第12話 東京都在住犬1万円
翌日、由実はいつものおしゃべりに戻っていた。
「電車の中で変なおっさんが前に立ってるOLの髪の匂いでんの。キモすぎでしょ。で、私と目ぇ合ったらすーって深呼吸してるみたいにして誤魔化して。いやいやバレてるから」
本当か嘘かわからない通学電車でのひとコマを小芝居交じりに披露して満足げに手を叩いて笑った。登校したての朝の教室で机の上に腰を下ろし、濃紺のチェックのスカートから出た足を、ブランコではしゃぐ子供のようにばたばたさせて。僅かに開いた窓からは柔らかな風が流れ込み、白いカーテンを揺らしていた。
理科の授業の崎元も普段通りだった。普段よりテンションが高かったかもしれない。昨日散髪に行ったらしく、髪が短く切り揃えられていて、襟足が初々しかった。由実を指した時はこっちがドキッとしたけど、由実は平然と答えた。事前に打ち合わせがあったらしい。
「雨降って地固まるっていうじゃん」
学校ではタブーのはずが、授業の後由実はそう言って目元にピースをかざした。
それが振り子になったように、桂の表情は冴えなかった。休み時間も会話に加わろうとせず、一人席に座ったまま片肘をついてスマートフォンをいじったり、机に臥せたりしていた。ふりだけでたぶん本当は寝ていない。
「今日ちょっと用事あるから」
放課後、駅前のファストフード店の前で、桂が足を止めた。
「バイト休みでしょ?」
いつものように入店する気でいた由実は、店へと向けていた歩を止めて振り返る。
「バイトは休みだけど、別の用事。じゃあね」
桂は由実の問いかけにそっけなく手を振ってバス停へと向かい、そのまま振り返ることはなかった。黒髪のロングヘアが陽の光で茶に染まって見えた。
「ごめん。実はわたしも今日ちょっと用事があるんだ」
すみれも続いた。言いにくいのは、由実の反応が読めたから。案の定由実は顔を曇らせた。
「違うって。桂とは全然関係ない。家の用事だから」
誤解を解くために笑顔を向ける。
「じゃ今日は帰る?」
由実は比佐子に訊ねた。
比佐子が頷き、そのまま駅まで3人で、無言で歩く。
「じゃあね」と手を振り、改札で反対方向の由実と別れた。その顔は晴れないままだった。すみれと比佐子は同じホームに向かう。背中に視線を感じたが振り返らなかった。
「桂、本当は用事ないよね。由実の話聞きたくないだけでしょ。最近ギクシャクして気まずいって。由実ものろけすぎだけど、桂も聞き流せばいいのに」
頷く比佐子に、すみれが続ける。
「由実と崎元がケンカして、ちょっとは桂の機嫌も直ると思ったのに。直ぐに仲直りしちゃったから、余計気ぃ悪いでしょ」
比佐子が先に電車を降り、すみれはその次の駅で降りた。
今日は歩く足が速い。電車では比佐子の手前友達談義をしていたが、気持ちはそこになかった。コンビニにも寄らず、脇目を振らずに家を目指す。お屋敷の前で、珍しく人とすれ違った。買い物袋をカゴに入れた、自転車に乗ったおばさんは独り言を呟き、周りのことなど視界に入っていないようだが、いずれにせよツバダーツは前回が最終回となった。それでも火が着いたように吠えたてるドーベルマンに、すれ違い様視線を送ってすぐに立ち去る。一瞬止んだ咆哮は、勢いを増して再開された。
帰宅したすみれはリビングを素通りし、カバンを椅子の背もたれに掛けて、制服のまま机に向かった。パソコンの電源を入れると、上映開始を告げる映画会社のエンブレムのように、スタート画面と起動音が流れた。インターネットを開き、お気に入りから選んだのは『仲介掲示板』。トップページが表示される。
ID icetea0610
パスワード smile_0519
投稿するには利用登録が必要で、ログイン画面に、昨日のうちに登録しておいたものを入力する。IDは何となく思いついたものと昨日の日付を組み合わせただけ、表示される可能性を考慮して自分と脈絡のないものにする。パスワードは自分の名前から「U」を切り取った英単語と誕生日。依頼者名の「高橋」も同様で、知人の名前の借用は避けるのが無難。
