第10話 ニワトリ2万円
「お帰りなさい」
リビングでテレビを見ていた母が頬杖から顔を上げたが、すみれは目もくれない。
テーブルの上では天ぷらがラップを被っていた。エビとかぼちゃと茄子としいたけ。一目で母がもらってきた売れ残りだと分かるが、このスーパーの、特にしなびた天ぷらは妙に油っこいし、水に濡れたセミの抜け殻みたいにふやけていて食欲をそそらない。比佐子と食べたフライドポテトがまだ腹に残っているすみれは、素通りして自室に入った。
蛍光灯を点けると、ノートパソコンは出掛けた時のまま、主人の帰宅を出迎える従者のように、身じろぎ一つせず机の上に収まっている。
すみれは椅子に座りノートパソコンを起動しようとして、手を止めた。一度ドアを振り返ってから改めて電源を入れると起動音が流れた。パスワードを入力するキーボードを叩く音が続く。
しばらくパソコンを弄っていなかった。急にどうしたかと、母は不審に思うだろうか。若干の不安を抱いたが、殺人依頼掲示板を見ているなど知るわけがない。パソコンを使うのはやましいことではないのだから気にする必要などなかった。インターネットを開く。
3時間経った『仲介掲示板』。この間に交渉が成立したのもあるのだろう、増えた書き込みは5つだけだった。
[6月7日20時41分 茨城県在住 30代 男性 会社員 30万円]
[6月7日20時27分 東京都在住 60代 男性 自営業 50万円]交渉中
[6月7日19時55分 新潟県在住 20代 女性 飲食店勤務 20万円]
[6月7日18時18分 山形県在住 40代 男性 公務員 20万円]
[6月7日17時07分 岩手県在住 30代 男性 公務員 20万円]
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まだ新しい、東京都在住の50万円が交渉中。やはり高額で都市部在住だと受け手が見つかりやすいようだ。
ベルトコンベアを流れる機械部品のように代わり映えのしない書き込みも、時間を見れば見分けがつく。すみれが真っ先に探したそれは、やはりなくなっていた。
交渉成立。この掲示板を見ている誰かの手で、80代の女性が殺される。
ニュースで流れたら、この掲示板が本物ってこと。でも、発作に見せかけて、って書いてあった。そういう風に死んだらニュースにはならないか。
80代の老人の突然死にニュースバリューはない。
だけどどうやって実行するんだろう。薬飲ませたり、注射打ったりとかかな。まさか依頼した娘の目の前で?それはさすがにキツいか。家を出たあとにやってもらって、帰ってきたら死んでた、みたいにするのかな。いつ実行するかとか、色々交渉したんだろうな。娘にしたら一刻も早くって感じかもしれない。
自分も老いているのにさらに老いた母親の面倒を見る。それも一人で、呆けた母親の。こんな介護、ブラック企業で働かされてるようなもの。給料出ないんだからもっと酷い。心も体も疲れ切って、下手したら自分が過労死する。老人ホームに入れないんだから、どうしようもない。
すみれは依頼者を非難する気にはなれなかった。むしろ同情していた。
家内に静寂が降りた。母がテレビを消して、風呂に入るようだ。
うちも母一人子一人。もしかしたら将来同じことになるかもしれない。そうならないように、それなりに経済力のある人と結婚して、母は老人ホームに入れよう。そのためにはやっぱり大学ぐらい出ておかないと。それなりのところに就職しないとそれなりの人とは出会えない。
―そのためにも、あのジジイを何とかしたい―
画面が更新され、新しい書き込みが表示された。
[6月7日20時47分 千葉県在住 ニワトリ 2万円]
―ニワトリ?ニワトリってどういうこと?―
すみれはとっさにクリックした。
「隣家のニワトリがうるさくて困っています。毎朝鳴き声で起こされます。受験生の息子が深夜まで勉強しているのに、まだ陽がのぼりきっていない時間に起こされてしまい可哀想です。一度失敗し、浪人中であるため余計に神経を尖らせております。お引き受け頂ける方、どうか宜しくお願いします。
依頼人:鈴木」
動物もアリなんだ。そうだよね。ここ見てる人って、金を貰えば人殺すんだから、ニワトリなんてお安い御用でしょ。2万って安いけど、人間より全然楽なはずだし。っていうか人に頼まなくてもトリなら自分で出来そうだけど。でもお隣さんだし、万が一見られたら色々めんどくさいことになるか。2万でやってもらえるなら頼んだ方がいいかも。
でも「隣家」って。その殺し屋かなんかに自分の住所も知られちゃうけど大丈夫なの?怖くないのかな。
ニワトリ2万円に「交渉中」が点灯した。
早っ。やっぱり年寄りとか動物は殺しやすいから、安くても引き受けてくれる人がいるんだ。ってことは、お金を出せばあの五月蠅いドーベルマンも・・・。
ニワトリが2万なら、ドーベルマンはいくらだろう。凶暴な分高いかな。いい人だったら、安くても引き受けてくれるかも。犬殺すのにいい人もないけど。
―でも待って―
お金の受け渡しはどうするんだろう。手渡しってことはないよね?そんなヤバイ人と会うの恐いし。面と向かったら脅されたりしそう。
