第8話 殺人依頼サイト

 桂がバイト、クラスの違う比佐子はまだ授業が残っているから今日はいつもの店には寄らず、バイトがないすみれは由実と駅で別れて真っ直ぐに帰宅した。珍しく和の気分で、駅前のコンビニで買うアイスは、あずきモナカを選んだ。控えめに咲くサツキを横目に、アイスの入ったレジ袋を揺らして歩く。夏服の白が太陽を反射していた。


 いつも通り、この時間のこの通りは人気がない。お屋敷も明かりは消えているし、カーテンも閉じられている。

 念のため振り返って誰も見ていないのを確認し、足音を消して壁伝いに歩く。ゲームスタートまで残り5メートル、4、3、2、1・・・。


―やった!50点!―


 吠え声より一瞬早く発射されたすみれのツバは、顔から突き出した真っ黒な鼻に命中した。

 喉元に噛みつかんばかりに激昂するドーベルマンも、鉄柵の中からでは所詮負け犬の遠吠え。背中で聞き流し、すみれは大吉のおみくじを引いた気分で、スキップさながらに立ち去った。


 足取り軽く階段を上がり、鍵を回してドアを開けた。この時期でもひんやりとした玄関の先は薄暗いリビング。壁のスイッチを押すと灯りが点り、照らし出されたのはバイトがない日のいつもの我が家。

 虫歯が疼くように顔をしかめたのは、腐った整髪料みたいな臭いがしたからだ。昨夜母が持ち帰った臭い。しかし残り香ではなく、記憶が引き出した錯覚だったのか、すぐに消え失せた。

 ダイニングチェアに座り、カバンの中から飲みかけのペットボトルを取り出す。蓋を開けると、オレンジの香りが鼻をついた。いつもは好むそれもあの臭いの後では不快で、口をつけずに蓋をした。

 ここに住むことになったら、毎日ジジイ臭を嗅がされる。口をきかなくても臭いはする。帰宅する度に気分が悪くなる。ただでさえ不味い飯にジジイ臭がトッピングされる。

 怖いのは気にならなくなることで、家の臭いは体臭と同じで自分では気づかない。長時間留守にして帰宅した時に感じる程度。気にならなくなったら汚染完了でその時は手遅れ。汚臭は白蟻のように秘密裡に家を蝕んでいく。


 ペットボトルを冷蔵庫に仕舞い、自室に入った。カバンを置いてカーテンを閉める。明かりは消したまま、カーテンの隙間から午後の陽に覗かれながら制服を脱ぎ捨て、下着姿でベッドにもぐり込んだ。

 すみれは飼い猫をあやすような手つきで自分に触れた。場所も力加減も心得た指先が、英単語の綴りを覚えるように、何度もそこで転がされる。次第に体が熱を帯びて行く。リミッターに向かって、なおもアクセルを踏み込む。刹那臀部が浮き上がり、コースターは頂上から落下した。


 そのまましばらく天井を眺めた。誰もいない、スマホも鳴らない、一人を満喫出来る静かな空間。胸元には汗が滲んでいる。

 ふとドアに目が行った。影で縁取りをしたように、僅かに開いていた。そこにギョロっとしたジジイの目が浮かび、すみれは飛び起きた。電気を点け、ドアを開ける。誰もいるはずはないが、全身の皮膚がざわついていた。


 冷蔵庫から取り出したオレンジジュースに口をつける。ボトルは冷えていても、カバンに入れっぱなしだった中身は生ぬるい。炭酸がためらいがちに喉を流れていく。顎を伝ったオレンジ色の水滴が、胸元に垂れて汗と混じりあった。空になったペットボトルは、テーブルの上で行き場を失していた。


 アイツが来たら全部おかしくなる。自分の部屋にいても、隔てているのは壁一枚。ジジイが来たら何もかも奪われる。


 居眠りの途中で肩を叩かれたみたいに、不意に冷蔵庫が音を立てて稼働した。


 すみれは思い出したように部屋に戻り、机に向かってノートパソコンを開いた。亡くなった父が遺したものだ。スマートフォンがあるから、電源を入れるのはいつ以来だろう。


 Yutaka0823。父の名前と誕生日を入力すると、スタート画面が表れた。

 最初にウイルスソフトを確認する。まだ有効期限が残っている。まるでこうなるのを知っていたかのように、父は亡くなる前に3年先まで更新を済ませていた。

 インターネットを開き、いくつかのサイトを閲覧した。父はこういうことには金を惜しまい人で、高価な部類に入るこのノートパソコンは、久しぶりでも何の問題もなく動いてくれた。ウイルスソフトも稼働している。

 それが終わると、すみれはベッドの上のスマートフォンを取った。目当てのメッセージはすぐに見付かった。


【だから動画じゃないって。聞いたことない?殺人依頼サイト。偽物じゃなくてリアルだよ】


 3年前に和田早苗から送られたLINE。添えられたURLを一文字ずつノートパソコンに打ち込んでいく。

 入力が終わり、一つ息を吐いた。アルファベットを一文字ずつ念入りに確認したが、誤りはない。

覚悟を決め、enterキーを押した。

 サイトを読み込んでいた画面が、突然カッカッカッカッとトランプを切るように、勝手に何度も切り替わった。


―え、なに、ヤバイかも―


 しかし操作をする間もなく、すぐにサイトが表示された。

 白い背景に黒い文字の、どこにでもありそうなそのサイトには『仲介掲示板』というシンプルなタイトルが掲げられていた。

 漆黒に血が滲むようなおどろおどろしいものを想像していたすみれは拍子抜けしながら画面を追った。タイトルに続いて注意書き。


「当サイトのご利用は自己責任にてお願い致します。利用時のトラブルや事故に関する責任は一切負いかねます。」


 これもインターネットサイトではよく見かけるもの、珍しくはない。


―ヤバイサイトが3年も放置されてるわけないか。別のに変わったのかな―


 警戒心の和らいだすみれはマウスを操作し、注意書きの下の『掲示板』の文字をクリックした。

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