第13話 高橋様専用
視線をパソコンの画面に、右手をマウスの上に固定し、すみれはいつ来るか、あるいは来ないかもしれないリアクションを待った。静寂が包む室内で鼓動が激しく打っている。口が乾いていたが、ペットボトルは空。だるまさんがころんだみたいに、目を離した隙に挙動がありそうで、冷蔵庫に取り行くのは躊躇われる。ただ予感だけが小刻みに更新されていく。ふとすみれの脳裏に、幼い頃に行った家族旅行の記憶が蘇った。
家族3人水入らず、行先は覚えていない。温泉だったと思うけれど、小さかったから、ただの大浴場を勘違いしたのかもしれない。どこかを観光した気もするがよく覚えていない。旅館に泊まって、翌朝早く出発した。
到着したのは釣り堀だった。釣り堀は、人間が造った池に魚を放したもので金魚すくいの魚版、と父から教わって、車酔いして重心の定まらない頭でぼんやり理解した。
父の両脚の間に挟まれて、父が投げた釣竿を一緒に持った。初めての釣りは、竿を投げたらすぐに釣れると思ったのに、なかなかかからない。ただ竿を持ってじっとしているのはつまらなくて、池を見つめて心の中で何度もカウントダウンした。ゼロで魚がかかったら大当たり。ゲーム感覚の暇潰し、子供の頃は似たようなことをよくやった。
5、4、3、2、1、ゼロ。なんの反応もない。5、4、3、2、1、ゼロ。やっぱり浮きは動かない。5、4、3、2、―――突然パソコンの画面が切り替わった。飛び込んで来たのは『交渉中』の真っ赤な文字。
心臓のギアが一つ上がった。とっさにマウスに力を込め、書き込みにカーソルを合わせる。ドアをノックするようにクリックすると、新しい画面が開いた。
【初めまして】というコメントが表示されている。投稿者名は「桐原」と表記されているが偽名だろう。
―こういうところも挨拶から入るんだ―
意外な気もするけど、当たり前か。いきなり交渉されても心の準備はできていないし。正解など知る由もなく、無難な返事をするしかない。
【初めまして】
ぎこちない指先のせいで、正しく入力するまで3回打ち直した。
【ここを利用されるのは初めてですか】
すぐに返事が来た。こういう質問をするあたり、桐原は慣れていることがわかる。
【そうです】
初心者だと舐められる不安があったものの、変に偽っても見抜かれそうで、その方がリスクが大きく思えて正直に答えた。
【ここはそういう方が多いので安心して下さい。今日で10回目ですって言われたら逆に引いちゃいますから】
冗談めかした返信に、強張っていたすみれの頬が微かに緩む。
【それで今回の依頼は犬ということでよろしいですか】
桐原のコメントが続く。
【そうです】
さっきと同じ返事。他に適切なコメントが思い付かないし、時間をかけて考える余裕もない。
【以前に一度「太」って書かれていたことがありまして、てっきりフトシさんだと思ったら「犬」の間違いだったことがありましたので】
今度はすみれの唇の間に白い歯が零れた。手書きじゃないんだから、打ち間違える訳ないでしょうに。漏れた息が画面にかかった。
【写真はないですかね】
【すみません。ないです。あった方がよかったですか】
予想していなかった質問で、ありのままに返答する。
【できればそうですね。顔のアップがなかったら、旅先で撮ったスナップ写真でもいいんですけど】
犬にそんなものあるわけないでしょうに。
すみれは桐原に対してお調子者のような印象を持ったが、こういった冗談を交えたやり取りは、この掲示板の初心者が総じて持つ警戒心を解いて交渉をスムーズに進めるための常套手段だった。
【なくても大丈夫ですよ。ドーベルマンを飼っている家はそう多くないので、間違えることはまずないですから。飼い主の住所と名前はお分かりですか】
ドーベルマンを飼っている家は多くない、と即答するあたりに、動物慣れが窺えた。鳴き声がうるさいと書いたから、依頼者は近所の住人と想像が付くだろうが、自宅の住所を書くわけではなく、そこまでの抵抗はない。
【東京都練馬区××の3-5-×。名前は井藤です】
事前に調べてある。
【外観はどんな感じですか。壁の色とか屋根の色とか】
【周りをグレーの塀が囲んでいます。家はお洒落な洋風で、紅い屋根に壁はベージュです】
見慣れているうえに、今朝改めて目に焼き付けた。
【隣近所に同じように吠える犬はいないですよね】
【その犬だけです】
【でしたら間違えることはなさそうですね】
男―性別はどこにも書かれていないがやり取りの中でそう感じた―の顔から笑みが消えるのを感じた。
【そうだと思います】
【方法に何かご希望はありますか】
方法―殺し方のことだ。聞かれると予想はしていた。
【あんまり血が流れたりとかしない方がいいんですが。お願いできますか】
