其の漆・癒しの川
日差しが出ている森の中は昨夜までの不気味さから一転、とても暖かく爽やかだった。
そんな森の中を、僕は侍さんに連れられてただひたすらに進んでいた。
背中には僕が昨日着ていた血の染みとところどころの破れが目立つ制服と、いまだ意識が戻っていない月ノ宮さんが着ていた巫女装束などが入れられた大きな籠を担いでいる。
あの話し合いの後、八重さんは
「セントラルにある病院に、ここまで患者を迎えに来るように連絡しますね。あなたはどうせすることも無く暇なようですし、洗濯物頼みます!やることはたくさんあるんですし!」
と言って洗濯物がパンパンに入れられた大きな籠を侍さんに渡した。
それに対し侍さんは露骨に嫌そうな顔をしていたが、八重さんのあの恐ろしい笑顔を見るとすぐに素直に洗濯に向かった。
のだが、なぜか僕も無理やり連れてこられてしまった。
てか、かなり重い。
これ絶対に怪我人が持っていい重さじゃない。侍さんは籠を押し付けてさっさと先に行ってしまうし、ほんとにこんなところに川なんてあるのだろうか……?
「あのー‼まだですかー‼」
「もう少しだ~‼頑張れよ~‼」
かなり奥の方から返事が返ってきた。あの人速すぎだろ……
だがたしかにもう少しな感じがする。よーく耳を澄ませると水が流れている音が聞こえる。
おそらく大きな川なのだろう。
僕は息切れしながら歩き続けた。
僕はどうしたいのか。
その問題はまだ解決していなかった。
たしかにまだ生きている以上、このネノクニに居ちゃだめだということは分かる。だから元の世界に戻らないといけないし、彼女も元の世界に戻さないといけない。
でも、もう戻りたくない。
あんな日常がない、この世界の方が居心地いい。
もしネノクニと元の世界の時間が同じなら、今頃みんな、僕のことを行方不明になったと思っているのだろうか……?
いや、
誰も、なんとも、全く持って何も思っていないに決まっている。
もし悲しんでいる人がいるなら、今日僕を殴ることが出来ないあいつらだけだろう。
戻らないといけないが戻りたくない
そんなジレンマがずっと頭の中で居座っていた。
「よし着いたぞ‼」
先の茂みの奥からそんな侍さんの声が聞こえた。
僕はハッとして少し進む足を速めた。
そうだ、とにかく今は今しないといけないことを考えよう。
まだ戻る方法が分かったわけでもないし。戻るかどうか考えるのはそのときだ。
そう思い僕は茂みを抜けた。
するとそこにはとても美しく澄んで、水面をキラキラと光輝いている渓流に出た。
「うわぁ……‼」
おもわず感嘆の息を漏らす。
死んだ後の世界に、こんな美しい場所があるなんて……。
スゴイ……。まだ世界には知らないことだらけだ。
「こっちだこっち!」
声のする方を見ると、そこには侍さんが茂みから少し下がった場所にある河原で手を振っている姿が見えた。
「今行きまーす!」
「滑らないように気を付けろよ!」
「はーい!」
少し足場は悪いが軽く跳ねながら降りていく。最後、つい勢いよく飛びすぎてしまい、着地の衝撃で右腕と両足がちょっと痛んだ。
「やあやあ、よくここまで来れたな!」
「そんなこと言うなら、この籠自分で持って行ってくださいよ」
「はっはっは‼いや、確かにそうだ!」
この人はいつも元気だ、まるで悩みなんて一つも持っていないようだ。
僕は背中に背負っていた籠を足元に降ろす。
「よし、では今から洗濯を始め……っとその前に、小僧、お主の右腕の調子はどんな感じだ?包帯を取って見てみろ」