任意だったメールアドレスは登録していない。必須だったら利用登録を躊躇ったかもしれない。個人情報がいらないことで、ハードルはグッと下がる。後からでも登録できるから、どうしても必要なら、以前ふざけて出会い系に登録した時に作ったフリーメールを使えばいい。スマートフォンのアドレスはさすがに怖い。
Enterキーを押すとログインに成功した。IDもパスワードも誤りはなく、わずかに安堵する。本題はここから。机上のペットボトルを取った。キャップを捻るとわずかに炭酸が漏れる。グレープ味で口を潤す。
入力方法も昨日確認してある。対象者が居住する都道府県、年齢、性別、職業、依頼金を選択肢の中から選ぶ。すみれはまず東京都をクリックした。次に年齢は10代、20代、30代・・・とある一番下の「不明」。職業は「手動入力」をクリックして表れた空欄に「犬」と打ち込み、性別も「不明」を選ぶ。依頼金は数字の入力。円の前の空欄に10000と入れる。0は4つ、1万円をしっかり確認する。
最初に入力するのは大まかなことのみ、詳細は交渉で明かすのがここのルールらしい。その下の「備考欄」に、授業を上の空で考えていた文言を入力する。
「近所の家で飼われているドーベルマンの鳴き声がうるさくて大変迷惑しております。昼夜なく、人が前を通る度にわめきたて、私だけでなく近隣の方みんなが迷惑しています。依頼金は安いですが、引き受けてくださる方がいらっしゃいましたら、どうぞよろしくお願い致します。」。最後に「依頼金の受け渡しはフリマタウンでお願い致します」と書き添えた。
多めの漢字と敬語を使うことで、受諾者へ敬意を表すとともに、自分の年齢を見抜かれないようにした。若いと知られたら舐められて、雑に扱われるかもしれない。
『送信する』をクリックすれば完了する。
間違いがないか、もう一度確認する。特に金額、10000円。ゼロ1つの間違いで致命傷を負いかねないから慎重になる。万が一トラブルになった時は、交渉成立前なら『削除する』をクリックすればその瞬間全てが白紙に戻る。こういうところも、足を踏み出しやすくしていた。
すみれは、あの犬を殺したいほど憎んでいるわけではない。
これはあくまでもテスト。この掲示板は本物なのか、本当に実行されるのか、確かめるためのテストだ。詐欺だったとしても1万円なら諦めがつく。まだ動物なら、人間ほどの罪悪感はないし、大事にもならないはず。
本当の目的はその先にある。
すみれは覚悟を決め、押し込むように『送信する』をクリックした。
画面が切り替わり、表示されたのは「この内容で送信しますか」という確認画面。肩透かしをくらって、一つ息を吐く。OKボタンを押すと、画面は掲示板に戻った。
腕にのしかかっていたバケツの水をぶちまけたような解放感がすみれの胸に去来した。ペットボトルを取って渇いた喉に流し込む。半分ほど残っていた中身は空になった。蓋を閉め、掲示板に視線を戻す。
[6月11日16時07分 東京都在住 犬 1万円 待機中]
犬の字こそやや違和感があるものの、それ以外は他と代わり映えしないはず、だったが、右端に黄色の太字で『待機中』と表示されている。初めて見るそれは、投稿者のブラウザだけに表示されるものだと分かる。外から眺めていた檻の中に自らの足を踏み入れた現実が、視覚を通して突き付けられた。
パソコンの画面右下に表示されている時刻に目をやる。16時09分。書き込みから2分経過。表示は『待機中』のまま。今ならまだ脱け出せる。削除ボタンを押すだけ。しかしすみれは檻の中に立ったままだ。
ここまで来たんだから、行くところまで行ってみよう。本当に危険がせまったら削除ボタンを押せばいい。先日のニワトリは『交渉中』に替わるの早かった。動物ならすぐに受諾者が見つかりそうだが、ドーベルマンは難しいか。鳴き声がうるさいと書いたから、敬遠されるかもしれない。何より依頼金がたったの1万円だ。
もう一度時刻を見る。16時11分。時間が経つのが遅い。といってスマートフォンをいじる気にはなれないし、いじったところで、パソコンの画面が気になって、なにも頭に入らない。空になったペットボトルのふたを開けて口元でひっくり返したら、底にたまっていた分が少しだけ舌に流れてきた。
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