10

環さんと4日目から連絡がとれなくなった。課長には音信不通の件は伏せ、「風邪をこじらせたようだ」とだけ伝えた。課長は環さんが誰だか、あまりわかっていなかった。人が多すぎて誰が誰だかわからないのだ。従業員は56人いて、稼働当初予定していた人数の倍になった。どうしてこんなに人が必要なのか、会社は全く理解していなかった。溜まった商品を流すために、薪を火にくべるみたいにどんどん人をとっていたらこうなった。何度も本社に呼び出されて聞き取りをされたり、レポートを提出させられたが、私自身も工場内で何が起きているのか、ほとんどわかっていなかった。ひとりひとりは懸命に作業に取り組んでいるが、数字は全く改善されなかった。そもそもとっている数字も疑わしかった。結局、ただの商品管理に現場監督は無理だったのである。課長は、私よりは現状を把握して私に指示を出すが、私はその半分もこなすことができなかった。私はそれについて最初はいちいち反省をしていたが、だんだんと課長のほうが無茶苦茶を言っているんだと思い、聞き流すようになった。課長は指示さえ出していれば、自分の仕事は済んだと思っているのだ。


稼働から1年も経つと、私のメンタルはかなり消耗した。2週間に1度はさばききれない商品の受け入れ先を探さなければならなかった。それは他の拠点だったり、新たに探し出した倉庫だったりした。知らない地名の倉庫に電話をして、保管料の交渉をした。他の拠点に電話をすると露骨に嫌がられた。そこの工場長が「君はもうよくやったのだから、早く役から降りた方がいい」とアドバイスをくれた。確かにそうかもしれないと私は思った。高田馬場に通っていたときのことを思い出した。私は仕事がしんどくて、昼休みに神社の石段に腰かけて泣いていた。真夏だったが、日陰で石段はひんやりしていた。今は泣きはしないが、夜の公園のブランコに腰かけて、辺りを眺めたりした。S区の公園にはプールが必ずある。もう少ししたらそこで泳ぐ子供の姿が見られるのだろう。季節は6月だった。


公園のブランコで一通り悩んだ翌日、私は作業日報の切れ端に自分のLINEのIDを書いて、環さんに渡した。環さんは作業台のいちばん端に立っていて、私が近づくと身構えた。私が時間当たりの作業量をチェックしにきたと思ったのだ。

「良かったらLINEしませんか?」

と言うと、環さんは眉間にシワを寄せ、困惑した表情を浮かべた。

「まあ、やってたら、の話ですけど」

私は一気に弱気になった。環さんは私のメモを引ったくると、エプロンのポケットに突っ込んだ。返事がくるまでに1週間かかった。そこには「やっと子供に設定してもらえました」とあった。環さんのアイコンは自分の姿を後ろから写したものだった。


軽く挨拶を交わした後、私は昼間課長に言われたことを並べ、仕事を辞めることを考えていると伝えた。

「そうですか......。そんなにしんどいのなら、仕方ないかもですね」

「ごめんなさい」

「じゃあ、わたしもやめます」

「いや、環さんは残ってよ」

「イヤです。福園さんがいなきゃ、つまんないもん」

「もっとちゃんとした人が来ますよ」

「そんなの辞めるあなたには関係ないでしょ?」

「そうだけど。でもやめられたら後味悪いっていうか」

「福園さん、それはわたしも同じです。少しはわたしの気持ちも考えてよ」

気持ちを考えてほしいのはこっちなんだけど、と思ったが黙っていた。

「じゃあ、あと1週間くらいがんばります」

「良かった。応援しますよ。課長なんかに負けないで」

「敵ではないけどね」

「わたし、あの人苦手。話しているときベロ出すんだもん。いやらしい」

「キスがめちゃうまいらしい」

「キモっ!!!」

だんだん真面目に話しているのも馬鹿らしくなって環さんに合わせたが、私の心はいくらか軽くなった。それから私は帰り道に頻繁にLINEをするようになった。だいたいは私の愚痴だが、たまに環さんの愚痴だったり、あるいは仕事の真面目な話だったりした。



環さんと連絡がとれなくなって以降、LINEも既読にはならなかった。私は環さんの最後のメッセージを遡って探した。最後が「おやすみなさい」でその前が「こちらこそ」だった。私が「いつもありがとう」と入れたからである。その前は「いつ引っ越してくるの?」だった。私が朝起きるのつらいと言うと、引っ越すことを提案されたのである。


年末休暇に入る少し前に、環さんの夫から連絡がきた。夕方近い時間で朝から雨が降っており、辺りは暗くなり始めていた。以前環さんがかけてきた、知らない番号からだった。環さんと音信不通になって以降、こっちの番号にも何度か電話をしたが、繋がったことは一度もない。

