12 エピローグ

2月の終わり頃に環さんを見かけた。夜の9時前で、仕事の帰り道だった。強くて生温い風が吹いていて、来週はかなり暖かくなるそうである。環さんは歩道橋の上を、S区の5丁目に向かって歩いていた。私から風になびく後ろ髪が見えた。後ろ姿だったが、間違いなく環さんだった。服装にもおぼえがある。


私は一瞬躊躇したが、追いかけて声をかけることにした。「精神のバランスをくずしている」とのことだったが、あれから何ヶ月か経っているから、大きな問題にはならないだろう。何より外を歩いているのだから、それほど調子は悪くないはずだ。


階段を駆け上がりながら、もし彼女が忘れていたらどうしようと思った。あるいは、露骨に避けられるかもしれない。そうだとしても、後腐れはないのだからと思い直した。何にせよ、お礼と、職場にはいつでも席を用意して待っていることは伝えようと思った。あと数歩で追いつくというところで、環さんの足が止まった。こちらの気配に気づいたようだ。ゆっくりと環さんが振り向く。長い髪が環さんの顔の半分をかくす。髪をかきあげると、そこにいたのは環さんではなく、Nだった。私は一瞬混乱し、その場に立ち尽くした。Nと顔を合わせるのは13年ぶりで、容姿は若干変わっている。以前より目許がたるみ、おでこのシワが目立っている。しかし間違いなくNだった。Nは黙って私を見ている。気付かないふりをして通り過ぎてしまおうかと思ったが、Nは確実に私であることをわかっている。


私は何か声をかけようと思ったが、言葉が何も出てこなかった。だいいち、どうしてこんなところにNがいるのだろうか。由真が場所を教えたのか。それはない。由真だって私がここで働いていることを知らないのだ。


あれこれ考えを巡らす私のことを、Nは感情のない目で私を見続けていた。Nのほうから何かを主張する気がないのは明らかだった。彼女は、ただ私を見続けているだけだった。由真は「Nはずっと苦しんでいた」と書いていたが、それは過ぎ去った出来事ではなく、今も続いているのである。


Nの眼差しはしばらくの間私に注がれた。私たちの立っている歩道橋の下を、何十台という車が過ぎた。少し先に大きなジャンクションがあって、そこからはじき出された車が数珠繋ぎに出てくる。車は途切れることがない。やがてNは私に背中を向け、ゆっくりと去っていった。階段を下りる靴音が徐々に小さくなる。私は音が完全に聞こえなくなるまで耳を澄ませ、気配が完全になくなると、欄干に手をかけ、その場にしゃがみ込んだ。


Nの眼差しは私の何かを完全に損なってしまった。それが何であるのか、しばらく考えていたが、やがて思い至った。私は環さんの顔を完全に忘れてしまっていた。顔だけではない。一緒に働いた日々も、そもそも環さんが存在したのかどうかも、完全に実感のないものに変わってしまっていた。


由真が望んだのは、こういう結末だったのだろうか。

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