第3章 三人目の依頼

第28話 五里霧中

「私はここにいるから」


 焼香の順番が来ても椅子から立ち上がることが出来なかった。まだ死を受け入れられていない。祭壇では花に囲まれた遺影が微笑をたたえていた。最近撮った写真なのか、その笑顔はつい先日見たものとさして変わらない。今もどこからかこの顔で手を振って駆け寄って来そうだった。


「お願いだから一人で行って」

 比佐子の意を酌み、桂は一人で祭壇に向かって歩いた。遺影の中で微笑むすみれに見守られながら焼香をすませた。


 3日前、すみれが水死体で発見された。 


 夜更けに差し掛かった頃、東京の郊外を流れる川の浅瀬に打ち上げられたようにうつ伏せで横たわっていた。自宅から電車を乗り継いで1時間は掛かる場所で、川上にある霊園に先日死去した祖父が眠っている。

 争った形跡はなく、警察は事故死と断定した。一人で墓参りした帰りに、涼みに行ったか、単に足を滑らせたのか、図らずも入水してしまった。元々泳ぎが得意でないうえに着衣では尚更困難で、溺死した模様。


 発見したのは犬を散歩させていた男性だった。いつも通りの経路だったが、犬が水辺で足を止め、リードを引いても動こうとせず、川に向かってさかんに吠えたてた。普段は見られない挙動を不審に思い、夜の川面に目を凝らすと、人が浮いていたという。犬が見つけなければ、発見は朝を待つことになり、もう少し腐敗が進んでいたかもしれなかった。


 棺に眠るすみれにはきれいな化粧が施されていた。薄いピンクの口紅は、死の実感まで薄くした。生え際にある、言われなければ気づかないほど小さな痕。比佐子だけが知るその痕に触れたくとも、棺の窓に付いたガラスに阻まれた。


「比佐子ちゃん。今日はありがとうね」

 すみれの母は先日の祖父の葬儀の時と同様、帯まで黒の和装の喪服だった。

 比佐子はすみれとは幼稚園から一緒で、両親を慕っていないことは知っていたし、そのせいで互いの家を行き来することは少なかったが、それでもすみれの母とは学校行事の度に顔を合わせた。高校に進学してその機会も減ったはずが、2か月前にも葬儀で会ったばかり。比佐子の記憶にすみれの母は喪服姿で上書きされた。


「まだ信じられなくてね。あの顔で家に帰ってきそうで」

 遺影の方を振り返った。すみれの母も比佐子と同じことを考えていた。

「今まで良くしてくれて本当にありがとう。あの子のことを忘れないであげてね」

 初めて握ったすみれの母の手は冷たかった。ふた月余りの間に二人も家族を亡くした、そのショックは計り知れない。比佐子の親指に零れ落ちた涙をごめんねと指で拭った。


 通夜には崎元の時より多くの制服姿が参列していた。淳教女子高校ばかりではなく、異なる制服は中学校の同級生。人見知りで、すみれ以外とは上手に打ち解けられなかった比佐子と違い、すみれには他にも友達がいて、卒業していまは疎遠になった子たちも別れを告げに来ていた。ただそこには、すみれに掲示板を教えた和田早苗はいなかった。


 由実の姿もなかった。


 あの日から、連絡が取れていない。すみれの死を知らせようと電話を掛けても出ない。LINEは既読になったから亡くなったのは承知しているはずだが、返信はなかった。


 

 斎場を後にした比佐子は桂と二人でカフェに寄った。すみれのバイトの同僚も通夜に参列していたが、通り沿いにあったのはそことは違うチェーン。バイト先に立ち寄った時に迎えてくれた笑顔を思い出してしまうから、同じチェーンなら入店を躊躇ったかもしれない。

 窓の外を知った顔が通りそうで、階段を上がって2階の席に着く。窓際を避けて奥に座った。


「全然実感がわかない」

 桂の言葉はロイヤルミルクティーをかき混ぜる音と重なった。


 遺体発見の翌朝、すみれの母から比佐子の家に掛かってきた電話で、事故の事実が告げられた。混乱した比佐子はスマートフォンを取ってすみれに電話を掛けたが、遺体と一緒に水没したすみれのスマートフォンにつながることはなかった。それから桂に電話を掛けて落ち合った。桂の表情で、何が起きたのかようやく理解できて涙が止まらなくなった。


