第30話 初対面

「冷たいのがいいわよね」

 リビングに移るとすみれの母の和代が、風鈴を逆さまにしたような涼しげなグラスに注いだ麦茶を出してくれた。

「暑い中ありがとね。あの子も喜んでると思う」

 空になったお盆を胸元に抱えて仏壇の方を振り返った。

「でも今日でよかった。明日だったらパートでいなかったから」


 父親が亡くなってから週5日スーパーで働いている、とすみれが話していた。違う日なら無人の部屋にチャイムを聞かせるだけ。7分の2に当たったのは幸運だった。


「比佐子ちゃんは夏バテしてない?いくら8月でもこう暑い日が続くと体調も悪くなるわよね」


 すみれの近くに来たい一心の行き当たりばったりの訪問で、これといった話題は用意していなかった。和代は会話に詰まらないよう、気を使ってくれているのが分かる。口下手を自認していても、自分から訪問して聞き役ばかりでは申し訳ない。

「このままここに住まれるんですか」

 場つなぎのつもりだったが、不躾な質問だったと比佐子は言ったそばから後悔した。


「そうね。とりあえず当分はここにいるわね。ひとりには少し広いけど。遠慮せずにまた会いに来てあげてね」

 また来たくて聞いたと思ったようだ。悪く取られていなくて安心した。

「学校始まるのっていつからだったかしら」


「来週の金曜日からです」

 すみれのいない学校に通う意義を見出せないが、夏休みが終われば通うしかない。


「学校始まったら、色々と手続きしに行かなきゃいけないのよね」

 比佐子に横顔を向け、視線を窓の外にやって独り言のように呟いた。子供を亡くした親に残された手続きを、知っている人は多くない。

「比佐子ちゃんは大学行くんでしょ?」

 和代は照明を切り替えるように話題を変えた。


「そのつもりです」


「来年の夏休みは受験で大変ね」


 今年の夏に比べたら、受験なんてたかが知れている。


「比佐子ちゃんならいい大学行けるんじゃない?どの辺狙ってるの?」


「まだ決めてないんですよ」


「高校も淳教じゃもったいないってあの子言ってたのよ。もっといい学校行けばいいのにって」

 その言葉ではっと気づかされた。すみれが言った通り、別の高校に行っていたら、こんなことにはならなかったかもしれない。淳教女子高校を選んだことで、歯車が狂ってしまったのかもしれなかった。


 和代は自分の麦茶に口をつけてから言った。

「そういえば、一緒にお通夜に来てくれた子、いたじゃない。淳教の制服着た」

 次々と話を振ってくるのは気を使っているだけでなく、一人になって寂しいのもあるようだ。突然の訪問を歓迎してくれたのも、今後の訪問を勧めてくれるのも、話し相手が欲しいようだ。


「わたしと一緒にいた子ですか?髪の毛の長い」


 和代はそうそう、とまた麦茶を口にした。


「すみれと同じクラスで友だちグループだった川村桂って子です」

 母親の前で亡くなった娘を呼び捨てにするのは気が引けるが、ちゃん付けするのも他人行儀な気がして、普段通りに呼んだ。


「あの子、この前見かけたのよね。このアパートの前で」


 えっ、と発したきり比佐子は言葉を詰まらせた。


―アパートの前で桂を見かけた?―


「私がパートから帰ってきたら、一人でうろうろしてて」 


「ここの前をうろうろしていたんですか?」


「そうなのよ。アパートの様子を観察してる感じで」


「いつのことですか」


「すみれが亡くなる3日4日前だったかしらね。すみれはアルバイトで家にはいなかったんだけど」


 すみれがバイトなのは知っていたはずだから会いに来たわけではない。それなのに亡くなる数日前に桂がここに来ていた。

 夜道で不意に呼び止められたみたいに胸が騒いだ。


「その時は制服じゃなかったから、どこの誰か分からなかったけど」 


「わたしと一緒にいた、すらっとした子ですよね?」

 葬儀の時に一緒にいたのは桂だけだが念のため確認する。


「そうそう。ここにほくろがある子」

 和代は自分の左側の顎をトントンと指さした。桂で間違いない。

「お通夜の時に遠くから観て、あれっと思って、挨拶してくれた時に、やっぱりあの時の子だって気づいたのよ」


 そう言えば、桂は初めましてと挨拶していた。二人は初対面と気づかされたのを思い出した。「初めまして」と言ったのは初対面とカモフラージュするためで、実際はすみれの母を見て、アパートで見られた人だと気付いて動揺していた?


