第三章 ニーヴルコロシアム

其の壱・午前中

「じゃあ行ってきます!」

「はい、いってらっしゃい。くれぐれも予選開始の三十分前には会場に着いていてくださいね」

「分かりました!」


 八重さんとそんなやり取りをして僕は八重さんの部屋を出た。走りながら昨日撃たれた左肩を回してみる。不思議なことに朝起きて傷口を見てみると傷は完治しており、痛みなども一切ない。


 昨日のことを思い出す。

 不思議だ……、もしかして治療してくれたときに使用していたあの透明な液体……、あの『川の水』なのかな……?

 たしかにあの液体が傷口に染みた感覚は川の水のときと似ていた……。でもセントラルへ向かう馬車の中で『あの川の水はあの森の中にしか流れていない』って八重さんが言ってた……。

 あの紳士のお爺さん……、よくあんな貴重なものを持っていたな……。


 少し奇妙に思って考えてみるが結局分からない。


 まぁ、そんなことよりも僕は今日やることに集中しなきゃ。


 今日はリードさんが月ノ宮さんを看てくれているし、八重さんも仕事が終わり次第応援に来てくれるらしいし、午前中の間に急いで図書館に行って、おそらく月ノ宮さんが昏睡している原因であるあの化け物について調べて、それから三時前ぐらいになったらコロッセオに行って、受付をして、それから……。


 今日一日の流れを確認しながら、僕がこの病院で唯一使える出入口である裏口に向かって薄暗い廊下を

 歩く。


「うゎぷ」


 すると目の前の曲がり角から突然人影が出てきてぶつかってしまった。

 ほんのりと消毒液の匂いがする。顔を上げてみるとそこには白衣を着た伊能さんの姿があった。


「あっ」

「おや、武さんじゃないですか」

「あの……! 昨日は倒れた僕を運んでくれてありがとうございます」

「あぁあぁ、良いんですよ。そもそも私が遊びに行っていたからあんなことになってしまったわけですし……、むしろこちらが謝らないとですね。お恥ずかしい話、私現世に居たときから女遊びが辞められなくて……」


 照れ臭そうに頬を人差し指で掻きながら言う。


 伊能さん、真面目そうに見えるのになぁ……。なんか意外な一面を知った気分だ。


「それより肩の傷は大丈夫ですか?」

「あっ、はい。もうなんともないです」


 僕は肩を回して見せる。


「そうですか、それはよかった」


 伊能さんはその様子を見て安心したのかニコリと笑った。


 う~ん……。こう見たらやっぱりただの優しいお兄さんなのに……。こういうところに女性の方も近づいてくるんだろうな…………あれ?