 子供の頃から、一緒にいるのが当り前だったすみれが、この世界からいなくなってしまった。その事実は、冷静になるにしたがって現実感を失って行った。あまりにも突然過ぎて、頭の中でただ糸が縺れ合っているようだった。


「どうかした?」

 桂の目に映る比佐子の表情は悲しいとは違っていた。含みを持った、それでいて何かを思案しているように見えた。


「本当に事故だと思う?」

 比佐子は一度持ち上げたカフェオレを、口をつけずにソーサーに戻した。微かに食器がかち合う音が鳴った。


「違うと思うの?」


「誰かが依頼したんじゃないかな」


「依頼って、例の掲示板に?」

 桂の問いに、比佐子はそれ以外に何がある?と目顔で答えた。


「もしかして、由実がしたって言いたいの?」


「その可能性ないと思う?」

 そういってから、口元を落ち着かせるようにカフェオレに口をつけた。


 桂はそうと気づかれないように周囲を見回した。左側は壁、右隣は空席。次の席は通路を挟んだ先で、話を聞かれる心配はない。

「すみれの勘違いで崎元を殺したから、殺し返したっていうの?」


「率直に言えばそうだね」

 比佐子は淡々と肯定した。


「気持ちは分からなくないけど、あの子がそんなことする?っていうかできる?あんな気の小さい子に。そんなことしたら余計メンタルやられてシャレにならなくなるでしょ。そもそも殺そうと思う?友達だよ」


「でもその友達が亡くなったのに、葬儀に来ないってありえなくない?」

 その声が思いのほか大きくて、桂はまた周りを見たが、誰の視線も向いていなかった。

「タイミング的に疑うのはしょうがないかもしれないけど、そんなことする子じゃないでしょ」


「普段の由実ならしないかもしれないけど、今は普通じゃないでしょ」


「それはそうかもしれないけど」


「こないだだって警察行こうかなって言ってたんだよ」

 この時ばかりは比佐子も声を絞った。


「あの時はちょっとおかしくなってたから」


「今は元に戻ったの?」

 あの日から連絡が取れていない。


「第一あの子お金持ってないでしょ。例の手数料、2万2千円だっけ。それもまだ返してもらってないんでしょ?それなのにあと20万円も用意できる?」


「由実のフリマタウンのアカウント知らない?」

 交渉に使ったとして、ダミーの売買履歴はすぐに削除するだろうが、何かしら痕跡があるかもしれない。すみれの死後比佐子は初めてフリマタウンのアプリをダウンロードしてみたが、アカウントの検索機能はなかった。


「知らない。っていうかやってるかどうかも知らないし。私やってないから」

 桂は苛立った声で答えた。


「ただの事故で事件性はないって警察は言ったらしいんだけど、すみれ、おじいさんのことすごい嫌ってた。それで掲示板に依頼したんだけど。一人でお墓参りに行くはずないんだよね」


「それは確かに不自然かもしれないけど。でもそれで罪悪感から墓参りに行ったっていう考え方もできるんじゃないの?」

 殺人を依頼したことに対するせめてもの罪滅ぼし。桂はそう主張した。


「罪悪感がある感じじゃなかった。むしろ清々してた。わざわざ時間とお金をかけてお墓参りに行かないよ、すみれは」


「そんなに嫌ってたの?」

 実の祖父に情の欠片ない、そう言っているように聞こえた。


「子供の頃から知ってるから。お互い一人っ子だし」

 火傷の話は比佐子しか知らない。話してもいいが、今話すことでもない気がした。

「由実じゃないかもしれないけど。でもただの事故とは思えない」


「まさか、私の事も疑ってる?」

 周囲を気にしていた桂が、正面を見据えて言った。比佐子は首を振った。それは本心だった。


「マジやめてよ」


「だから疑ってないって」


「でも由実のことは疑ってるんでしょ。こういう時だから、そういう風に思うのも分からなくはないけど。だけど比佐子もショックで、判断力落ちてるんだよ。もう少し落ち着いてから考え直した方がいい。由実は絶対関係ない。もちろん私も」

 

 不意にガラスの割れる音が耳に突き刺さった。提げ台を片付けていた店員が誤ってグラスを落下させた。一旦その方へ向けた視線を戻す場所を二人は見つけられなかった。

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