第7話 絞殺と扼殺

 コンビニを出たら、和田早苗の姿は見えなかった。さっきもいつの間にかいなくなっていた。この時間まで、どこで何をしていたんだろう。

 蒸し暑かった帰り道が、急に暑さが気にならなくなった。通い慣れたはずの、いつからか警戒しなくなった夜道の一人歩きが、いまは誰もいないはずの背後に耳を澄ませていた。

 

「『絞殺』と『扼殺』の違い分かる?」


 早苗の語る事件ものに興味を持ち始めた頃に訊かれた。違いどころかその言葉すら聞き覚えのなかったすみれに「首をロープとか紐とか物で絞めて殺すのが『絞殺』、手とか腕で絞めるのが『扼殺』」と言って、二人の間のある宙に人体を見立て、早苗はジェスチャーを付けた。休み時間の教室で、クラスメイトの視線が気になったが、早苗は構わず続けた。


「絞殺って自殺に偽装することがあるんだ。殺した後どっかに吊るして自殺に見せかけようとして。だけど、ちゃんと見分ける方法があって、他殺の場合は首に引っかき傷が残るの。首を絞められたら何とか逃げようともがくでしょ、その時に傷ができる」


 自分の首に両手の爪を立て、熊手のようになぞってから早苗は「もう一つ」と続けた。


「自分で首を吊った時は、紐の痕が耳の後ろを通って斜めにつく。上に吊られるから当然そうなるでしょ。でも誰かに殺された時は、こういう風に、水平に痕がつくの」


 早苗は指先ですみれの首に線を引いた。左のうなじ、耳の付け根の下の首の中程から、線香花火の火種ように、ゆっくりじりじりと指先を這わせた。喉元を伝い、右のうなじに差し掛かったところで、突然首をがっと鷲掴みにした。はっと目を見開いたすみれを見て、早苗はケラケラ笑った。


 不意に咆哮を浴びせられ、思わず声を上げそうになった。気づくとあの家の前まで来ていた。いい時間なのに、ドーベルマンはお構いなし。ツバを吐きかけたことを記憶しているのか、手当たり次第に吠えているのか、「弱い犬ほどよく吠える」というけれど、この犬は強そうなのに朝から晩まで吠えまくる。本当は弱いのか。どちらにせよ、よく吠えるほど迷惑な犬なのは間違いない。

 お屋敷に灯りが点いているから、そのまま通りすぎる。ツバダーツはバイトがない日の学校帰り、人気がない時だけのお楽しみ。


「お帰りなさい」


 アパートのドアを開けると母が振り返った。返事をせずに玄関を上がったすみれの鼻がすぐに感知した。冷凍庫にアイスをしまい、イスに座る。テーブルの上でラップを被っているのは、皿に移し替えられたスーパーの惣菜。


「今日も病院行ってきたのよ。先におじいちゃんのお家に行って、必要な物を届けてあげたの」


―やっぱり―


 家の中に、いつもと違う臭いが漂っている。年寄りがまとっている、使用期限の切れた整髪料みたいな嫌な臭い。


「遅くなったから、帰りにスーパーに寄って買ってきた」


 昨日と違って、今日は遅くまで病院にいて料理ができなかった、代わりにジジイ臭を貰ってきた、ってわけね。手料理よりこっちの方がいいけど。すみれは黙って惣菜を電子レンジで温める。


 台所を離れた母は自分の部屋へ行き、タンスの引き出しを開けながら言った。

「リハビリがあるから、退院まで1ヶ月ぐらいかかるって言われたんだけど、その後はやっぱりここに住むことになりそう」


 すみれはタンスの方を振り返り、母の背中を睨んだ。


「仕方ないでしょ。他に面倒見る人いないんだから」

 背中で視線を感じ取ったのか、母は咎めるようにそう言って、目を合わさずにすみれの後ろを通って風呂へ入った。後にはジジイ臭が轍のように残っていた。

 ため息と一緒に出ていったように、食欲をなくしたすみれは炊飯器のご飯には手をつけず、温めたコロッケとポテトサラダだけ食べて自室に入る。制服のままベッドに腰を沈めた。


―なんであんなジジイと一緒に暮らさなきゃいけないの―


 正面にあるスタンドミラーに自分が映っている。怒りに満ちた表情が、見つめているうちにやるせないものに変わって行く。そっと前髪をかき上げて、生え際の痕を確めた。すみれにとっては大きな、小さな傷痕。


 小学校に上がったばかりの頃、家族でジジイの家に遊びに行った。家と言ってもここと似たような小さなアパート、当時からジジイ臭が充満していた。

 リビングで昼御飯を食べたあと眠ってしまったらしく、目が覚めると隣の部屋のこたつの中にいた。台所からは母が夕食を作る音が聞こえる。父はどこか分からないが、たぶんリビングだろう。部屋にはジジイと二人だけ。起きた孫を気にも留めずに、ジジイは座椅子に寄りかかってテレビに見入っている。流れていたのは、確か演歌だった。