切り刻まれるのは抵抗あるし、そんな死体が見つかれば大騒ぎになるかもしれない。
【刃物類を使用する計画ではないので、その点は大丈夫です】
すでに構想があるようだ。やはりこの掲示板に、そして依頼の実行に慣れているようだ。
【お支払はフリマタウンということでしたが、アカウントはお持ちですよね?】
もう金の話か。でもこれ以上伝えることもないか。ダラダラ話すようなものでもないし。
【持っています】
【それでは私のアカウント『KIRI』に『高橋様専用』と書いた犬のぬいぐるみを出品します。『高橋様専用 ぬいぐるみ』で検索すれば表示されますので落札して下さい】
○○専用と表記するのは、フリマタウンの出品物について出品者と購入希望者が金額交渉などを行い、合意に達した際に第三者に購入されるのを防ぐための処置。公式規定ではなく、ユーザー間でいつの間にか定着した慣習だ。
似たような出品があったとしても、出品者を確認すれば間違えることはない。
【手数料が1割引かれるので、11112円での出品になりますが、ご了承頂けていますか】
フリマタウンは売り上げの1割を運営会社が徴収する仕組みだから、想定していたこと。
【分かっています】
【それではフリマタウンでの手続きに移りますが、その前に確認していただきたいのですが、こちらの家で合っていますか】
下に付いたURLをクリックし、表示された画像にすみれは息を呑んだ。見慣れた紅い屋根にベージュの壁、井藤家で間違いない。Googleストリートビューの画像だった。
【この家です】
【ありがとうございます。他に何か気になることや確認しておきたいことはありますか】
すみれの頭に、アルバイトの面接を受けた日の記憶が蘇った。面接の最後に店長に「何か聞いておきたいことはありますか」と訊かれた。やる気をアピールするためには何か質問すべきに思えたが、何も思いつかなかった。今もこれといって訊きたいことはない。
【大丈夫です】
【宜しければ交渉成立ボタンをクリックしてください。それで終了になります】
交渉中ずっと画面のサイドに表示さていた『交渉成立』ボタン。この期に及んで迷うことはない。すみれは勢いに任せてクリックした。
画面が切り替わる。リロードされた掲示板から、すみれの投稿が消えていた。
引き受け手のいない覚悟もあった僅か1万円での依頼が、思いのほかあっさり片付いた。動物に詳しいようだったし、もしかしたら桐原は、動物の殺傷に悦びを得る性癖の持ち主なのかもしれない。この掲示板のほかの住民もただ金のためだけでなく、そういう嗜好があるのかもしれない。
すみれはスマートフォンを取ってフリマタウンを開き、「高橋様専用 ぬいぐるみ」で検索した。まだ早いかとおもいきや23もの商品が表れた。そのうち、22個は「SOLD」マークが付いた、すでに売れたもの。専用出品は交渉成立済みだから、すぐに売れる。唯一出品中の可愛らしいチワワのぬいぐるみの画像をタッチすると詳細が表示された。
商品名『高橋様専用』。値段は¥11112 送料込み。出品者は『KIRI』となっている。これ以外の何物でもない。手際のよさから、掲示板同様フリマタウンも使い慣れているのが分かる。相当な数の「依頼」をこなしてきたのだろう。出品はこのぬいぐるみ1つだけだが、フリマタウンの仕組みを理解しているところを見ると、交渉の度に登録と退会を繰り返しているか、もしくは複数のアカウントを登録する裏技を知っているか。
このぬいぐるみを購入すれば、取引は完了する。
フリマタウンは不正売買防止のため、一人につきアカウントの保有は1つしか認められていない。複数持つことは規約違反となり、発覚すれば利用停止処分が下される。すみれも『すっち』名義のものだけを使って売買してきたのだが、ホーム画面にはこれまで出品した商品が表示されている。今も要らなくなった洋服やマンガが首を長くして購入者を待っている。
これらを辿って個人を特定されないだろうか。一抹の不安が脳裏を過ったが、どうせ住所は近所まで知られてるんだし、今更ビビってもしょうがないか。と腹をくくって『売上金を使う』にチェックを入れ、すみれはぬいぐるみを購入した。
【早々のお買い上げありがとうございます】
切り替わった取引画面に、間髪いれずに桐原のコメントが届いた。
【これで終了ですか】
【そうですね。早速商品の発送準備に入ります。完了次第こちらから連絡致しますのでそれまでお待ちください。それでは失礼します】
踵を返すように桐原は去った。顔に風がかかった気がしたのはただの錯覚だ。
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