7 由真のメール(3)
「福園さん
返信ありがとうございます。そうですね、「ノルウェイの森」をわたしが借りたとき、わたしはマレーシアに短期留学することになっていました。当時のゼミの先生の知り合いの家に、ホームステイすることになったのです。飛行機で移動中の暇つぶしがほしいからと、あなたに本を借りたのでした。日本を経つ前日に、あなたと駄菓子屋の脇の塀の前で待ち合わせたのでした。どうして忘れちゃったんでしょう? 「十字路」の中でも笠奈がアメリカに留学しますね。主人公がそうしたように、福園さんもわたしに絵ハガキをねだりました。でも、小説とちがって、わたしはちゃんとあなたに出しましたよね? 忘れちゃいましたか? でも、わたしも留学そのものを忘れちゃったんだから、おあいこですね。わたしは当時22歳で、その後の人生がこんなに長く続くなんて思ってもみませんでした。10代のうちにおぼえていられたことは、死ぬまで忘れずにいられるんだと勝手に思っていました。
お体のほうは大丈夫ですか? 年末が近づくにつれて、土曜日の出勤が増え、平日も遅くまで残業しているとのことですが、うまく休まないと、倒れてしまいますよ。朝うまく起きられなくなった、というのも心配です。産業医の面談が来週予定されているとのことですが、今度はちゃんと真面目に受けてくださいね。
春頃にも一度面談を受けたことは、ブログにも書いてあったので知っています。テレビ面談で小太りの医者に「野菜を食べて運動するように」とアドバイスを受け、何のアドバイスにもなっていない、とあなたは嘆いています。その後で
「よくよく考えると小太りは医者ではなく、人事部長だったのかもしれない」
なんて書いています。福園さんのブログは終始こんな風にとぼけていますが、なんだかそのときは、ちょっと怖い気がしました。そもそも精神科医の面談というところで、尋常じゃないかんじがします。あなたはその少し後から、長い「五月病」にかかってしまいました。夏になるまで、休日はずっと横になって過ごしていたと書いています。ブログの更新も、徐々に滞るようになりました。
福園さんは、「みんなを苦しめているのだから、仕方ない」なんて言っていますが、果たしてそうなのでしょうか? わたしはそばにいるわけではありませんが、もう少し周りの方の言っていることに耳を傾け、字句通りに、素直に受け止めた方がいいですよ。なんせ福園さんは独りよがりのところがあって、また、他人の言うことを曲解するクセがあります。
あと、わたしに会いたいという話ですが、もう少し後にさせてください。少なくともわたしの「メール」が終わるまでは待っててほしいのです。そうですね、遅くとも年末までには終わっていると思います。わたしの言いたいことを全部聞いてもらって、それから判断してください。
けれど、これだけ長い文章を書いていると、わたしの「言いたいこと」も、どうでもいいような気がしてきました。正直いって、何が言いたいことなのか、よくわからなくなってきています。福園さんは「由真の文章はとても面白い」なんて書いてくれますが(福園さんは、わたしの方が年上なのに、呼び捨てで呼びますね)、なんだか担がれているみたいな気がします。本当は仲の良い例のパートさんと、わたしのことを笑い物にしてるんじゃありませんか? もちろん好き勝手言われるのは覚悟していますが、そう思うと、なんとなく書き続けるのが億劫になってきます。わたしも「五月病」になっちゃったのかしら? でも今はもう12月です。部屋の模様替えでもして、少し気分を入れ替えます。
でも、福園さんは、ほんとうにわたしに会いたいですか? なんだか福園さんをがっかりさせそうで、正直わたしは怖いです。もう最後に会ってから、13年も経っているのですよ? 変わってないはずがありません。そもそも、あなたは最後までわたしのことを好きになってはくれませんでしたよね? いつの頃からか、わたしはあなたとの共通の友達に
「福園さんと2人で何度も出かけたが、ちっともそういう雰囲気にならなかった」
とこぼすようになりました。もちろん、冗談っぽく、ですよ? おそらく、あなたの耳にも入っていたと思います。けれど、それでもあなたの態度は何も変わりませんでした。
もちろん、それらはわたしの独りよがりで、またある意味卑怯です。わたしが本当にあなたが好きなら、きちんと恋人とお別れしてから、あなたに気持ちを伝えるべきなのです。わたしの彼は当時母親が病気で、わたしともあまり会えていませんでした。仕方がないとわかっていましたが、彼に当たってしまったこともありました。そういうこともあって、福園さんに気持ちが傾いていたのかもしれません。けれど、人の好き・嫌いのバックグラウンドなんて、なんでもいいような気がします。だまされ続ける覚悟があるなら、それはそれでいいのです。
一方で「十字路」の中では、主人公と笠奈はつきあっています。笠奈の気持ちはかなりアヤシイですが、2人でデートをしています。わたしは読んでいて、少し心が苦しくなりました。自分の、もうひとつの未来を見せられたような気がしたからです。わたしは福園さんとお台場にも行ったことはありますが、昼間に行ったことはないし、当然観覧車に乗ったこともありません。もちろん、小説の中の2人は、あまり幸せな風にはなりませんでしたが。それでもわたしは、笠奈がそうだったように、もっとあなたから特別な目で見られたかった。
こんなことを書くつもりはありませんでした。文章というのは、書き続けると、自分をさらけ出さないわけにはいかないものなのですね。もし、不快な思いをさせたらごめんなさい。でも、何にせよ、もう昔の話です。わたしが当時の恋人と結婚し、子供が生まれたことは福園さんもご存じのはずです。あの後に、もうひとり生まれたんですよ。女の子で、小学4年生です。その頃にはもう福園さんとは連絡を取り合っていなかったから、その子のことは知らないはずです。とても頭が良くて、人気者で、クラス委員をやっています。こんなこと言ったらいけないのだけど、わたしは下の子の方が好きです。
話がずいぶん遠回りしちゃいましたね。関係ない話もずいぶんしました。では、そろそろNの話をしましょうか」
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