第19話 浮気現場

 病院を後にしたすみれは駅へ向かった。Tシャツから伸びた、まだ暑さに慣れていない腕にじりじりと陽が照り付けている。梅雨入りしているのが嘘のように、今年は雨が降らない。夏は好きだが、暑すぎても鬱陶しい。6月でこれなら夏本番はどうなることやら、先が思いやられた。


 高層マンションの前に公園のような憩いの空間があって、芝生の上で親子連れが遊んでいる。よちよち歩きの赤ちゃんを、お父さんとお母さんが笑みを浮かべて見守っていた。すみれは僅かに視線を送っただけで通り過ぎた。


 駅前商店街に着くと入り口にかかった時計がちょうど12時を差していた。それを見た突端パブロフの犬の様に腹が減った。背に腹は代えられず、馴染みのない中野駅周辺で、一人で入れそうな飲食店を探すことにした。

 土曜の昼は家族連れでどの店も混雑していて、頼みのファストフード店はレジの列が店の外まで延びている。

 よそにしようと踵を返して、すみれはふと学校帰りにいつもの4人でした会話を思い出した。議題は『一人でファミレスに入れるか』。


「全然一人でも入れるけど」

 カフェで働き始めてから、すみれは店員はさほど客を気にしていないことを知った。知り合いや、変わった行動を取る客なら意識するが、そうでなければ一々気に留めない。


「うっそ?わたし絶対無理なんだけど。マックも一人は無理かも」

 大袈裟に両手を振る由実。


「マックぐらい入れるでしょ」


「入れなくもないけど、一人だとちょっと緊張しない?」


「混んでる時はちょっとするかも。後ろに並ばれるとちょっとプレッシャー、早くしなきゃとか。あと店員にもよる」

 すみれも一人での飲食店に抵抗がないわけではない。


「わかる。優しそうな人ならいいけど、キツそうな人だと何かヤだ」

 大げさに顔をしかめる由実。


「吉野家は?」


「吉野家はギり大丈夫かな。ラーメン屋はアウト」


「わたしは吉野家もラーメン屋も一人で普通に入れるけど」

 冷めた顔で聞いていた桂がようやく口を挟んだ。


「桂は入れないとこないでしょ」

 由実が突っ込む。


「あんただってお腹空いてたらどこでも入るくせに」

 桂の返しにみんなで笑った。

 この話をした2ヶ月前はまだギクシャクしていなかったけれど、由実と崎元は付き合い始めていたから、気づいていなかっただけで予兆はあったのかもしれない。


 すみれはパスタ店の前で足を止めた。チェーン店ではないものの商店街にある店だから高級店ではないだろうが、その割に白く塗られた、インスタントコーヒーのCMにでも出てきそうなお洒落な外観だった。ガラス張りの窓から空席が見えた。興味を引かれたが一人では入りにくいし、店頭のメニュースタンド『ランチセット¥980~』も若干ハードルを高くした。

 財布を確かめたら持ち合わせはある。迷いがちにもう一度店内に目をやったすみれは、慌てて店の前を通りすぎた。


―えっ、ウソ?見間違い?でも絶対崎元だって―


 窓際の席でメニューを開いていた。向かいに座っていたのは、崎元と同年代らしきOL風の女性。


―ただの似ている人かも―


 すみれはUターンして、気づかれないように今度は道の反対側を歩いた。ちょうど向かい側からベビーカーが来て、避けしなに店内に目をやる。学校ではワイシャツが多く、私服姿は見慣れないけれど、どことなく頼りなさげな顔は崎元に間違いない。そのまま足を止めずに店から遠ざかった。


―あの女の人。ただの知り合い、だよね。友達か親戚か仕事仲間。ウチの学校にはいないけど。でも楽しそうにメニューを選んでた。それにあの黄色いシャツ、見覚えある気が・・・―


 ハッと気づいて、スマートフォンを開いた。由実のLINEを遡って見つけたのは、ディズニーランドで撮った写真。耳のカチューシャをつけ、由実と笑顔を寄せ合う崎元が着ているのは同じシャツだった。

 ワイシャツだと修学旅行の引率みたいで目立ちそうだから崎元も普段着に着替えていった、その方が雰囲気出るし、と由実が話していた。胸にブランドのマークが刺繍された黄色いチェックの半袖のボタンシャツ。これが記憶の片隅にあったから店の外からでも見つけられたのかもしれない。