銀行振り込みかな。それだと金だけ受け取ってバックレられたりするでしょ。結果を見てから払うのかな。でも大金だから万が一払えなかったらどうするの?記入ミスとかでちゃんと振り込まれなかったりしたら、自分が殺されちゃうとか?リスクデカすぎ。それともこの掲示板が間に入ってくれるのかな。
『利用上の注意』をクリックする。
「当サイトのご利用は自己責任にてお願い致します。利用時のトラブルや事故に関する責任は一切負いかねます。」
書き出しは、『注意書き』と同じ内容。続けてこう書かれていた。
「金銭等の授受に関しましても、掲示板管理者は一切関与致しません。利用者の判断にてお願い致します。」
利用者の判断って・・・。やっぱ恐い。トラブって殺された人とか絶対いるでしょ。なんでこんなとこ利用できるの?無理でしょ普通。
逆にそこまでして殺したい人がいるってことか。「ワラにもすがる思い」ってやつね。
画面が更新され、また新たな書き込みが表示された。
[6月7日20時59分 宮城県在住 20代 女性 会社員 100万円]
クリックした先には、夫の不倫相手に対する恨みが綴られていた。妊娠中、夫の行動に不審を抱いて興信所に依頼した。不倫の事実を確認し、相手の身元も突き止めたという。
ドラマのようないかにもな展開に嘘臭さを覚えたすみれだったが、最後の1行に思わず、あっと声を漏らした。
「依頼金の受け渡しはフリマタウンにてお願い致します」
―そういうことか―
スマートフォン用のフリマアプリ『フリマタウン』。ダウンロードすれば誰でもインターネット上でフリーマーケットのように簡単に売買が出来る。すみれも要らなくなった漫画や洋服を売り買いしているユーザーの一人だっだ。
このアプリの売りは、安心取引。購入者はクレジットカード払いやATM払い、コンビニ払いなどから支払方法を選択することができるのだが、支払金は一旦アプリの運営会社で保留され、商品が届いた後に出品者に支払われる。商品に不備があった、違う商品が届いたなど問題があった場合は、手続きを踏んで返品すれば保留されている金が返却される。インチキをつかまされて金が戻ってこないなどのトラブルを防ぐことが出来る仕組みになっている。
安心取引を掲げる一方で、『フリマタウン』は問題も抱えていた。複数用意されている配送方法の中から『フリマタウン匿名便』を選べば、お互い匿名で、住所も知られずに取引出来る。それ自体は利便性に優れていて利用者に好評だったが、それゆえに違法薬物売買の噂もあがっていた。
薬物購入者にだけ分かるダミーの出品をし、隠語を使ってメッセージを交換、モノや金額に納得できたら交渉成立。互いの素性を知らずに取引でき、取引終了後当該出品を削除すれば証拠は残らない。膨大な数の出品を運営元が逐一チェックするのは不可能で、単なる噂話とも思えなかった。
援助交際の交渉に使われているという話も真しやかに囁かれていて、『フリマタウン』は利用者が拡大する傍ら、闇の部分も抱えていた。
―ウソの出品をして金の受け渡しをするってことかな。これならリスクが少ない。っていうか簡単に出来ちゃうじゃん。これはヤバイ。マジヤバイって―
顔がほころんでいることをすみれは自覚していた。新しいコスメを買ったらすぐに使ってみたくなるのと似た心理が働いていることにも気付いていた。
スマートフォンを開き、『フリマタウン』のアプリを立ち上げた。売上金を確認すると、『13881円』と記されている。自分の物を売って稼いだ金。申請すれば銀行口座に振り込まれるが、バイトの給料もあるし貯金もある、この金で商品を購入することも出来るため保留していた。
―犬一匹なら、1万円で殺してくれるかも―
違うって。見るだけ。どんな感じか見るだけだから。そう自分に言い聞かせながら「掲示板に書き込む」をクリックした。
そこには『*書き込み上の注意』が、取っておいたかのように、真っ赤な文字で記載されていた。
・書き込みは全て自己責任にてお願い致します。トラブルに巻き込まれても掲示板管理者は一切責任を負いません。
・掲示板管理者による仲介、斡旋は行っておりません。利用者について一切把握しておりませんので、御自身の判断によりご利用下さい。
・当掲示板は希望通りの結果を保証致しません。取り返しのつかない事が起こる場合もあります。書き込み者が罪に問われる可能性もありますので、くれぐれも御注意下さい。
「それでも書き込む時は」と書かれた下に、空白の記入欄がいくつかもうけられている。
対象者の居住地・年齢・性別・職業・依頼金。依頼者のメールアドレス(フリーメール可。省略可)。
おもちゃ箱に紛れた本物のナイフに触れたように、マウスに置いた手のひらの熱が奪われていくのを感じた。
引き受ける方もどんな人か分からないって。絶対ヤバイ人だし。こんなの高校生が入っていいところじゃないよね。危ない危ない。
母が風呂から出る音が聞こえた。すみれはパソコンを閉じて風呂の支度を始めた。
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