第16話 そして静寂が訪れた

「ベテランさんが休みでいつもより早く出勤しなきゃいけないから先帰るね」


 終礼が終わると、すみれは桂と由実を残し、一目散に教室を出た。

 いつもより早く出勤、は嘘。野上は欠勤でも、すみれの出勤時間に変更はなかった。すぐに下校したのは、由実と桂に挟まれて息苦しいのもあるが、それは二次的なもので、桐原の『発送』を明るいうちにもう一度確認したかったから。お屋敷を観てから出勤しても間に合う時間。二人きりにさせるのは気が引けるし、逃げたと思われるかもしれないが、今はそれどころではなかった。


 すみれは息を切らして電車に乗った。ホームには制服姿がまだまばらで、車内は午後の空いた時間。バイトが始まれば休憩以外はずっと立ちっぱなしだから、今のうちに座っておく。席が生温かくて心持不快だったが、電車がホームを出発すると、背中に午後の日差しが眩しく降り注いだ。尻に感じたのは人の温もりではなかったようだ。今年は空梅雨らしく今日も外は晴れている。屋敷の庭も日に晒され、犬の在否確認は容易だろう。


 でも、とすみれは窓に向けていた視線を車内に戻した。朝に不在は確認済。それから変化はあるだろうか。死んだとしても、すぐに小屋が撤去されたり、死を告げる貼り紙がされたりするわけがない。先走ってしまったけれど、そこに命が失われた痕跡はあるだろうか。


 すみれはふと思い付いてスマートフォンを開き、『ドーベルマン』で検索した。ただのネット検索ではなくTwitter。誰かがめぼしい情報をつぶやいているかもしれない。

 1時間に5、6件程度『ドーベルマン』を含むツイートがされていた。さほど多くなく、そのまま遡っていくと、1つのツイートに目が留まった。今日の9:03のものだ。


【近所に警察が来てた。ドーベルマンが泡吹いて死んでたらしい。鳴き声うるさかったから近所の人が毒盛ったのかも】


 アイコンをタッチして、ツイート主のアカウントを開いた。アイコンは人気アイドルの画像で、プロフィール欄にもそのアイドルのファンであることが記載されているが、居住地を特定できるような情報はなかった。

 すみれはこのアカウントを遡った。ツイートは日に4、5件程度で、アイドルに関するものばかり。当該アイドルだけでなく、アイドル全般に興味があるようだが、今はそこではない。6日前のツイートでスクロールする指が止まった。


【小腹が減って久しぶりにみゆきのたい焼き食った。うまかった】


 添付された画像をクリックすると表示されたのは、「たい焼」と印字された赤い暖簾を掲げた、品書きの色あせた昔ながらの店構え。テレビ番組で紹介されたこともある駅前のたい焼き屋『みゆき』だった。

 久しぶりに、だから以前にも食べたことがある。とすればおそらく地元の人で、泡を吹いて死んだのは、やはりあのドーベルマンである可能性が高い。


―毒殺したのか。夜中にこっそり毒入りの餌を食べさせたのかもしれない―


 たしかに、あのうるさい犬にはそれが有効に思えた。桐原は毒物にも精通していて、動物を殺すのにも慣れているから、犬の一匹ぐらいどうってことない。それで1万円で引き受けてくれて、たった1日で実行したのか。たった1日で。

 すみれははっと顔を上げて車内を見回した。


―桐原は地元の住人かもしれない―



 電車を降りた。駅前の交番にいる警察官は二人。一人が中で椅子に座っていて、もう一人は入り口の脇に立っている。忙しくしている風ではなく、駅前の風景はいつもと変わりない。画像で見たたい焼き屋『みゆき』の前を通りすぎて、屋敷の方向に歩く。

 さっきのツイートは9:03。その時は警察が来ていたようだが、6時間以上経過している。いまは事件が起きた空気は感じられず、騒がしい様子もない。死んだのが人間ではないせいだろうか。それともあのツイートは別のドーベルマンだろうか。屋敷に続く道もいつもと変わらない。


 カウントダウン開始。お屋敷まで5秒前、4、3、2、1。


 そこにあるのは、まるで遠近法のように、反動を伴った殊更な静寂だった。

 通学時と同様、聞き慣らされた咆哮はなかった。ドーベルマンの姿もなく、人影もなく、規制線が張られていることもなかった。

 ただ、暖炉に似た大型犬用の犬小屋に、主を失った空白を埋めるように白い花が供えられていた。


―やっぱり桐原が殺したんだ―


 朝は警察が来ていたようだから誰に見られているか分からず、ここでUターンしたら怪しまれそうで、立ち止まらずにアパートの方まで歩く。そのまま別のルートで駅に向かった。

 時間に余裕はあるのに歩く足が速くなる。周りが気になるのにキョロキョロはできない。只管歩行に専念し、気づいたら駅まで来ていた。ICカードかざして改札を通過し、トイレに向かう。ちょうど空いていた一番奥の個室に入った。周囲から遮断され、一旦気を落ち着かせてスマートフォンを開いた。時刻は15:26。電車を待つ時間が5分、乗車時間も5分、店について着替えるのに5分と計算しても、まだ15分以上余裕はある。

 まずやらなければいけないのは『KIRI』への受け取り評価。フリマタウンは、購入者が届いた商品を確認し、取引の対応を加味して評価を下すと取引終了となり、運営で保留されている代金が出品者に支払われる。

 なんにせよこれを済ませる必要があるが、『KIRI』はダミーのぬいぐるみしか出品していなかった。取引が終われば、それもろともアカウントを削除するだろう。二度と連絡は取れなくなる。


―警察は捜査するだろうか―


 犬の死が毒殺と断定されれば見過ごせない事態ではある。しかし犬一匹のために真剣に捜査するほど警察も暇ではない。同様の事件が続けば本腰を入れる可能性はあるが、多分今はそこまでしない。被害者の手前相応の手続きはするだろうがおざなりだろう。和田早苗の影響で、すみれは警察に対する多少の知識があった。


 捜査したとして、桐原はプロだ。証拠は残していないだろうし、まかり間違って捕まったとしても、依頼者まで捜査の手が及ぶことはない。掲示板が長く運営されていることがそれを物語っている。摘発されないのは、誰も口を割っていないからだ。


 この吊り橋は切り落としても問題ない。

 すみれは『KIRI』に【商品が届いていました。ありがとうございました】のコメントとともに三ッ星の評価をつけて取引は終了した。

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