第34話 夜明け前
雀の鳴き声が聞こえてきた。つられてようやく視線を画面から外した。カーテンが明らんでいる。夜が明けようとしていた。掲示板の書き込みも、真夜中をピークに潮が引くようにまばらになっていった。
僅かに緊張が緩んだせいか、不意に腹が鳴った。
うっかり水を吸い込んだ掃除機のような間抜けな音に、比佐子は思わず頬を緩めた。
空腹の意識はなかったが、夕食をとってから水すら口にしていない。思い出したように身体に意識を向けると尿意をもよおした。
このままずっと画面に向かっているわけにはいかない。トイレに行かなければいけないし、飲まず食わずでいるわけにはいかない。どうすればいい?ただ殺されるのを待つしかないのか?
そもそも書き込まれたとしてどうするのか?自分を殺す依頼が書き込まれたとして、何ができる?
ただ怯えていただけで思考が停止し、それを考えていなかった。
いま何をすればいい?何ができる?
比佐子ははっと気づいて画面を見た。
―先に殺せばいいんだ―
書き込まれる前に書き込んで、あの二人を殺してしまえばいい。そうすれば自分が助かる。怯える必要もなくなる。一人20万、二人で40万。手数料がプラス5万円ぐらいか。子供の頃から貯めた金を使い果たすことになるが、命を買うと思えば安いものだ。
すみれの弔いにもなる。
―こんな簡単な方法に、どうして気づかなかったんだろう―
二人の顔写真はスマートフォンのフォルダにいくらでも入っている。問題は住所。由実の家は崎元の葬儀の帰りに送って行ったばかりでよく覚えているが、バス通学の桂は、最寄り駅すら分からない。電話で住所を聞こうものなら、訳を察して先手を打たれる、すなわち掲示板に依頼されてしまうだろう。
しかし比佐子には心当たりがあった。スマートフォンを開いて電話を掛けた。4コール目でつながった。
「朝早くにすみません。宮沢です。宮沢比佐子です。昨日は突然伺って失礼しました」
幼稚園からの付き合いだから家の電話番号も知っている。引っ越した時も近場で、番号に変更はなかった。朝の6時を回ったばかりだが、今は他人の起床時間に気を配っている余裕などなく、電話をかけながらも目は掲示板に向いている。幸いすみれの母・和代はすでに起床していたようで、電話口の声は明瞭だった。
「昨日話に出た川村桂ですけど、連絡を取りたいんですが携帯電話が壊れてしまいまして。急用なんですけど夏休み中なので連絡が取れなくて困ってるんです。それで住所を教えていただきたいんです。先日受付で記帳したと思うんですが」
すみれの葬儀に香典を桂と連名で5000円包み、芳名帳に住所と氏名を記入した。こんなことになるとは想像もしなかったが、自分の次に桂が記入したことだけははっきり覚えていた。
早朝の電話に、和代はよほどの急用だと思ったか、すぐに手元に用意し、丁寧に教えてくれた。
「東京都練馬区××町の××の××ですね。ありがとうございました。朝早くに失礼しました」
電話を切ると、すっかり汗でベタついた比佐子の顔に、安堵が浮かんだ。
一刻を争う事態に、比佐子は昨日から着たままの白いブラウスと黒のスカートに、帽子を深くかぶって家を出た。電車だと誰に会うか分からないし、そう離れてはいない。スマートフォンのナビを頼りに自転車を走らせた。
8月も終わりだというのに朝から日が照り付けている。ただでさえべたついている額にすぐに汗が滲んだ。身体も熱を帯び、今日の汗が、昨日の汗の上で、油のように不快に浮遊している。ふと見降ろしたブラウスの胸元に赤いシミがついていた。夕飯のパスタのトマトが跳ねたのだろう。爪で擦っても消えないが、今は放置する他はない。
教わった住所に建つ家には、確かに「川村」の表札が出ていた。どこにでもある、白い壁にダークグレーの屋根の二階建ての一軒家。桂は兄と二人兄妹。2階に2つ並んだ窓の右側が桂の部屋、なぜかわからないがそう直感した。もしかしたら今も中にいて、気配を感じ取ったのかもしれない。
比佐子はさっと外観を見回してすぐに引き返した。桂みたいに、誰かに見られたらややこしいことになる。幸い誰にも、桂本人にも出くわすことなはなかった。由実の家も同様だった。
[8月26日9時5分 東京都在住 10代 女性 学生 20万円]
「親友が殺されました。なんとしても報復したく、こちらに依頼した次第です。相手は二人です。一人につき20万円、二人で40万円お支払します。殺害方法はお任せします。私の命が狙われているかもしれませんので出来るだけ早く実行してくださる方にお願いします。支払いはフリマタウンでお願いします」
殺害方法については、自殺や病死の工作を依頼するより、受任者に一任した方が引き受けてもらい易く、早く実行してもらえるように思えた。今は一刻も早く二人を亡き者にしたい。
その甲斐あってか、わずか10分ほどで受任者が現れた。立川という人間。もちろん偽名だろう。
できるだけ早急に実行して欲しい、という頼みには、御希望に沿えるよう尽力しますと応えてくれた。二人の氏名を伝えて写真を見せ、Googleストリートビューで自宅を確認して、交渉は成立した。
もしかしたら、すみれを殺したのもこの立川という人間ではないか、との疑念も浮かんだが、今拘るべきはそこではなかった。
立川はフリマタウンに振り袖をダミー出品した。40万という金額から、ダミーであっても安物では偶然目にした他の利用者にいらぬ疑いを与えかねず、購入者が女性であることからも―フリマタウンでのハンドルネームが『チャコ』であることを伝えてある―それが妥当という判断からで、予め伝えられていた比佐子はすぐに落札し、銀行で預金を下ろして振り込んだ。
逐一チェックしている掲示板には、自分のことを依頼する書き込みは見当たらない。立川が早く実行してくれれば、あの二人が死んでくれれば、すべての不安が消え去る。
―これで私は助かる。すみれの思いも晴らすことができる―
ようやく緊張が緩和した比佐子は二日ぶりにシャワーを浴びた。顔はベタベタで髪もボサボサ、頭皮も脂が覆っていた。これで外出したのかと今になって羞恥心に苛まれたほどだった。
食事も丸一日とっていないが元々食は細い方で、さほどの空腹感はなかった。それでもなにかしら腹には入れたい。メニューを考える思考能力がなく、またトマトとバジルの冷製パスタにした。今度は新鮮に感じ、栄養が身体中に行き渡っていくのも感じた。
部屋に戻って掲示板をチェックし、自分の依頼がないのを確認すると、ベッドに寝転んだ。
二日近く眠っていない。疲れた目に蛍光灯の光が滲みて瞼を閉じた。
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