「あの子で間違いないんですか?」


「夜だったけど街灯もあるし、年頃は分かるじゃない。見間違いじゃないと思うんだけど。何してたのかしらね」


「何ですかね」


 何気ないふりで話を合わせたが、心臓が激しく打ち付けていた。桂が来た目的は1つしか考えられなかった。


「そろそろ失礼します」

 比佐子はじっと座っていられなくなっていた。


「今日はありがとうね。あの子も喜んでると思う。よかったらまたお線香あげに来てね」

 それにはどう返事をしたか覚えていない。かろうじて「お邪魔しました」だけ言って、コーポ北見を後にした。


 外に出ると電柱に留まっている蝉が、僅かな寿命を燃やし尽くすように一心不乱に鳴いていた。


 亡くなる数日前に、すみれがいない時間を見計らって桂がアパートを訪れていた。


―掲示板に依頼するために家を確認した―


 比佐子にはそうとしか考えられなかった。


 ここまで来られたのだから、大まかな住所、アパートの所在地ぐらいは知っていて部屋番号を確認した、というところだろうが、住所などそうそう教え合うことじゃないし、比佐子の知る限り、桂はすみれの家を訪れたことはない。知らない時に来ていた可能性もあるが、すみれは家に人を入れたがらないし、桂が来るなら一緒に呼ばれるはず。何かの理由で呼ばれなかったとしても、すみれはなんでも話してくれるから後日耳に入る。

 桂はアパートの住所を知らなかったはず。とすれば、桂に教えた人間がいる。それは誰か。

 比佐子には一人だけ心当たりがあった。一人しかいなかった。


―由実だ―


 去年、まだ1年生だった冬、学校帰りにすみれと由実が家に来ることになった。父親の仕事関係のパーティーで両親の帰りが遅いと話したら、じゃあ遊びに行っていい?となった。ちょうどすみれがフリマタウンでガレージボーイズのライブDVDを買ったから一緒に観ようということになった。中古だけど、発売間もないものを送料込みで定価の半額で買えたと喜んでいて。桂はたしかバイトでいなかった。

 家に向かう途中でDVDを取りにアパートに寄った。ちょっと待ってて、とすみれが階段を上っていった。その背中を眺めて由実と二人外で待っていた。すみれはDVDを手にすぐに戻ってきた。反対の手でスクールバッグを持ったままだったから「置いてくればよかったのに」っていったら「かもね」って笑った。そのあと3人でうちでDVDを観て盛り上がったからよく覚えている。

 半年以上前のことだけれど、駅から近いし、迷うような道でもないから、1回くれば覚えているはず。


 由実からアパートの場所を教わって、細部の確認のために桂が来た。


―二人がグルということか―


 連絡がとれていないのに、桂はカフェで、絶対に由実じゃないと断言していたが、それも共犯者だからだとしたら納得が行く。


 もう一つ、引っかかっていた発言もそれなら説明がつく。通夜の後に寄ったカフェで、由実の依頼を否定したもの。


「あの子お金持ってないでしょ。例の手数料、2万2千円だっけ。それもまだ返してもらってないんでしょ。それなのにあと20万円も用意できる?」


 なぜ20万円という金額が出たのか。崎元の時が20万円だったからそれを出しただけかとも思った。しかし20万円が定額なわけではない。すみれの殺害を依頼したのが20万円だったから、うっかり出してしまったのではないか。


 その金額も、由実には払えなくても、高校に入ってからずっとガソリンスタンドでバイトしている桂には貯金があってもおかしくはない。


 縺れていた糸が解け始めていた。

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