではないことを僕につよく意識させた。なるべく昔のことを考えないようにして、僕は土を踏む感触と、頬を撫でる冷えた風へと意識を傾けた。


 広場まで来たとき、道端のにれの下に誰かいるのが見えた。誰だろうかと目を凝らすと、やや遅れて相手も面を上げた。そして慌てたように小走りで道の真ん中に、つまり僕の行く手に立った。亜麻色の髪が風にひらめき、薄茶色の双眸が僕を見た。ネアだった。

「あの――」

 ネアは自分の声の小ささに驚いたように口ごもり、唾を飲み込んだ。

 それからすこし声を強めて言い直した。

「リコが村を出るつもりだと母に聞いたの」

「……うん」

 僕は観念して答えた。

「本当に行くのね」

 ネアは僕の頭から足の先までを眺めて、旅装であることを確かめたようだった。

「門のところまで見送ってもいい?」

「嬉しいよ」

 僕は務めて口角を上げたが、ネアの表情は強張ったままだった。

「全然知らなかった。どうして言ってくれなかったの」

「本当に村を出られるか、わからなかったから」

「反対されていたってこと?」

「それもあるけど、当日になって引き返したくなることがあるかもしれないだろ。やっぱりやめた、なんて格好悪いから」


 ネアの視線を右頬に感じながら、僕はあえてそちらを見ないようにして足元を見た。今だって、心の半分はこの村にいたいと思っているのだ。けれど真新しい靴を見ることで僕は僕の旅立ちを精一杯肯定しようとした。今は僕のやりたい事ができるようにと願われているのだ。そうして送り出してもらってきたのだ。

 元より小さな村である。すぐに門に着いてしまった。だいぶ白んできた空の下、白木の枠が道に境界を作り出していた。僕は今までその線にさしたる意味を見いだしたことはなかった。けれど今はその曖昧な境が、まるで一度超えたら戻ることのできない深い地溝のように感じられた。

「じゃあ、ここで」

「元気でね」

 ネアは僕を見た。僕もネアを見た。

 視線の絡まる間をなにか神秘的な空気が流れたような気がして、一瞬意識が虚空を彷徨った。その時、ネアが僕の首を引き寄せた。僕は一瞬おくれてなにが起きたのか理解し、次の瞬間には火傷しそうに顔が熱くなるのを感じた。ネアも頬を赤くして、けれど、見つめる間も無く踵を返して駆け出した。僕は呆然としたまま取り残された。


 彼女の足がもう少し遅かったら、僕は追いかけていたかもしれない。そしてやっぱり村に残ると彼女に言ったかもしれなかった。けれど彼女の身は軽く、風のように駆けて行ってしまった。唇に温かな柔らかさの余韻だけが残っていた。

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