第18話 偽装見舞い

 すみれが起きると、母は鏡に向かって念入りに化粧をしていた。シンクには泡の付いたボトルが置きっ放しで、昨夜風呂に入ったのにまたシャンプーしたらしい。服装はグレーのワンピースに真珠の2連ネックレスで、化粧を終えるといつもよりいくらか若く見えた。普段の見舞いはこれほど力まないのに、娘と一緒だとお出かけ気分になるのだろうか。


 すみれも自室でスタンドミラーに向かった。お洒落をして、見舞いごときに張り切っていると思われたら癪だけど、電車だから知り合いに遭遇するかもしれない。それなりに気を遣い、お気に入りのTシャツにデニムスカートを合わせた。見舞いには少々ラフだが、母は全身を一瞥しただけで何も言わなかった。文句言うなら行かない、となるのを避けたのだろう。


 外はフライング気味に真夏が来たように、午前中だというのに日差しが目を突き刺してきて、日焼け止めを塗ってくればよかったと後悔した。

 母と一緒に出掛けるのは父の法事以来だった。後ろを三歩離れて歩く。そこまで来ると、母は何か言いたげな顔であごをしゃくった。つられて井藤家の方を見る。沈黙した庭がそこにあった。頷いてやると満足気に歩を進めた。

 病院は学校とは反対方向で、母が買った切符を受け取り、電車に乗る。晴天の土曜日は絶好のお出掛け日和で、車内は混んでいた。親子連れが多い。子供は半袖なのに、お母さんが長袖なのは日焼けを気にしてのことだろう。


 すみれはドアの横に立ってスマートフォンをいじった。瞼をつねるような日射しに、窓に背を向ける。母は空いた席に座り、お土産の入った紙袋を大事そうに膝の上に乗せていた。二人は距離をとりながら、一度乗り換え、20分ほどで最寄り駅に到着した。改札口に掲げられた病院の看板には徒歩5分と書かれている。


 混雑した駅で行き交う人の袖口から見える二の腕がいかにもべたついていて、肌が触れ合わないよう肩をすぼめて人混みを掻き分ける。母の足はさっきより加速がついている。人並みが途切れたところで、白い建物に一文字ずつ大きく縦書きされた看板の「皆愛病院」の文字が見えてきた。

 中野区にある皆愛病院。ホームページで住所も確認済み。同名の病院は他になく、間違えることはない。実物より画像の方がきれいだが、そういうもの。

 消毒臭いイメージのある病院内だが、歯医者のような嫌な臭いはしなかった。大きな建物の割に人影がまばらで照明も薄暗く、奥にみえる喫茶コーナーの明かりも消えていた。今日は土曜日。こういうところは学校と似ている。


 受付を済ませた母の後をついていく。エレベーターを3階で降り、303号室の前で足を止めた。病室は男女別々らしく、表札に書かれた4つの名前は全て男。右上の『平沼正次ひらぬませいじ』がジジイの名前。


 すみれは「中野区皆愛病院303号室」と頭に刻み込んだ。これがここへ来た目的の1つ。残る1つは機を見て実行する。

 アイコンタクトをして母がドアを開けた。見た目は重そうなドアがすっと横に流れる。303号室はベッドごとに白いカーテンで仕切られていて、中を窺うことは出来ない。


「お父さん、和代だけど、開けるわよ。いい?」


 入って右奥、窓側のカーテンに向かって呼び掛けた。声を大きくしたのは、カーテン越しなのと耳が遠くなっているせいだ。

「あぁ」と蚊の鳴くような返事が聞こえてカーテンを開けると、病衣を着たジジイが現れた。上半身だけ起こして、ベッドの脇にあるテレビを観ていた。流れていたのは政治討論番組だったが、耳が遠いのに音量が小さく、討論は耳に入ってこない。周りに配慮など出来る人ではないから内容に興味がないのか。誰かに音量を注意されたのかもしれない。


 壁からシーツまで白で統一され、清潔この上ないのに、カーテンで仕切られた空間には、ジジイ臭が濃縮しているように感じられた。しかめそうになったが表情は崩さず平然を装う。


「ほら、今日はすみれが来てくれたわよ」


 ようやくテレビから外れた視線が二人の方を向いた。前に会ったのは父の1周忌。2年ぶりに見る顔は頬がこけ、車酔いでもしているように虚ろな表情だった。


「よう来たなぁ」と言ったその表情は冴えない。


「大分良くなったけど、まだ治ってないからね」

 その理由を母が代弁した。布団からはみ出た右足がギプスで固定されていた。ベッドの脇には松葉杖が掛けてある。


「これ買ってきたのよ、お父さんが好きなお菓子」

 母は例の紙袋を手渡した。一度娘を見て頷いたのは、孫からの見舞いと思わせる偽装工作か。策略に嵌まったジジイは孫の方に「ありがとうな」と言った。すみれにとってはくそジジイでも、母にはたった一人の父親。いい気はしないが、親孝行に協力してあげる。ただし、それほど嬉しそうでもなかった。


