六.

「ねえ、ちょっと、これを試してみない?」

 その日の午後のことである。

 私が読んでいた本から顔を上げて言うと、彼女も、なんですか? というふうにこちらを見た。

「『バカめ、ウォーレンは死んだわ』って、言ってみて。なるべく低い声でね」

「『ばかめ、うぉーれんは死んだわ』、ですか?」

「そうそう。低い声でね」

 彼女は数回、咳払いをすると、ふだんの話し声よりは格段に低い声で、おなじ台詞をくりかえした。

「うーん、もうちょっと太い声にならない?」

「こ、こうですか?」

「もっと、もっと」

「ばかめ、うぉーれんは、死んだわ!」

 その声は、地の底から響く、というほどではなかったけれど、アパートの壁と窓をすこし震わせる程度には低音だった。

「おお、わりといい線いってるかも」

「……それで、これでなにをするんですか?」

「こんどは、『バカめ、曽爾谷ミドリは死んだわ』って言ってみて」

「み、ミドリさんは死んでないですし、死なないですよ」

「う、うん、それはそうだけど、練習だから」

「じ、じゃあ、『ばかめぇ、曽爾谷ミドリはぁ、死んだわ』」

「ふむ」

 電話ごしに、どれくらい低音が響くかはわからなかったけれど、とりあえず、これなら気のちいさい人がいきなり聞いたら、受話器を放り出して逃げ出す程度には気味が悪いんじゃないだろうか、と私は思った。

 あとは、実践してみるだけだ。

「じゃあね、次に、私のスマホに誰かから電話がかかってきたら、それで出てみて」

「え、誰でもいいんですか」

「うん。これも修行だよ」

「は、はい」

 ところが、そういうときに限って、というべきか、あくまでも普段どおりに、というべきか、電話が鳴ることはしばらくなかった。

 どうせ、私には電話をかけてくるような友達なんていないよ。別な方法を考えないといけないか……。

 数時間が経って、私がやさぐれはじめたころになって、ようやく、テーブルの上に置いたスマートフォンが、ぶーん、ぶーん、と振動した。

「ほら、かかってきた。出て、出て」

「ほ、本当にいいんですか?」

「なにごとも、試してみないと」

「は、はい」

 女の子にあらざる女の子は、私から電話を受け取ると、息をすう、っと吸って、それからマイクに向けて咆哮した。

「ばかめぇ、曽爾谷ミドリは、死んだわ!」

「待った、待った、着信ボタン押してからだって」

「あっ」

「ほら、もう一回」

「ばかめ、曽爾谷ミドリはぁ、死んだわ!!」

 電話口の相手は、えっ、とひとこと言ったきり、言葉を失ったようだった。

 これは、うまくいったのではないだろうか。

 といっても、いまの声、葉初だったと思うけど。

「あの、こんなのでよかったんでしょうか」

 切った、というより、相手方から一方的に切られた電話を私に返しながら、彼女は言った。

「うん、なかなか不気味だったよ」

「そうですか? ありがとうございます」

 もうすこしトレーニングをして、もうすこし大きく太い声で出せるようになったら、これはかなり効果的になるんじゃないだろうか。

 だけど、この一芸――いや、「芸」と呼んでいいのかはわからないけど――は、それから五分とたたないうちに、お蔵入りになることになってしまった。

 と、いうのも――。

 ――電話を切ってから、五分足らずの後。

 玄関のドアが乱暴にノックされて、私と女の子ではない女の子は顔を見あわせた。

 その間にもノックが止まらないので、私は様子を見にいくことにした。

 ドアスコープからのぞくと、ドアの向こう側に立って、狂乱したかのように扉を叩きつづけているのは、ほかならぬ葉初だった。

 なにごとだろう。

 私がロックとドアチェーンをはずしてドアを開けると、葉初は、まだ完全に開ききらぬうちに飛び込んできて、私の腰のあたりにしがみついた。

 勢いで、私は葉初もろとも、玄関の床に尻もちをついた。

「よかった、おねえちゃん、無事やった。よかった……」

 無理やり搾り出したような声でそれだけ言うと、葉初はこんどは私の胸に抱きついて、うわあああ、と声をはりあげて泣き出した。

 そういえば、知り合ったばっかりのころは「おねえちゃん」って呼ばれていたなあ。私は、ぼんやりとそんなことを思い出した。

「無事に決まってるじゃない。どうしたの」

「だって、だって、電話で……」

 そう言いながら、ひくっ、ひくっ、としゃくりあげ、鼻水をすする。

「ああ、あれは」

 と私は答える。

「マルちゃんだよ、あれ。そんなに効くとは思わなかった」

「バカっ」

「いたっ」

「バカ、アホ、おねえちゃんの大アホっ。おねえちゃんが死んだら、葉初も死ぬ言うたやんかっ」

 葉初は泣きながら、私の胸に、何度も何度も頭をぶつけてきた。

 ああ、そうか。私は反省する。

 家族にも学校の友だちにも、趣味をわかってくれるひとがいない、というのは、何回も葉初から聞いていたし、私は彼女の「人生最大のピンチ」のときに手をさしのべた恩人ということにもなっている――ちなみに、この葉初の「人生最大のピンチ」というのは、印刷屋さんに持っていく途中の新刊の原稿をなくしたことである。

 それに、いっしょに即売会に出かけたりもして、それなりに濃厚な時間はすごしていた。

 だけど、それが葉初にとって、そこまで「重い」関係であったのだということに、私は気がついていなかったらしい。

 だって、ふだんの私に対する態度には、そんなことおくびにも出さないじゃないか……。

「葉初……」

「ごめんなさいぃっ」

 しんみりとした私が葉初の髪を撫でてやろうとしたとき、横から突然、女の子とは言い難い女の子が葉初に飛びついた。

「私が、私がウソついたのがいけないんです。ごめんなさい。あれは……あれは、『ウォーレンウォーレン詐欺』なんですぅ」

 そこまで言うと、彼女もまた、感情がたかぶってしまったのか、声をたてて泣きはじめた。

「ああもう! 私が悪かったよ。ヘンなことをさせた、私が悪かったってば」

 私は片方の手で葉初の背中をさすり、もう片方で女の子じゃない女の子の頭を撫でた。

「ほら、みんなでアイスクリーム買いにいこ。だから、泣きやんで」

 子どもだましのようだけれど、葉初にはこれがいちばんよく効くはずだった。

 実際、その言葉は効いた。むしろ、効きすぎたかもしれない。

「ほんま? ほな、『マックスフィールズ』の季節のアイスがええな」

 私の胸にうずめていた顔――まだ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていたけれど――を上げて、葉初はそう言った。

「えっ。高いじゃん。コンビニのアイスじゃダメ? そろそろ生活費がキツいんだけど……」

 葉初は、ぶんぶん、と首を強く横に振った。

「あかん」

 私はため息をついた。やれやれ……。

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