第27話 夏の星座
泣き尽くした由実は、波が忘れていった人魚のように心もとなく存在していた。
「そろそろお通夜終わるころだから。みんな帰る頃だから私たちも帰ろう、ね」
桂が膝を折って目線を合わせて語りかけたが、それには返事がない。ほらっと腕を引っ張ると、抵抗なく持ち上がった。
「汚れちゃったでしょ」
スカートを払ってやっても表情はないまま。
外に立っていた比佐子に声を掛けて多目的トイレのドアを開けると、今鳴き始めたかのように蝉の声が降り注いた。さっきまで残っていた陽は落ち、誰かが忘れていったサッカーボールが砂場で眠りについていた。
公園をあとにした4人は駅へ向かって歩いた。信号待ちの間も会話はない。喪服姿が隣に立ち止まった。中年女性が二人、返礼品の白い紙袋を提げている。故人と親しい間柄ではなかったようで、楽しげにおしゃべりしていた。別の葬儀の弔問客なのか、制服姿の4人を気にすることなく、信号が変わると足早に横断歩道を渡り、やがて見えなくなった。すみれはずっと隣で由実の手を握っていた。
電車を待つホームでも、すみれは由実の手を握り続けていた。そんなことはしないと思いつつ、いつでも力を込められるよう神経を集中していた。打ち合わせたわけでもないのに、反対には比佐子が、正面に桂が、万が一にも衝動的な行動に出られないよう導線を塞いだ。
電車の到着を知らせるアナウンスが流れ、緊張が走る。由実の目は虚ろなまま、ホームに滑り込んでくる電車を追うことはなかった。憂いていたことが起きることはなく、安堵して電車に乗り込む。2つ並んだ空席に、桂に促されて由実とすみれが座った。目の前には、桂と比佐子が並んで立っているが誰も言葉を発しない。
次の駅で由実の隣の乗客が降り、空いた席に比佐子が座った。開けた視界の、窓に映る由実が青白くゆらめいていて、すみれは息を呑んだ。とっさに横を見たが、由実はただ俯いていた。
自宅の最寄り駅に着くと、由実はぼんやり立ち上がった。3人も倣って駅を降りる。由実は口を開くこともなく、おぼつかない足取りで、まるでハーメルンの笛吹き男について行った子供のように歩いていた。
「やっぱり夏は全然星が見えないね」
桂が空を見上げて言った。つられてすみれも見上げる。いかにも湿気を多く含んだ空気の先には、空しか見えなかった。
「でもさ、季節が変わったらまたきれいな星が見えるようになるよ。そしたらさ、4人で星観に行こうよ、どっかきれいに見えるところに」
桂は由実の前に回り込んで、顔の前に小指を差し出した。
「約束しよ」
それでも下を向いたままの由実の手を引っ張り、強引に小指をつないだ。
「あんたたちも」
と促されてすみれと比佐子も小指を出した。
「絶対。約束だからね」
絡み合った4つの指は固くて重かった。
「じゃあね」
手を振る桂を、由実は振り返ることなく玄関の中に消えていった。ドアが閉まるのを見届けて踵を返す。少し歩いて立ち止まり、振り向いたが、由実の姿はなかった。
「相当メンタルやられてるね。こういうことになって普通でいろって方が無理だけど。時間が経って冷静になってくれればいいけど、元々脆い子だし」
桂は宙に向かって息を吐いた。
「わたしのせいでもあるからなぁ」
すみれは頭を垂れた。
「そう?あんまり関係なくない?あの男がクズだってことに変わりないでしょ」
桂はあっけらかんと言った。
「そうかな」
そういってもらえると肩の荷が軽くなる。
「そうでしょ。オンナがいてもいなくても関係ない。フラれて子供おろしたことには変わりないんだから。あの子が勝手にショック受けてるだけ。今はパニクって訳が分からなくなってるけど、落ち着いて考えれば、すみれの勘違いなんて大した問題じゃないってわかるでしょ。あんたもそう思うでしょ?」
もちろんといわんばかりに比佐子も大きく頷いた。責任を感じつつ、すみれも本音は同じだった。
「でも本当に警察行ったらどうしよう。私ヤバいんだけど」
掲示板に書き込んだのはすみれだ。
「どうなんの?」
「分かんないけど。でもただじゃ済まないでしょ」
「さすがに警察には行かないでしょ。崎元とのこととか全部しゃべらなくちゃいけなくなるんだから。そうしたら子供おろしたこととか全部バレて、今よりもっと最悪になるじゃん。自分で自分の首絞めるだけでしょ」
「確かにね。警察にはいかないかもね。でも、その代わり、じゃないけど、変なことしたりしないよね」
すみれは言葉を濁した。
「自暴自棄になって、全部遺書に書き残して自殺するとか?死ぬのはいいけどそれはだけは勘弁してって?」
と言ってから、すみれをちらりと見て「冗談だって」と笑った。
「それは大丈夫でしょ。自殺とか警察とか、一人で積極的に行動できるタイプじゃないでしょ、あの子は。マックだって一人で入れないって言ってたんだから」
桂の言葉はふざけている様にも聞こえるが、それ以上に安心させてくれる力を持っていた。
「それよりお腹空かない?」
「そういわれると空いてるかも。ってか急に空いてきた」
ようやく緊張が途切れた。
「なんか食べていく?ちょうどジョナサンあるじゃん。決定ね」
桂は一直線に歩いて行った。
翌日、掲示板にまた新たな依頼が投稿された。
居住地は「東京都」が選択された。続く年齢は一番下の「10代」、職業は多くの中から「学生」、性別は「女性」だった。最後に「200000円」と入力されたその投稿は30分ほどで消滅した。
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