錬金術師と黒翼
私は愚か、皆愚か。
愚か愚かをやめたくて、賢しく賢者を学べども。
末路は賢者も知らぬと愚か。
人は獣で小人で道化。
ならばせめてと精霊よ。
私に寄り添う近くて遠い隣人よ。
せめての灯となってくれ。
* * *
彼は何度も世界の滅びを見た。
彼は何度も
弱く脆い被造物たる矮小な
兆を超え京を超え、無限に近しい星火の騎士を破りながら。
『お、おお』
その光景に、彼の心が揺さぶられた。
それは、彼が生まれてから初めて覚えた感情だった。
星の種火よりもなお小さな生き物が、星の寿命よりもなお短い時を経て、星の化身たる星火の騎士を倒すまでの力を得た。
人類種というものが見せた可能性が。
永劫不変の高みに在る
遥か遠かったはずの頂の場所へと、ヒトを至らせるまでになった。
『……素晴らしい』
万を超える兵器がその力を合わせ、神を滅ぼさんと創り出した、文明の砲火を放った。
それは次元すらも歪める、幾百の禁忌を越えて人類種が生み出した力。
それは幾重もの護りを貫いて、彼に初めての傷を、その額へと刻んだ。
―― 痛みを感じた。
―― それは歓喜となった。
彼は右の一つの手を、彼を傷つけたものへと伸ばした。
恒星に匹敵する大きさのヒトの鋼の人形達へ、人差し指で触れようとした。
玩具を、そう、ヒトの子供が宝物に触れるように、無邪気な戯れの心で。
しかし、僅かに触れる前に、彼の爪よりも小さなそれらは溶け、霞のように消えていってしまった。
『あああっ!!』
悲しみが心で爆発した。
ヒトにたとえれば、乾いて彷徨う灼熱の砂漠で得た慈雨が、幻のように消えたようなものだった。
心の波が、自らの在り方を揺らす程に響いた。
悲しくて悲しくて、どうしようもなかった。
嘆きの火が、
……。
全てが冷たい暗黒の
しかし己の中に生まれた空虚が、失った悲しみが、収まることのない痛みとなって襲ってきた。
『そうか、これがあの御方の……』
……。
……。
……。
ロストレインは微睡みかけた目蓋を、隣に座る老人の声で踏みとどまった。
「はは、退屈でしたかな」
「そうだな。拙僧はこのような趣向を面白いとは思わぬ」
一匹の古代種の老竜が、必死に立ち向かう人々を嬲り、殺す。
血溜まりに転がり、竜の胃袋に消える彼らは皆、この国で反逆の罪に問われた、二百人の神官達だった。
「おお、今度はゼラント聖騎士が喰われましたな。いずれは真達位、心道位を期待された若者でした。ああ、惜しい! お、今尻尾で吹き飛ばされたのは、その姉のゾラレッタ司祭です。結構な美少女でしたが、ああもバラバラになれば関係ないですな。はっはっは」
香木を編み込んだ椅子から腰を浮かし、眼下のアリーナへと前のめりになる老人。
このガレ王国の実権を握る、【愚の俗徒 アパレラ・オッチネン】魔導大臣。
「人は群れる生き物です。群れなければ生きていけない。バカの王族だろうと、アホの貴族だろうと、御輿になるならなんでも良いのです。そんなものより大事なのは、政治の安定です。政治が安定してさえいれば、人は生きていけます」
三十人の騎士達が、竜の吐いた劫火の中に消えた。
「この国において身分など、本当の意味では何の価値もない。それを分かっていながら、
アパレラは気にしない。
この国の貴族がどれだけ民を虐げようと、どれだけ権力で遊ぼうとも。
そして、たとえ民が貴族を殺し、その貴族になり替わっても、ただ黙認するだけだ。
だが外へ出る事は許さない。
この地に封じられた、古代文明の力を利用しようとした者は、絶対の破滅をその身と、その一族へ与えた。
『オオオオオオッ!!』
竜が
黄土色の鱗を纏い、十五メートルを超える巨躯を震わせながら。
鼻先を空へと向けて放つそれは、竜を震わせた、堪えがたき恍惚。
乾いた
竜の牙と爪を濡らす、赤く艶めかしき鉄錆の臭いと交じり合ったガレ王国を吹く風が、濃密な臭気を世界へと撒き散らしていった。
それを厭うように、ロストレインが眉をひそめる。
「どうぞ」
「すまんな」
白と黒のメイド服を纏うダークエルフが葉巻を差し出し、それをロストレインが咥えた。
すぐに立ち昇った紫煙から、上品で優しく、果実のように瑞々しい香りが、血の臭いを押し出すようにして広がる。
「ほう、クシャ南東の品ですな。しかも市場には流れない類の。ハスミ女史は相変わらずに良い目利きだ」
ペコリとダークエルフ、ハスミが頭を下げた。
流れるようなその所作は優雅に、ただただ美しかった。
「しかしハスミ女史、よくそれを着て動けますな。S級開拓者でも、余程に身体能力が高い者でなければ、置物のようになってしまいますのに」
「慣れました」
「はっはっは。流石は我が師たる【愚の
アパレラの声には、深い賞賛の響きがあった。
「と、そう言えば。後輩に
「はい」
「『嫉妬』『憤怒』『燎原』という最高位の魔剣を持ちながら、なお『黎明の王』さえも手にする傑物。彼女一人で十万の軍を凌駕するという。それを軍門に入れるとは、流石は我が師ですなぁ」
ロストレインが葉巻を離す。