 テーブルの上のお盆に、お菓子が乗っているのを見付けた。細長く巻かれ透明の袋に入ったクッキーが二つ。小さな身を乗り出して一つ取り、袋を割いて食べた。何の気なしに残りの一つを食べようとしたら、横からジジイの手が伸びてきた。自分の分を取られないよう慌てたのか、タバコを指に挟んだまま。前髪をアップにしていたおでこに、その火が当たった。

 痛いのと驚いたので、文字通り火がついたように泣いた。

 小学1年生の子供からお菓子を奪おうとして火傷させるなんて、どう考えてもジジイが悪い。それなのに、あろうことかジジイは泣き声を聞いて駆けつけた両親に「俺が持っていたお菓子をとろうとして頭を乗り出した」と正反対のことを言ってのけたのだ。

 母は「そんなことしたら危ないでしょ」、父も「すみれが悪いんだぞ」と、二人して私を叱った。私は泣きながら、傷に氷を押し当てていた。

 それ以来ジジイが大っ嫌いになった。家に遊びに行くのも拒否するようになったし、たまに家―前に住んでいたマンション―にジジイが来る時も、わざと出掛けたり、部屋に籠ったりして、とにかく顔を合わせないようにした。両親は火傷のトラウマだと思ったみたいだけどそうじゃない。あんな嘘吐きジジイとは、口もききたくない。

 傷痕が鏡に映っている。左目の上の方、おでこと髪の毛の境目にある、そこだけ蓋をしたような痕。このせいで髪をアップに出来ない。帽子を被るときも前髪を残したまま。他人は気づかないかもしれないし、言わなければ分からないかもしれないけど、決して小さな傷じゃない。

 あんなヤツと一緒に暮らすなんて無理。バイトがない日は家で二人っきりとかあり得ない。あのジジイならいない時にこっそり部屋を覗いたりとかやりかねない。

 それに一緒に暮らしたら臭いが染み付く。洋服にも、制服にも、体にも。ジジイ臭い女子高生なんて死にたくなる。バイトだってクビになるかも。


―本当嫌。どうにかしないと。マジでどうしよう―


 ここを出て一人暮らしを始める、なんて出来るわけない。出勤を増やしたところでバイトの給料なんてたかが知れてるし、勉強する時間がなくなって、大学どころか高校にも行けなくなる、本末転倒。

 老人ホームに入ってくれればいいんだけど。本当に財産とかないのかな。知り合いの紹介で安く入れたりとかしないのかな。あのジジイにはどっちもなさそうだけど。


―何かいい方法ないかな―


 ベッドに倒れ込み、すみれは天井を仰いだ。ため息は、タバコの煙のようには見分けがつかないけれど、部屋の中に充満していた。同居することになったら、引火して爆発してしまいそうだ。

 閉じっぱなしの窓を開けて換気しようと身体を起こすと、視界の片隅で何かが訴えるのを感じた。室内を巡らせた視線が捉えたのは本棚だった。並んだマンガの一番端に、本屋のカバーがかかったままの本がある。すみれは立ち上がり、手に取ってカバーをめくった。


『事件遺産 尊属殺人』


 早苗に借りた本だ。今の今まで完璧に忘れていた。返してなかったんだ。

 懐かしい写真を見付けた時のように、一遍に記憶がよみがえった。

 親とか祖父母とか、自分より上の身内を「尊属」と言って、昔の法律では尊属殺人は罪が重かった。そんなに大昔じゃなくて、結構最近まで残っていた法律。そういう説明とか、実際に起きた事件とかが書かれていた。見られたら気まずいからって、カバーをかけたんだ。引っ越しの時も梱包とかしたはずなのに、全然気づかなかった。


―このタイミングで見付けるって、わたしにやれってこと?―


 さすがに殺しはしないって。そんなことしたら私の人生終わりだから。あんなジジイにそこまで人生狂わされたくない。

 しかしスポンジで拭き取ったようにすぐにその笑みが消えた。

 本を棚に戻してスマートフォンを開き、さっき見た、早苗からの古いLINEをスクロールする。目当てのところで指を止めた。


【だから動画じゃないって。聞いたことない?殺人依頼サイト。偽物じゃなくてリアルだよ】


 下にURLが付いている。早苗が言うぐらいだから、多分本物。リアルな殺人依頼サイト。どんなサイトか、見てみるだけ。依頼したいわけじゃなくて、ただの好奇心。

 人差し指でURLをタッチ、しようとして止めた。

 3年前のだから、今どうなっているか分からないし、ウイルスに感染して個人情報抜き取られたり、架空請求されたりするかも。どっちにしてもまともなサイトじゃないんだから、触らない方がいい。


「お風呂沸かしてないから。シャワーにしてね」

 風呂を出た母の声が掛かった。


―さっさとシャワー浴びて、アイス食べよう―


 すみれは画面を切り替えてスマートフォンを閉じた。

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