第17話 事後処理
『KIRI』の評価を終えたすみれはカバンから制汗スプレーを取り出し、ブラウスの裾から手を入れて両脇にかけた。カフェは匂いのあるものは禁止だから無香性。そのせいで時々殺虫剤を撒いている気分にさせられる。顔に浮かんだ汗をポケットティッシュで拭き取り、丸めて汚物入れに捨てて個室を出た。
洗面台では、口にハンカチをくわえたおばさんが手を洗っていた。その隣で手櫛で髪を整える。鏡の中のおばさんが顔をしかめたのは、手を洗わなかったからだろうが、用は足していない。立ち去ろうとしたすみれが足を止めて振り返ったのはおばさんではなく個室の方だった。
―ティッシュペーパーからもDNAは検出されるんだよね。でも殺したのは桐原。わたしじゃない―
いつの間にか出勤時間が迫っていて、あわててエスカレーターを下り、電車に駆け込む。乗客が少ないせいで、車内のエアコンが寒く感じた。
スマートフォンを開く。フリマタウンにはまだ『KIRI』のアカウントは残っている。取引が終了してもすぐには退会できない。終了後売上金が出品者のアカウントに計上され、それを運営に申請すると指定日に口座に振り込まれる仕組み。退会はそのあとになる。
『KIRI』が登録している口座はどこの銀行だろう。やはり特殊なものなのだろうか。そのあたりは素人にはわかるはずもなかった。
再度『ドーベルマン』でTwitter検索してみたが、めぼしいつぶやきはなかった。『ドーベルマン 死』や『犬 毒殺』で検索しても同様で、ニュース検索にも引っ掛からなかった。まだ毒殺と断定されていないからか、犬一匹の死ではニュースにはならない。
店に入ると店長がレジにいた。接客に忙しく、出勤したすみれに気づかない。そのまま通り過ぎてバックヤードに入ると店の制服に着替えた石川がいた。
石川は「おはよう」と言ってから「あっ」と声を漏らした。
「何かついてるよ」
指差したブラウスの肩口が、赤く汚れていた。背中側で死角になっていたせいか、気づかなかった。今度はすみれがあっと言って、反対の手でそれを払った。チョークの粉だった。黒板に擦れたらしいが一見、血に見えなくもない。トイレにいたおばさんが顔をしかめたのはこのせいか。
「じゃあ先行くけど、今日店長だから早くした方がいいよ」
レジの方向を指差して、石川はバックヤードを出ていった。店長が時間にうるさいのはすみれも知ったことで、手早く着替えを済ませる。
フロアに出てあいさつを交わした店長の顔には疲れが滲んでいた。この店はシフトに融通の利かない学生が多いが、余分なバイトを雇う余裕はない。急な欠勤を穴埋めしてきたのがフリーターの野上だった。その代わりは簡単に補填できず、事務作業は後回しで、店長が担うしかなかった。
店長は何かと口うるさく、無駄なおしゃべりはご法度で、いつも以上の緊張を伴う。石川と一緒でも、楽しいお仕事とはいかなかった。
「野上さんはどんな感じですか?」
閉店作業が終了し、私語が解禁となった照明の落ちた店内で石川が尋ねた。
「さっきも電話くれたんだけど、4、5日はダメっぽい。急なことだから、親御さんもショックで塞ぎ混んじゃって、なかなか戻れそうにないって」
店長は疲労困憊といった具合でぐったりと椅子に寄り掛かっている。
「ひき逃げなんですよね」
アルバイトスタッフの間でもすでに噂は広がっている。
「まだ犯人捕まってなくて。それが余計にショックらしい」
「でもひき逃げって死亡事故の時は検挙率が高いらしいですけど」
そういう知識も一緒に広がる。
「それが、現場に全然痕が残ってないんだって。普通はデカイ事故だと色々と破片とかが落ちてるはずなのに」
犯人があの掲示板の住人なら痕は残さないだろう。しかしそんなことは口には出せない。
「当分戻ってこれませんね」
「こういう事情だから仕方ないっちゃ仕方ないけど。横山さん、明日出勤できない?」
不意に店長が振り向いた。
「すみません、明日はちょっと用事があって」
「マジで?」
本当は面倒くさいだけじゃないの?と顔で言っていた。
「入院してる祖父のお見舞いに行くんです」
本当のことだ。
「まぁしょうがないか。じゃあ横山さん、先着替えちゃって」
信じたかどうか分からないまま店長は話を打ち切った。
「静かだったでしょ」
帰宅した娘を待ち構えていたように、母は椅子から立ち上がって玄関の先をあごでしゃくった。意味は分かったが、それに対するリアクションを用意しておらず、すみれは言葉を詰まらせた。
「あそこの、井藤さんちの犬、死んじゃったんだって」
「ああ」とそっけなく答えた。母からこの話題を振られることは想定してしかるべきだったが、そこまで気が回らなかった。娘の関与を疑う気は毛頭ないとわかりつつ、リアクションは慎重になる。足を止めずに買ったアイスを冷凍庫にしまう。
「今朝泡吹いて死んでたんだって」
興奮気味なところを見ると、まだ知って間もないようだ。パート帰りに近所の人から聞かされたというところか。
「知ってたの?」
薄い反応が期待外れだったようで、声のトーンが下がった。もっと食い付いて、久しぶりに親子の会話が弾むのを期待していたのかもしれない。
「別に」
答えに迷い、あなたと会話したくないだけ、というていで誤魔化す。
「毒を食べさせられたかも知れないんだって。あの犬うるさかったから、近所の人がやったのかもね」
駅からの帰り道、バイクが1台通り過ぎた以外は静かなものだった。住み始めて2年にして、ここが閑静な住宅街であると気づかされた。昨日までは、折にふれてやかましい咆哮が響いていた。
一匹の犬によって壊されていたものが、ようやくもとに戻った。毒殺に対する恐怖などどこ吹く風で、目の前にいる母は清々したと言わんばかり。隣近所はみな同様かも知れない。
桐原は、たった1万円でこの町に静寂を取り戻してくれたわけだ。
「それで明日なんだけど、10時ぐらいに出ようと思うんだけど」
母はスムーズに話題転換できたつもりらしいが、さりげなさを気取っているのはすみれに伝わっていた。
「分かった」とだけ答えた。心変わりがないのを確認し、安心したのか母は風呂に入った。母の部屋に置かれた紙袋は、見舞いの手土産。
ジジイが好きな、細長く巻かれたクッキーだ。これを見る度に火傷を思い出すのに・・・。
母の無神経に呆れつつ、今は恨みがないと思っているのなら何かあっても疑われることはない、とポジティブにとらえることもできた。
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