「いいや。彼女は預かっているだけだ。いずれは主の元へと帰るだろう……」
「おやおや、それは惜しい話ですなあ」
「まあ、その主がな……」
憂鬱そうに声を漏らし、また葉巻を咥える。
アリーナでは竜が、最後に残った一人と、その爪牙を交わしていた。
「ガアアアアアアアアア!!」
男の渾身の力を込めた魔導剣の一撃が、竜の鱗を破り、肉へとその刃を届かせた。
それは浅い傷であったものの、始めて受けた痛みに、竜の動きが乱れた。
「雲海に巣食う 風の
「嵐に
「その
男の魔力が
魔導剣の魔導機構が悲鳴を上げ、風錬玉が爆発したような魔力洸を放つ。
「仇などと、おこがましい事は言わぬ。それでもこの一撃は、我が怒りだと知れ」
『ルオオオオ!!』
竜は激高し爪を振り回し、その尾を打ち付ける。
乱雑なそれは、しかし竜の巨大なスケールが為に、回避困難な致死の嵐となる。
しかし男はその全てを、危なげなく躱していく。
「良い動きだな。魔力も良く練られ、魔法にも無駄がない」
「そうですね。剣の使いにも、年月を経た老練さがあります。優秀な剣士ですね」
「はっはっは。一応はこの国で二番目に強い使い手でしたよ。剣技、魔法ともに
男が竜を
竜は次第に余裕を無くし始めていた。
「神官長【雷火の剣 ザハス・ロンネット】。二十歳で心道位を手にした天才。魔王戦争では古代竜の軍勢に対し、多くの戦功を挙げたと聞きましたが」
「流石はハスミ女史。よくご存じです。ええ、ええ。一万年級の古代種の老竜にさえ勝てますよ彼は。ま、外の野良ならね」
竜の灼熱の
「我が国を閉ざす、悪鬼の生みし悪竜よ。我が奥義を受けて滅びよ!!」
空が光った。
「【
それは天より九つの極大の雷を降らす、上級魔法の中で最強と呼ばれる攻性魔法。
光の勇者たるオルゴトンが使う超級魔法、『絶対斬滅の光雷神剣』には及ばないものの、莫大な破壊の力を持つ魔法であり、超級魔法に近いとさえ言われる魔法であった。
『ガァアア!!』
雷光の中で竜が悲痛に鳴く。
そして、ザハスは自らも雷を纏い、剣の切先を向け、竜へと走った。
「ザハスは拷問でボロボロでしたからな。
竜の喉元に、剣の刃が届いた。
そしてザハスを、無傷の竜が
「しかし彼らは全く解かっていない。こいつは只の竜とは違う。ワシが手ずから改良を施した、【愚の俗徒】の傑作」
―― 古代モンダナ
「やれ騎士の誇りだ、やれ貴族の品位だなどと喚いていた、お前らは知ろうとしなかった。お前らが番犬と
漂白された表情、絶望を浮かべたザハスを竜の爪が貫いた。
腹に大穴を穿たれ、絶命したザハスは、竜の口の中へと消えていった。
「良くできているな。
「ありがとうございます、我が師よ。そのお言葉をいただけただけで、わが生涯は報われました」
ガレ王国は閉ざされる。
これまでも、そしてこれからも。
永遠に解かれる事のない、宝の箱として、この竜に守られながら。
その思い、その確信に、アパレラは満面の笑みを浮かべた。
* * *
絶望の象徴であった強大な竜が、絶対的な力によって、瞬きするよりも早く、虫けらのように蹂躙された。
ガレ王国の最底辺で生きて来たニパン、ゾハス、そしてアルネは。
その光景を現実と認識するのに、しばらくの時間が必要だった。
「普通、竜は群れの縄張りからは出ないもんだが……」
険しい斜面を剥き出しの地肌が覆い、草木の一つもない岩山に通った、荒れた細い街道の一角で。
ヨハンは細切れになった竜達の肉片を踏みながら、気怠そうに空を見上げて、溜息を吐くように呟いた。
「何でここでは、羽虫のように飛び回ってるんだろうな」
左手に握る黒い魔剣はしかし、その剣身に宿る金の刃の輝きには、血の汚れは一滴たりとも付いてはいない。
「ま、弄られ過ぎて、竜じゃなくなってしまったかね」
ガレ王国に生きる者達を閉じ込める、外の世界との断絶の象徴が。
ガレ王国に生きる者達の、魂の奥にまで刻まれた、絶望の化身が。
『グオオオオオ!!』
空に翼を打ち付ける五匹の竜が、その剣のように鋭い牙を生やす顎門より、灼熱の劫火を吐き出した。
巨大な岩を瞬時に蒸発させるその炎の吐息を直接浴びれば、人が生き残れる道理は無い。
しかし、一流の魔法士が使う大級魔法でさえ防ぐのが困難なそれを。
「「!!」」
ヨハンの剣が虚空を薙ぎ、耳をつんざく程の雷轟が鳴り響いた。
火の粉一つ残さずに、劫火は乾いた風の中に散って、消えていった。
剣の雷に打たれた竜達が飛ぶ力を失い、地面へと落ちて来る。
混乱し、翼と手足をバタつかせる様は、まるで崖から落ちた、哀れな獣のようであった。
「今のが五手乃剣の第四手、顕心不殺の行にして、魔を
五メートルを超える竜の巨体を飛ばすには、その翼が生む力だけでは足りず。
それに魔法を併用する事によって、初めて飛行が可能となる。
だから魔力を散らされて、魔法を失うような事になれば、もう空にはいられない。
「地に落ちれば、こいつらはただのでかいトカゲだ。手間は掛かるが、殺しはずっと楽になる」
それでも竜の
だから竜達は思っていた。
―― 我らから空を奪う、何たる屈辱!