「え?あ……はい」
選択開始の宣言をするのかと思いきや、侍さんは僕の腕のことを聞いてきた。
あの夜の状態から一度も見ていなかった右腕、あの傷をもう一度見るということに対して少し恐怖が現れる。恐る恐る包帯を解いていく。
まず目に見えたのは血の色で赤く染まった包帯だった。
この時点で少し嫌な予感がする。どんどん解いていくと中からは真っ赤に染まっており、まだ直視できないほど生々しい、えぐられたような傷が姿を現した。
「うわぁ……」
「どうだ?痛みは感じるか?」
「いえ、特に激しく動かさなかったら痛みは少ないですね」
「ふむ、なるほど……。どれどれ……」
「え?」
次の瞬間、侍さんは僕の傷を勢いよく突いてきた。
いや厳密にはそこまで勢いはない。だがその侍さんの手が傷口に触れた瞬間、腕に思いっきりナイフが刺さってきたような激痛が走った。
呻き声が出る。
さっきまで姿を隠していた痛みがいきなり姿を現したように、とてつもない痛みが体中を駆け巡った。
つい、膝をついてしまう。
「なんてこ…として…くれるんですか……!」
震え声で侍に聞く
「いやいや、つい気になってな。すまんすまん」
「すまん…じゃすま……ないレベル…の痛みですよ。こ…れは……!」
侍さんは依然として笑ったままだ。
前言撤回。八重さんはいい人だ。でもこの人はやばい人だ。
「まぁ、その状態では洗濯もできんだろ。拙者が代わりに洗濯をしておくからお主は川で腕を冷やしておけ」
「はい……分かりました……って、もともと洗濯は侍さんの役割じゃないですか⁉」
「さぁて、何のことかな~♪」
侍さんはそう言うと鼻歌を歌いながら籠を持ち上げ川岸に向かった。
おもわずため息が出る。
なんで侍さんはああもマイペースに生きられるのだろうか。まるで、僕とは正反対だ。僕はあんな風には絶対になれないなとおもいつつ、若干うらやましくも感じる。
……いや、あの人はもう死んでいるんだったな。
侍さんに言われるまま、僕は侍さんの川下側にしゃがみ指を川に浸けた。
あ、やっぱり冷たい。
一度手を引き、腕を入れることを躊躇した。水の冷たさを確認したうえで、今度はさっきよりもゆっくりと腕を入れていく。傷口に水が触れた瞬間、やはり傷に沁みたが少しずつ慣らしていったらどうということはない。
水の中はとても心地よく腕をしっかりと冷やしてくれる。まさに「森の水」って感じだ。川はさらさらと音を立てながら流れており、森の奥からは鳥の鳴き声もする。この自然の光もとても気持ちいい。
そういえば、こんなにしっかりと自然の中を見たのはいつぶりだろう?元の世界ではこんなにゆっくり出来たこともなかった。
なんだか新鮮な気持ちだ。
「どうだ?やはり気持ちいいだろう」
自然の世界に夢中になっていた僕に侍さんが聞いてきた。
「はい。なんていうか、まさに『自然の水』って感じがしますね」
侍さんの方を向いて返事をする。
そういえば侍さん、洗濯しているはずなのにやけに静かだな……ん?
「あの……?何やっているんですか?」
侍さんは川の方を見たまま答えた。
「ん?何って洗濯だが……」
「いやいや‼洗濯物を籠ごと川の中に放置していて自分は釣りをしているって!それのどこが洗濯ですか⁉てか、どこからその竹竿だしたんですか⁉」
「拾った」
「いや、拾ったじゃなくて!」
「それよりも腕の方はどうだ?」
侍さんは目線を変えずに聞いてくる。
はぁ……。またもやため息が出てしまう。
この人はどうしてこうも……
……あれ?