「環の夫です」

と夫は名乗った。


夫の話によると、環さんは現在精神のバランスを崩して、誰とも話ができない状態にあるとのことだった。私は反射的に「うちの職場が原因ですか?」と質問した。もちろん言いたいのは「職場」ではなく、「私」だった。彼は「違う」と答えた。

「実は妻は5年前に1度流産をしています。そのときも今と同じ状態になりました。1年くらいは、全く外にも出れませんでした。その間、家事は僕と子供で分担して行いました。娘は当時小学6年生でした。それから徐々に良くなって外にも出れるようになり、あるとき働きたいと言って見つけてきたのが、御社でした。「迷惑かけた分、一生懸命働きたい」と妻は言い、僕は反対しましたが、お医者さんも外で働くのは良いことだと言うので、認めました」

「そうですか。全然知らなかった」

「妻は仕事が楽しいと言ってました。とても良くしてもらってるとも言っていました。福園さんにお別れを言いたがっていましたが、僕が止めました。とてもそんな状態ではないからです」

なかなか感情の読めないしゃべり方だった。もしかしたら私と環さんがLINEをしていることも知っているのかもしれない。私は彼が環さんの「お別れ」を止める理由を知りたかったが、どう切り込んでいいのかわからなかった。夫がどうであれ、環さん自身が「お別れを言いたがっている」のであれば結果は同じだった。

「わかりました。では、今月末の退職で手続きをとらせていただきます。いくつかの書類にハンコをいただきたいのですが......」

「送ってください。僕の方で捺印して返送しますので」

私は「僕」という一人称に苛立ちをおぼえた。

「承知しました。では奥様に『お世話になりました。ありがとうございました』とお伝えください」

「わかりました」

電話が切れた。切れた瞬間に、私の「ありがとうございました」は100%伝わらないことを悟った。イスにもたれかかって外を見るとすっかり辺りは暗くなっていた。もうすぐ冬至である。


私が窓から外を眺めていると、課長が勢いよくドアを開けて事務所に入ってきた。額に汗を浮かべている。課長は暑がりなのだ。

「福園、朗報だ。あと10人とれる。これで滞留は一気に解消する」

「今月でひとりやめます」

「当然やめる人は出る。それは仕方ないよ。残ってくれる人を大事にしよう」

「そうですね。それには同意します」

「福園、よくここまでがんばったよ。がんばったから会社が認めてくれたんだよ。これからどんどん良くなる。早速派遣会社に電話してくれ」

何が私を認めたのか、一体何が良くなるのか、私にはよくわからなかった。私は別に会社を良くしたくて働いているわけではなかった。しかし、だとしたらもっと早くここを立ち去るべきだったのだ。


私は電話をするふりをして、課長から顔をそむけた。



夜になって環さんの夢を見た。タイムカードを押す環さんに、

「風邪は大丈夫?」

と声をかけた。環さんは「ご心配おかけしました」と頭を下げた。私はその晩環さんが辞める夢を見ていたから、彼女の笑顔を見てほっとした。そのことを伝えようとしたが、バカにされそうなので黙っていた。

「環さん、今度お台場にドライブでも行きませんか? S区からなら一時間もあれば着きます」

「昼ですか? それとも夜?」

「夜は寒すぎるでしょうね、昼にしましょうか」

「福園さん、寒がりなのに大丈夫?」

「昼なら建物の中に入れば大丈夫です」

「観覧車とか?」

「観覧車とか」

「キスとかしないでよ?」

「しないから!」

「わたし、子供がいるんだよ?」

「旦那さんもね」

「旦那なんていません。ずっと昔に別れました」

「そうだっけ?」

「うん」

「ていうか、もうこのまま行きませんか? なんか今日、誰も来ないし」

「課長もいないですねぇ」

「課長は......本社で会議かな。あるいは死んだのかも」

「ひどい!」

「環さん、このまま出勤にしてあげるから、お台場行こうよ。今日車で来たし」

「さて、ここで問題です。なんで課長も誰も来ないのでしょう? あと福園さんがいつになく大胆にわたしを誘うのはなんででしょう!?」

「え?」

「時間切れです。正解は、これが夢だから!」

「え?」

時間が切れるのが早すぎやしないだろうか。環さんは口を押さえ、さも愉快そうに笑っている。私は何か言いかけるが声にならない。風景が徐々に遠ざかる。その途中で私は私がこれから目覚めることがわかる。現実に向かっている。環さんが私の元を去ったのか、環さんが辞める夢が本当に夢だったのか、この時点ではまだわからない。環さんには本当に旦那さんがいないのか。光が見える。現実が近づく。朝に向かっている。現実......。現実。


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