「暑いからのど乾いちゃったわね。何か買ってくるけど何がいい?」

 母がハンカチで額の汗を拭いながらジジイとすみれを交互に見た。


「お茶がいいな」と呟いたジジイに「冷たいの?」と確認して、同じ質問をすみれに向けた。母が買いに行く気らしいが、二人きりにされたらたまらない。

「わたしが行くよ」というと、意を酌んで「じゃあお母さんも冷たいお茶ね。廊下を真っ直ぐ行くと販売機があるから」とその方向を指差し財布から500円玉を渡した。

 病室を出ようとしたら、入口側のカーテンがわずかに開いていて、中から眼鏡をかけた陰気臭そうなおじさんがこっちを見ていた。


―若い女の声が聞こえて興味持ったんだ。キモイ。こういうヤツが看護師にセクハラしたりするんだよ―


 すみれは早足に病室を出る。しっかりドアを閉めてからスマートフォンを取り出し、メモに『303号室。向かって右の窓際』と書き留め、母に教わった方に向かった。壁にも矢印が出ている。キモイおじさんがあとをつけて来そうで振り向いてみたがいなかった。


 自販機で買ったペットボトルの冷たいお茶を二つと、炭酸入りのグレープを抱えて今度はゆっくり戻る。キモイおじさんはもうカーテンを閉めていた。

 暑い中を歩いて喉が渇いている。グレープジュースを一気に流し込む。母もゴクゴクお茶を呑んだ。せっかく孫が買ってきたんだから一口ぐらい飲めばいいのに、ジジイは口をつけることなく枕元に置いた。


 母は茶を飲みながら、小さな子供に言い聞かせるように、すみれのことを父親に話した。女子校に通う高校2年生であること、喫茶店でアルバイトをしていること、「お風呂上がりにアイスを食べるのが好きなのよねー」まで。時折同意を求めるように、すみれの方に笑みを向けた。プライバシーを暴かれているようで不快だったが、顔に出してはいらぬ勘ぐりをされそうで、すみれは我慢して適当に相槌を打った。

 ジジイは何度か頷いていたが、興味を持っているようには見えなかった。


 話が一通り終わると、手持ち無沙汰になった。


「お母さんはもう少しいるけど、すみれはどうする?」


 母の今日の目的は、離れて生活してきた祖父と孫娘の距離を縮めること。同居に向けての第一目標は十分に達せられたと考えたようだ。


「そろそろ帰る。この後用事あるし」


 本当は何もない。


「お父さん、すみれ帰るって」


 声を掛けると、少しだけ上体を起こした。


「わざわざありがとうな」


 声量が乏しい上に感情のこもらない言葉。それには返事をせず、すみれはあっ、と思い出したようにポケットからスマートフォンを出した。


「せっかくだから撮ってあげるよ」

 カメラを起動させて二人に向けた。


「お父さん、すみれが写真撮ってくれるって」

 母は笑顔をつくってジジイの側に寄った。ジジイはそのままの顔を向けた。


「はいチーズ」


 シャッター音が病室に響く。


「あなたも撮ってあげようか」

 掌を差し出した母に「わたしはいい。じゃ、帰る」とスマートフォンをポケットにしまった。「ここでいいから」と外まで見送ろうとした母と病室の前で別れた。キモイおじさんのカーテンがまた数センチ開いていたが中は見えなかった。


 病院を出ると、さっきよりも日差しが強くなっていた。手のひらで庇をつくり、撮った写真を確認する。笑顔の母、その隣のジジイは表情がない。おかげで顔がはっきり確認できる。鼻からフッと息が漏れた。


 すみれには一抹の不安があった。ジジイに同情してしまうのではないか。自分も鬼ではない。怪我した身体に鞭打って、良く来てくれたと歓迎してくれたら、情が湧いて決意が揺らいでしまうかもしれない。


 それは杞憂に終わった。

 わざわざ孫が来てくれたというのに、うれしそうにするどころか、面倒臭そうにすら見えた。やっぱりジジイはジジイ、何も変わっていない。

 これで思い残すことはない。

 振り返った病院は、太陽の熱で今にも蒸発してしまいそうだった。

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