エピローグ
記憶のズレを生むことになった当時のあたしは、確か小学二年生だった。
あたしにはもともと父親がいなかった。もともとと言っても自我が芽生えた頃からのもともとで、その前は一緒に暮らしていたのかもしれない。覚えていないほど、もともとだった。
今となってはその代わりに血の繋がりがない人があたしの父親になっている。
こういう言い方をすると他人行儀な上、冷徹なあたしがいる気がして嫌なんだけど、反面、そう思うことへの抵抗というのもあまりなかった。それはきっと、どちらとも取れる明確な理由があたしのなかにあって、今の父もそのことをわかってくれているからなんだと思う。あたしたち親子は意外にもいい関係なのかもしれない。
母が再婚の話をし始めたは、今の父と初めて会った日から月日が経って、頻繁に会うようになってからだった。
母は母なりにあたしのことを考え、ゆっくり、けれど着実に話を前に進めてくれていた。だから、あたしとしても同じ家で暮らすことはすんなり受け入れることができたし、向こうにも子どもがいることを知っていたので少なからず安心していた。
たまに一緒に遊んだこともあったから。
けれど、それは感覚的な、触れることのできる一部として理解していたもので、頭のなかでは闇鍋よりも闇っぽい何かが、ごちゃ混ぜになって煮えていた。
たとえば、シルクのハンカチを触ると柔らかい。けど、素材のことは詳しく知らないし、どんな工程を経てその形になったのかなんて、工場見学にでも行かなければわからない。知らないことを頭で考えたって知らないに行きつくように、あたしの頭のなかは表面上のものばかりで、まとまるための情報が少なすぎた。
混乱して家を飛び出したのは、あちらが自宅へ来る数分前だったと思う。
いや、飛び出したと言うより、抜け出したと言った方がしっくりくるほど、こっそりとした動きだったかもしれない。
母にばれたくなかった。
理解していたはずの新しい家族のことを、闇などとたとえていた自分のことを。
色んなことを面倒くさいと思うようになったのも、たぶんその頃だ。
何の考えもなしに行きついたのは、あの公園だった。
中には入らず、あたしは手前のイチョウの木の裏側で丸くなって座ってた。あの頃の公園は今ほど手入れをされていなくて、膝丈の雑草がイチョウの周り生い茂っていた。イチョウの木の下だけ、なぜか地面が踏み固められたようになってて、そこだけが誰にも見つからずにいられる、唯一の場所だった。
ぼうっと顔を上へ向けて見たイチョウの葉は緑色をしていたから、まだ秋ではなかったんだろう。幹に頭頂部を押しつけて痛かったのを今思い出した。
そのままの体勢で考えた。本音というものを。それは口に出しづらい。
どれほど近い関係であっても、言っていいことと悪いことがある。物事には、価値というものがあることを、幼心に気づかされた瞬間でもあった。
頭の中に本音が現れると、その価値についてまた考えて、結局口には出せないから呑み込んで。じゃあ、もともと考えなくてもいいじゃないかと言った内面のあたしが、あたしに面倒くさいを作らせた。
そんな折だった。くるみという救世主の登場は。
物思いに耽っていたあたしは、近くに来るまで彼女に気がつかなかった。ガサガサという雑草を踏み荒らす音が聞こえた時には、くるみは既にそこにいた。
あたしの身体のどこかから、ポツンと音が鳴った。気がした。
何かを話したのか、話さなかったのかは覚えていない。
何かを渡された記憶もなかったけれど、後日聞けばくるみ曰く、その時確かに『何か』を渡した、そうだ。
そのすぐ後には、イチョウの木の下にくるみはいなくなっていた。
いなくなったと思ったら、また違う人物が現れた。
その人物が、あの日から同居することになっていた新しい家族であることは言うまでもなく。
姉はあたしに黄金色でベタベタした粒を渡してきた。あたしの近くにいる人は、やたらと何かを渡したくなるらしい。知らないけれど。
その粒こそが甘いあたしたちの思い出、ハニーキャラメル。
噛んだ瞬間、しつこい甘さが口いっぱいに広がったことを、今のあたしは鮮明に思い返すことができる。焼けて溶けてしまいそうな、甘いがいっぱいになったあたしが、笑顔いっぱいになったことも――。
あたしは自室のクローゼットを開けた。
下の段にある、プラスチックでできた棚を一つずつ開けて、昔使っていた小さなショルダーバッグを探す。
あるかもしれなかった。くるみから貰った『何か』が。
「あっ、」
一番下の棚の奥に、泥で汚したのか、チョコアイスでも落としたのか、薄く茶色のシミが残るショルダーバッグを見つけた。
買ったばかりは真っ白で、素朴だったそれを手に取り、確認する。
今のあたしには使えないサイズ感だった。……そうじゃなくて。
バッグのチャックを開けて中を覗いてみる。
当時使っていたファンシーな小物が無造作に積み重なっている中に、ひとつだけ、やけに保存状態がいい『何か』を見つけた。
カバンを置き、それを手に取ってしばし見つめる。見つめていたら何かが蘇ってくるか、どこからともなく誰かの声でも聞こえてくるかと期待したけれど、そんなはずあるわけない。
あたしは床に仰向けにごろんとなった。
「覚えてねぇ……」
これだけが思い出せない。きっとこれなんじゃないかと思うのに、腹に落ちない。
うーん、と悩んで、悩んで悩んで、そこであきらめた。
答えが出ない事の法則を、幼かった頃のあたしは知っていたから。
あたしはそれを握ったまま身体を起こした。ショルダーバッグだけ棚にしまい、それを勉強机に置く。
電灯の光を反射するそれを上から眺めて思いついた。
「直接聞けばいっか」
くるみに。
コンコン、とドアをノックする音が部屋に響いた。直後に声が聞こえてくる。
「スズちゃん一緒にお風呂入ろー」
妹の声だった。すぐさまドアを開ける母よりはしっかり者の。
はいはい、と言いながらドアを開けると、目線の変わらない妹の顔が目の前にある。
はて、思春期真っ只中の女子二人が、一緒に風呂に入ることは普通のことなのだろうか。
ちょっと考えて違和感を覚えたから思考をそこでストップする。
まあでも、たまにはいいかもしれない。義姉妹にそういうスキンシップがあっても。
「んー、わかった。先に行ってて。支度するから」
「ほんと? よかったぁ」
妹の表情は安堵で緩んでいた。嬉しそうに階段を下りていく。その後ろ姿に姉の気配を感じ取ったのは、やはり彼女たちが本当の姉妹だからなのだろう。
「よしよし。それじゃああたしはパジャマを出してーっと」
振り向きながら、机のそれを一瞥する。
金粉を振りまかれたようにキラキラしたそれは、外国のなんとかっていう蝶よりもずっと綺麗だった。
そんな、日常に付け加えられたちょっとした特別。
あたしはそういうものを見て生きていきたい。無理に干渉することなく。
「……くるみにわかるかな……」
同じ意味で、違う対象への疑りをぽつりと呟く。
彼女には、灯台下暗し、という諺をまず覚えてもらおうか。
頬が緩むのを感じながら、あたしは妹の待つ風呂場へと向かった。
イチョウとハニーキャラメル ゆお @hdosje8_1
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