七.
「『その事件は衆人環視の中で起こったものの、実際になにが起きたのかについての証言は証言者によって行き違い、なにひとつとして明らかになってはいない』……なに、これ」
あくる日は土曜日で、葉初が朝から私の部屋に来たので、私は彼女と少女ならざる少女に留守番をたのんで買い出しに出かけた。
もちろん、留守中に有事があったら「番」をしてくれるとは思えない二人組なのだけれど、まあ、そのときはそのときだ。
さて、ここからは完全に余談になるけれど、私はしばらく前からコスプレをしたりする人向けの帽子や小物を作って、それらを持って即売会に参加している。
スチームパンク風のものなんかが意外にウケる。
葉初とはじめて出会ったのも、そんな会場のひとつでだった。
最近は、常連さんからのオーダーメードを受けることもごくたまにあって、今日の買い出しはそのためだった。
もっとも、この話題はこの物語の本筋とはまったく関係なくて、関係あるとしたら、昨日、ふたりにアイスクリームをおごったせいで生活費がピンチになったところにやってきた、ありがたい依頼であった、という程度のものなので、このあたりで終わりにしておこう。
まあ、材料代と手間を考えると、別に利益はたいして出ないのだけど。
とにかく、その買い出しから私が帰ってくると、これ読んで、と、葉初がノートに書いた文章を渡してきた。それが、この文章だったのだ。
「『その事件は衆人環視の中で起こったものの、実際になにが起きたのかについての証言は証言者によって行き違い、なにひとつとして明らかになってはいない……』」
○
『丸太町橋近くの鴨川に、奇妙な生物が出没する。
そんな噂が広まったのは、今年の五月のことだった。
最初に見たのは観光客だったとも、早朝に散歩をしていた老人だったともいう。
他の川に現れて話題をさらったアザラシや、この川でよく見るヌートリアとはちがい、この生き物は、人間のような顔をしている、奇妙な短い手を持っている、いやいや、全身から藻のようなものが垂れさがっている。そんな、いくつもの目撃情報が流れ、いつしか、河原には見物人が集まるようになった。
特に、週末ともなれば、河川敷の道路から眺める人、堤防の上に陣取る人、橋の欄干ごしに見下ろす人、そんな人々で周囲は賑わった。
事件が起きたのは、噂が広がりはじめてから一ヶ月ほど経った、ある日曜日のことだった。
この日、朝は梅雨の晴れ間から陽がさして、週末ということもあり、昼すぎともなると、橋や堤防の上は人で鈴なりになった。
けれども、午後二時をまわったころ、にわかに空に雲が広がったかと思うと、雷鳴とともに雨が降りはじめ、見物人は蜘蛛の子を散らすように減っていった。
残ったのは、橋梁が河原の上を通過するところの下で雨を避けることができた、一部の人たちだけだった。
もっとも、一部の、といっても、両岸にそれぞれ二、三十人、あるいは、もしかすると、それよりも多くの人数が残っていたという。
雨は、なかなか止む気配をみせず、それどころか強さを増して、橋の下は白い壁に挟まれたようになった。
「あれを見ろっ」
右岸で誰かがそう叫んだのは、そのときだった。
雨宿りしていた人たち、全員の目が、川面に注がれた。
川の真ん中に立つ一本の橋脚。その周囲がすこしばかりの中洲のようになっているところの近くに、それは浮かんでいた。
一見すると、水面から突き出した黒い突起のように見えるそれは、しかし、よくよく見れば長い黒髪を垂らした人間の頭のようでもあり、しかも、川の水の上下とは異なる、自らの周期で浮いたり沈んだりしているようだった。
息を飲む人びとの目前で、その物体はいちど水中に消え、それからふたたび浮かびあがった。
このとき、ざわつく見物人をかきわけて、若者たちのグループが、この異形なるものの正体を見きわめようと水に入っていったのだという者もいる。
あるいは、その若者たちは、その時点から、操られたかのように、ふらふらと川に接近していったのだ、という者もいる。
いずれにせよ、腰のあたりまで水に浸かりながら川を渡っていった若者たちの一団は、橋脚に近づくと、突然、なにかと争いだした。
水しぶきが上がり、数人が倒れて水面の下に沈んだ。
それを見て、さらに何人かが、岸から川に足を踏み入れた。
けれども、戦いは唐突に終わった。
川に入っていた者たちが、突然、流れの中で直立したまま動かなくなったのである。
そして、おもむろに、川の中央に向かって、川が最も深く、流れも早くなっている場所へ向かって、全員そろって歩き出したのだ。
彼ら、彼女らの中には、岸に恐怖した顔を向け、助けを叫びながらも、歩みを止めずに水中に没していった者もいた、と証言する者もいる。
だが、どちらにしても、岸にいた者たちも、その異様な光景を目のあたりにしながら、警告の声も上げず、引き止めようと動くこともできず、若者たちがひとり、またひとり、と流れに巻きこまれるのを見ているだけだったのだ。
「催眠術にかかったようだった」
その場にいたひとりは、後にそう回想したともいわれている。
これが、あまりの奇妙さから、報道で取り上げられることもなく闇に葬り去られた、
○
「……こんな事件、あったっけ」
特徴のある、丸っこい葉初の手書き文字で埋められたノートのページを読み終えた私の、最初の感想はそれだった。
「あれへんよ」
葉初の答えは、あっさりとしたものだった。
「じゃあ、これはなに?」
「マルちゃんの、エピソード」
「エピソード?」
「うん。履歴書に、そういう欄があってん」
履歴書、というのは、女の子じゃない女の子がオーディションに出場するときに、持っていって提出しなければならない書類のひとつに指定されているものだった。
「履歴書のエピソードだったら、実際にあったことを書かないといけないんじゃ……」
「でも、それだとなにもあれへんねんもん」
「それにさ、この、催眠術にかける、みたいなことは、できることなの?」
私の質問に、名前はマルちゃんではないマルちゃんと葉初は、ふたり同時に首を横に振って答えた。
「ちょっと試してみたけど、まったくできそうになかったで」
「はい、そうなんです……」
「いいの? そんなこと書いて」
「誤魔化しきれれば、なんとかなるんちゃう? それか、練習中なんです、って言うたら」
「そ、それはどうなんだろう……」
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