 ディズニーデートに着ていったぐらいだから、あれはたぶん崎元の”よそいき”。となると、今日もお洒落をしているということになる。


―変なもの見ちゃったけど、どうしよう。由実に教えてあげた方がいいか。黙っておいた方がいいかな。ただの思い違いで、由実も事情を知ってるかもしれないし―


 すみれは来た道を戻り、さっき通りすぎた、バイト先とは違うチェーンのカフェに入った。フードメニューもあるが、家族連れには向かないのか、周りの飲食店よりは空いている。ただし喫煙席からタバコの臭いが流れてくるから、用が済んだらすぐに出よう。アイスティーを注文し、席に着くとさっそく由実にLINEを送った。


【お見舞い終了。何してる?】

 祖父を見舞うと話してある。アイスティーをストローでかき混ぜ口に流し込むと、着信した。


【おつかれ。暑いから家でゴロゴロしてる】

 暇な時の由実はことさら返信が早い。


【今日暑すぎるね】


【今年はじめてクーラーつけた】


【早くない?】


【親に文句言われた】

 汗の絵文字が添えられている。


【まだ6月だからね】


【6月のくせにあつすぎ。天気よすぎ】


 ちょうどいいパスが来た。


【天気いいのに今日はデートじゃないの?】

 唐突に聞くと不自然だからそれとなく本題に移る。


【つとむクン、地元の友達の結婚式で実家に泊まって明日帰ってくる】

 今度はしょんぼりした絵文字。


 結婚式ねえ。そんな風には見えなかったけど。これから出発するにも、荷物なかったし。まさかあの格好で出席するわけでもないでしょうし。ウソを吐いて会ってるってことは、ただの知り合いではないってこと。明日も押さえてるんなら今日は泊まりか。


【すみれはいま何してるの?】

 あんたの彼氏のデートを目撃してた、とは言えない。


【お見舞いの帰りに一人でランチしようとお店探してるところ】


【どこ?】


【中野だけど】


【遠いじゃん。近かったら行こうと思ったのに】


 遠くてよかった。


【まだお昼食べてないの?】


【まだだけど焼きそばの匂いがただよってきてる】


【じゃあもうすぐじゃん】


【そうみたい】


【わたしも本格的にお腹空いてきたから適当にどっか入るよ】


【いってらっしゃい】


 すみれは一旦スマートフォンを閉じた。カラカラと氷を回してからストローに口をつける。"中野"に対する由実の反応は"遠い"。この土地には何も引っ掛からなかった。

 崎元が住む板橋のマンションに由実は行ったことがなく、もっぱらラブホテルを利用している。管理人やお隣さんが教師と知ってるからマンションには連れて行けない、と言われているらしい。それはその通りでも、今となってはていのいい言い訳に思えた。

 問題は、崎元は浮気をしていたのか、ということ。むしろその方が、由実にとっては幸せだったかもしれない。すみれの想像が正しければ、あの人こそ崎元の本命。


「つとむクン、ハンバーガー好きだからマックが多いんだよね」


 彼氏の好みを分かっていると得意気に話していたのに、今はパスタ店。本当は、由実に金を使いたくないだけかもしれない。この前はホテルに行く行かないでケンカしてたし、前からそんな予感はしてたけど、たぶん由実の方が遊び。この状況ではそうとしか思えない。


 どうしようか。見かけたことぐらいは伝えた方がいいかな。でも下手に教えて逆恨みされても嫌だし。桂に教えたら喜んで食いつきそうだけど。


 とりあえず黙っておくか。


 でもそれだと崎元一人がオイシイだけ。女子高の教師になったからには生徒の一人や二人に手を付けたいって感じで、今までもこういうことがあったのかもしれない。ただのエロ教師じゃん。それはそれで癪に障る。大したルックスでもないくせに。あの女だって大してきれいじゃなかったし。

 学校とか教育委員会とかに報告したら、由実もダメージ受けるから、そういうの分かっててやってるんならただのクソ男。さすがに由実に同情する。


 アイスティーを一気に飲み干すと、底に沈殿していたガムシロップが甘ったるく舌にのし掛かった。由実の代わりでもないだろうが、ストローがじゅるじゅる泣いていた。


 思いきって、目の前に現れてみようか。「先生こんにちは。今日はデートですか?」って。由実と仲がいいのは知ってるからどんなリアクションするか。めっちゃ慌てて、「違うんだ」って。「どういうことなの?」って彼女が泣き出したりして。修羅場じゃん。


 何か色々面倒くさそう。そこまでする義理もないし、とりあえずいっか。


 すみれは空になったグラスを下げて店を出た。ばったり会いそうな商店街を避けて電車に乗り、地元のファストフードで昼食を済ませたのは1時過ぎだった。

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