―― 我らを地に落とし、それで傷を負わせようという算段だろうが、笑止!
―― 我らの火で死した方が幸せだったと、貴様らは知ろう。
―― 我らの爪牙が貴様らを殺す。弄び、嘲笑し、血肉と魂を焦がす程の痛みを与えてな!!
「よく見ておけニパン。人が手にした、剣という最強の牙の力を」
それは、穏やかに語り掛けられた言葉だった。
だからこの荒ぶる音だけが響く戦場で、何よりも強くニパンへと届いた。
竜達の姿に震えていたニパンは。
奪われ、弾かれ、
「はいっ!!」
力強く頷いて、ヨハンを見た。
「ふっ」
小さく、ヨハンが笑った。
それは、この地で初めて浮かべた、光へと向かうような笑みだった。
「五手乃剣・剣技複合」
ヨハンの視線が竜達と交わる。
顎門を広げ牙を剥き、鋼の杭よりなお鋭く硬い爪に力を込める。
『『グオオオオオオオオオオオオオ!!』』
人外の咆哮が地を揺らし、岩山を揺らす。
その一つでも人間を圧殺する牙が、爪が、尾が、ヨハンへと殺到する。
「
ヨハンの踏み込みが一瞬で竜との彼我の距離を越え、天を踏んだヨハンの下で、竜達の巨躯が爆散した。
肉片さえ残さず、赤い血の霞となって、竜だったものが虚空へと消えていく。
その光景を見ながら、ニパンは自分の拳を強く握った。
―― あれは、あれこそが、ヒトが手にした奇跡だ。
―― 牙も爪も持たない弱い人間が、強大な獣と戦い続け、積み上げ思い描いた夢想が、形になったものだ。
ヨハンが地面に降り立つ。
乾いた小石混じりの土からは、微かな音さえ鳴らなかった。
(僕は……)
必死に、縋りつくようにして、剣を習う事を許してもらった。
自分と同じように虚ろを抱えても、ヨハンさんには生きる力があった。
理不尽に抗う力があった。
だから、その力が欲しかった。
しかしそれは自分が考えていたよりも、いや、自分が想うことさえできないほどの力だった。
風に混じる竜の血の臭いが鼻を打つ。
それが強いプレッシャーとなって襲って来る。
(だけど、僕は……)
―― 強くなりたいと思ったんだ!!
ニパンは、両手の拳を強く握りしめた。
「あっ」
微かな悲鳴。
それでニパンの硬直が解けた。
目に映ったのは、傍らにいたアルネが体勢を崩し、後ろへと倒れていく姿。
彼女の緊張はヨハンと竜の戦いを見て、極限にまで高まっていた。
そして風に混じる竜の血の臭いによって、全ての竜が死した光景を、やっと現実だと認識する事ができた。
その急激な緊張の緩みが、強い
「アルネ!?」
ニパンは
「ニパン?」
一つだけの瞳が、誰かに助けられた事が不思議だと言うように、ニパンの顔を見上げた。
「大丈夫?」
「……うん」
一つだけ残ったアルネの手が、恐る恐るニパンへと伸びて。
確かめるように、ゆっくりと、その頬に触れた。
「あり、が、とう。助、けて、くれて」
「うん」
アルネは頭の奥底から、言葉を思い出すようにして、たどたどしく口を動かした。
そして、頷いたニパンに、ぎこちない、けれども柔らかさを感じさせる、そんな笑みを浮かべた。
その光景を。
ゾハスは。
脳裏を過った地獄の光景に。
竜への押し潰される程の恐怖に。
止まらない震えに、必死に自分の身体を掻き抱きながら。
「ア、アルネ……?」
揺れ動き、定まらない視界の中で、恐れ縋り付くようにして。
ただ、見続けていた。
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