 その時、伊能さんの白衣の袖からチラリと腕に巻かれている包帯が見えた。


「あの……?」

「ん? どうしました?」

「その右腕の包帯どうしたんですか……? 昨日、馬車に乗っていた時には無かったはずですけど……」

「あぁ、これですか」


 そういうと袖をまくって包帯が巻かれている右腕を見せてくれた。


「これは昨日飲んでるときに酔っぱらってつい酒瓶を落として割ってしまったんですよ。そのときの破片で少し切ってしまって……。まったく、本当にお恥ずかしいです……」


 アハハと軽く笑いながら伊能さんは教える。

 僕もそれにつられて軽く笑う。


 なんだ、僕を運んでくれた際に怪我でもさせてしまったのかと思った。

 でもこの様子だし、そこまで深い傷じゃないんだろう。よかった。


「そういえば、こんな朝早くからお出かけですか?」


 そう聞かれてハッとした。


「あっ、そうでした! 今日これから用事があって……、すいません失礼します!」

「なるほど、では行ってらっしゃい。怪我しないように気を付けてくださいね」


 おそらく怪我どころか大怪我をするんじゃないかなと思いつつも、僕は伊能さんに一礼して、小走りで裏口の方へ向かった。


 裏口のドアを開けるとそこから心地よい朝の光が差し込む。


 ……太陽なんて無いはずなのになぁ。

 上空を見上げても、たしかに太陽のような姿は一切見えない。巨大な根っこだけ。

 この光もどこから来ているんだろう……? あの根っこが光っているわけでもなさそうだし……。もし時間があったらこの世界についての本も探してみるか。


 鈍い音が鳴るドアを閉めながらそう心の中で決め、僕は図書館へ向かった。



 *******************



 図書館では既に例の司書さんが本を集めて待っていてくれた。

 しかも司書さんはわざわざ一つの個室を用意してくれていたらしい。


「……この部屋を使っていいんですか?」

「ああ、個室の方が誰にも邪魔されないで集中して読むことが出来るだろう? 帰るときや何かあったらまた司書室に来てくれ。はい、これは鍵」


 そう言ってこの部屋の鍵を手渡して司書さんはさっさと司書室へ帰っていった。


 部屋の中には集められた本が置かれている本棚と机、椅子、時計だけというなんとも殺風景な部屋だった。僕は目の前の大量に置かれている本を見て、そして壁に掛けられた時計を見る。


 今は8:45、三十分前には会場に着いておかないといけないし、ここから会場までの距離を考えても14:00ごろまでは読める……。


 意気込みのために軽く手と首を鳴らして本を前にした。


「よしっ! 読むぞ!」


 僕はそのまま床に座って目の前の棚から一冊手に取った。




 ――だが、現実というものは死後の世界でも残酷であった。


「これは違う……」


「この本は……ダメだ……」


「これには……! ……書かれていない」


「……これも」


「……これさっき読んだ奴だ」


「……次」



 何冊読んでも何冊読んでもそれらしい内容は見つからず、出るのは「人魂とは」や「妖怪について」といったような内容ばかりであの『人魂の形をした化け物』については一切書かれていない。


 時間だけが刻一刻と過ぎていき、すぐに12:00を迎えた。

 手に入った有益な情報と言えば、途中、休憩がてらに読んだこの世界についてのことが書かれていた本の内容ぐらいだ。


 例えば、今日も感じた朝日のような上空から発される光、あれはどうやらこの世界の上空そのものが光り輝いているらしい。

 ただ、実際に上空に行って調べた人がいたが、その後その人物は消息不明になってしまってそれ以降調査をしていないからまだ詳しくは分かっていないとのことだ。

 あと、この世界の地形も何となく分かった。


 ネノクニはセントラルを中心にして

 北側に雪山、

 南側に砂漠

 東側に海

 西側に森

 と広がっている。


 特に東に広がる海の周辺はネノクニの観光地として人気であり、そのため最近セントラルの東側が発展しているらしい。


 おそらく僕がいた森がこの『西側の森』と言うところだったのだろう。

 だが、一つだけ気になる記述があった。

 それが『ネノクニの果て』というのだ。


「雪山の先、砂漠の先、海の先、森の先、そこには『理想郷』と言われる場所があると聞く。その理想郷を求め、旅に出たものは幾千、幾万にも及ぶ。だが無限の理想を追って向かい、そこから帰還した者はいない」


「『理想郷』か……」


 僕は本を閉じて元の場所に戻した。


 すでに理想郷のような場所であるネノクニの中で別の『理想郷』という存在があると言われているなんて、なんか不思議な感じだな。


「……読むか」


 一息ついた僕はもう一度、あの化け物の正体を掴むべく次の本を手に取った。



 *******************



「あ……、もうこんな時間か……」


 時間が経つのは本当に速いもので時計はすでに14:00を指していた。

 結局、正体を掴めるような内容が書かれている本を見つけることはできなかった。

 でも今日だけで全体の四分の一は読み終えた。


「行くか……」


 僕は持っていた本をしまって、明かりを消して、鍵を閉めて、部屋を後にした。

 鍵は司書さんが預かってくれ、また読みたいときになったら鍵を借りに行けばいいらしいので司書さんに鍵を渡す。


「もういいのかい?」

「すいません、今日はこのあと用事があって……」

「なるほどね、じゃあまた来な」


 司書さんはそう言って鍵を預かり、そのまま退館手続きをしてくれた。


 外はもうとっくに明るくなっていた。

 まさにお昼のような心地よい天気だ。


 階段の上からは遠くにあるコロッセオが見える。


 僕はその方向を頼りに、昨日アレクサンドロスさんと通った道を思い出しながらコロッセオに向かった。

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