見間違いかと目をこすってからもう一度見てみる。
いや、見間違いじゃない。
僕はおそるおそる右腕を川の中から引き上げた。
「やっぱり……⁉どうしてだ……⁉」
その引き上げた腕は川の中に入れた時の面影が一切無く、自分がよく知るあのいつもの腕に戻っていた。
なんで?それに水の中に入れて十分も経っていないのに若干の傷跡が見えるもののほぼ傷が塞がっている。
軽く左手で傷口を突いてみるが、さっき侍さんにされたような痛みは一切ない。てか、痛み自体が全くない。
「なんで……?侍さん!これは⁉」
侍さんは目線を変えないため、傷が塞がったこの腕を見ていないのだが、まるでこうなることを知っていたかのように表情はニマニマと笑っていた。
「フッフッフようやく気付いたか……じゃあ説明しよう。この川の水は不思議な力が有るらしく『傷を癒す効果』があるらしい。まぁ、その理由や原理などは未だ分かっておらぬがな」
「『傷を癒す効果』……?」
「ああ。ほら、見てみろ」
侍さんはそう言うとおもいきり竹竿を振り上げた。糸の先には一尾の魚が針にかかっていた。
その魚を手に取って僕の前に持ってきた。
「ほら、この魚の口元をよく見てみろ。ここに針の刺さった跡が見えるだろ」
侍さんが指差すところをよく見てみると、たしかにそこには小さいが針の跡があった。
「……たしかにありますね」
「で、この魚をもう一度川の中に浸ける。するとだ……」
数十秒もしないで魚を引き上げ、もう一度僕の前に持ってきた。
すると、侍さんの手の中にはやはり、先ほどの針の跡がきれいさっぱり無くなっている綺麗な魚がいた。
「すごい……!」
僕はその様子にすっかり見入っていた。自分の手ほとんど完全に回復したし、この魚の傷もなくなっているし、驚きだとしか言えない。
……待てよ、『傷を癒す効果』って言っていたな……?じゃあこの川の水を使えば月ノ宮さんの痣や傷も……!
「もうすでにあの少女には使ったと、八重殿が言っておったぞ」
僕の事をニヤニヤとした目で見ながら言ってきた。
……もしかして顔に出てしまっていたか?
そう思うと少し照れ臭く感じた。
侍さんはその魚を
「昨夜、お主が持っておった薬と一緒に、拙者の家に保存していた川の水も使って八重殿が治療していたのだ。傷はすぐに塞がったのだが、痣はなぜか一向に消えず、意識も戻らない。だから、セントラルで一旦調べてもらおう。ということになったのだ」
「そうだったんですね……」
「まぁだからと言ってへこまなくてよい。『必ず治る』。直接的に何もできない者は、そう信じることこそが大切だ」
侍さんのその励ましが地味に僕を応援づけてくれている気がする。
自分はとにかく信じよう。僕にできるのはそれくらいしかない。
そう自分の心に言い聞かし僕は軽く頷いた。
「あれ?そういえば、そのとき僕には使ってなかったんですか?」
「ああ。使おうとはしたが保存していたのは少量だった故、傷が深い彼女の方に優先して使ったのだ。悪かったな」
「いえ、確かに僕よりも月ノ宮さんの傷の方が深そうでしたしね……」
「ところで小僧……腕はもう大丈夫だな?」
「えっ、まぁ、はい」
「じゃあ、拙者は釣りを続けるから残りの洗濯物を頼んだぞ‼」
侍はそう言うと川の中に浸けていた洗濯物を引き上げて僕の目の前に大きな音を立てて置くと、また黙々と無言で釣りを始めた。
「そんなー……」
「まぁまぁ、釣れたら昼飯にするからそう騒ぐな」
「いや、そういう問題じゃn
「お、今日は一段と綺麗に見えるな」
だめだ……この人まったく人の話を聞かない
「ほら小僧、上を見てみろ」
僕は渋々と顔を上げた。しかし目の前には対岸のお生い茂っている森しか見えない。
「何もないじゃないですか……」
「違う違う。もっと上だ」
「もっと上?」
侍さんが指さす方向に合わせて僕はもっと顔を上げた。
――息を飲んだ
「あれは……‼」
「そう。あれこそ、この世界が『ネノクニ』と呼ばれるようになった由縁だ」
僕の上空にある木々の隙間から、とても大きく、とても太い、巨大な根っこがまるでこの世界全体を覆うかのように空に在った。
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