第29話 幼馴染
玄関の前で比佐子は足を止めた。葬儀に参列したあとは家に上がる前に塩を撒いて体を清める。その程度の知識はあるし、すみれの祖父の葬儀の後はそうした。帰りに清めの塩の入った小袋も貰った。しかし今日はそのまま玄関に足を踏み入れた。塩を撒けば、すみれが離れて行ってしまいそうな気がした。
家に上がると、リビングで母親が茶を飲んでいた。テレビを点けていないのは、比佐子の心情への配慮だろう。母親もすみれとは幼いころからの顔馴染みだったが、葬儀への参列は比佐子が拒んだ。すみれの死に触れられたくなかった。今は名前を口にされることさえ、思い出を汚される思いがした。
「夜ご飯は?」
母親はそれだけ声を掛けた。
「今はいらない」
それだけ答えて階段を上がり、2階にある自室に入った。
灯りを点けると机上にある閉じられたノートパソコンが照らし出された。その隣の写真立てに、すみれと二人で並んだ写真が飾ってあった。高校の入学式に校門の前で撮ったもの。まだ着慣れていない制服姿が初々しい。
「もっといい高校狙えばいいじゃん」
受験シーズンを前にすみれに言われた。
「淳教制服可愛いから、実は前から憧れてたんだよね。家から近いし」
「淳教なんて絶対もったいないって。比佐子ならもっといいとこ行けるのに。授業料だって気にする必要ないんだし」
「いい高校行ったら逆に大変そうじゃない?勉強ついていくのとか。遊ぶ時間なくなりそう」
「いい高校の下の方より淳教の上の方が大学の推薦もらいやすいっていうのはあるかもね」
「でしょ」
「でも比佐子ならもっといいとこ行ってもいい成績とれると思うけど」
「わたしは淳教がいいの」
比佐子が淳教女子高校を選んだ本当の理由はすみれだった。すみれが行くと知ったから。同じ高校に行きたかった。同じじゃなければ嫌だった。すみれだけが特別。桂も由実も、比佐子にとっては「すみれの友達」という表現の方が相応しかった。
写真立てを手に、ベッドに潜り込んだ。
幼稚園から一緒だったすみれが、いつからか、触れたり触れられたりすると、胸のあたりが熱を帯びるようになった。段々慣れていったけれど、嬉しいことに代わりはなかった。すみれは気づいていたのだろうか。
いつか打ち明けようとずっと思っていたのに、その日は永遠に訪れることはない。すみれの身体に触れることはできない。
比佐子は熱を帯びた身体のまま天井を見上げた。
桂の言うように、今は冷静な判断ができていないだけで、すみれの死はただの事故なのだろうか。落ち着いたら、ただの事故と受け入れられるのだろうか。
連絡の取れない由実は今どうしているのだろう。例の件でショックを受けて家で寝込んでいる、本当にそうだろうか。それだけだろうか。掲示板に依頼するために、どこかでお金を稼いでいた、ということはないか。援助交際とか。友達を殺すためにそんなことしないと思うし、そういう子ではないのは分かっているけれど、あの時の精神状態のままなら何が起きても不思議ではない気もした。
【葬儀が終わりました。すみれのことで話があるので連絡下さい】
LINEを送っても、案の定返信は来なかった。
もうすぐ夏休みが明けるが、比佐子の通学意欲は完全に失せていた。それは日曜の夜に抱くような、日常に戻ることへの煩わしさではなかった。すみれのいない学校は、ブランコのない公園よりももっと欠落していて、行く意味を見出せなかった。
いままで考えたこともなかった、生きている意味さえも見いだせなくなっていた。埋まることのない喪失感。
何を思って家を出たのか覚えていないが、気が付くとコーポ北見まで来ていた。すみれがここに越したのは2年前に父を亡くしてから。中に入ったことは2、3回しかなくても迷うことはない。指が自然と伸びる。『横山』の表札が貼られた203号室にチャイムが響くのが聞こえた。
「あら比佐子ちゃん、いらっしゃい」
いないのを覚悟していたすみれの母・和代はパートが休みだったようで、驚き半分で迎えてくれた。
「ちょっと用事があって近くまで来たので。突然すみません」
嘘をつく必要はなかったけれど、とっさに口をついて出た。
「いいのよ。散らかってるからちょっとだけ待っててね」
和代はすまなそうに一旦ドアを閉めた。室内を片付けるのだろう。自分の母親もそうだが、この年代の人は体裁を重んじる。
葬式の後で「あの子もさみしいだろうから気が向いたらお線香あげに来て」と言われたのは社交辞令が含まれていると理解している。2、3分してドアが開いた。
「急に来ちゃってすみません」
「いいのよ。上がって」
玄関に通された瞬間漂ってきたのは線香の匂い。嫌いな匂いではないが、どうしても死を意識させられる。
ドアが閉まったままのすみれの部屋の、その隣の部屋に仏壇があった。すみれとおじいさんの写真が並んでいた。
今点けたのだろう、ろうそくに火が灯っている。比佐子は線香を立てて、鐘を2回鳴らして手を合わせた。
―本当にただの事故だったの?―
2度と会うことの出来ないすみれの微笑に問い掛けた。
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