第5話

 あたしはくるみに舵を取られるばかりだった。何度か名前を呼んだけれど、一度も反応はない。


 連れられて、体育館に続く渡り廊下に出たところで、あたしは無理矢理足を止めた。


「おい、痛い」


 腕を勢いよく振ると、くるみの手は簡単に外すことができた。握られていた腕の一部に、じわっという冷たさが回り広がる感覚がある。その腕を擦りながら、くるみを見据えた。俯いた横顔はわかりやすく曇天だった。


 ため息をつきそうになるところを必死で抑え、視線を雨空へ向けてみる。秋の雨降りは冷え冷えとしていて、長袖のインナー越しに冬の足音が聞こえてきそうだ。


「……どうしたの」


 湿気た風によく似た自分の声を耳に聞く。こういう時こそ感情というものを抑えたい。意識せずともあたしにはそれができる。そんな自負めいたものが、あたしの心を落ち着かせる。


 今にも鼻先から雫が落ちていきそうなくるみの瞳が、あたしの姿を捉えていた。朱赤の激情は、彼女の顔には見られない。その代わりに、いつもの、ネガティブな紫色に近いくるみが、しょぼくれた犬のように力なくその場に佇んでいるだけだった。


「へぇぁ……」


 思わず漏らしたため息は、ひぃ、でなかっただけマシかもしれなかった。


「忙しいね、あんたの表情は」


 心も。


 言葉をあたしの内心に留める。なんとなく声にはしてはいけないと思ったから。


「だって……、すずきが、困ってたから」

「なにそれ」


 本当になにそれだ。よくわからない。あたしが困っていると、くるみは表情をころころ変化させる変わった特性でもあるのか。


 疑問符を浮かべていると、くるみはじぃっとあたしを見つめて、大口で言ってくる。


「おかしいじゃん! 人が嫌がってることを気にせずにやるなんて。あれ見てたらなんか知らないけど、ムカムカしたんだもん!」


 あぁ、と納得する。無言であたしをここまで引っ張ってきたのは、教室からあたしを逃がしたかったということか。

 思いついたらなんとやらな、くるみっぽい行動だった。


「すずきだってなんか言えばよかったんだよ」

「なんかって……」


 まあそうなんだろうけど、あたしにはあの状況で文句一つ言うことはできそうになかった。実際、か細い声で困惑を示すことしかできなかったわけだし。流れに身を任せて、隙ができたら飄々とその場から静かに離れる。抗うことに意味を見出せない、あたしらしい逃避法。


 けれど、くるみは違う。昔からこいつはなにかと問題を引っ提げてあたしのもとへやってくる。気になったものを全部手に取ってしまう質なのだ。そこに逃避の文字はない。


 そういえばあの日も――。


 振り返った過去の記憶の中で、くるみがあたしの隣に寄り添う姿を見た。あの公園の、あのイチョウの木の下で、彼女は何も言わずにあたしの隣に座っている。


 甘い味の思い出。


 何光年も離れた星と星が線で繋がるような、衝撃的な感覚があたしの脳内を満たしていた。確かあの日は、今のあたしとくるみの立場が逆転していて、それで――。


「ねぇ、くるみ」


 疑問が正直者となって声として出てくる。先週の今日、くるみに訊こうと思って忘れかけていたこと。


 小首をかしげたくるみが、あたしを見つめてくる。


「あんたあたしに、キャラメル渡したことあったよね?」

「は? キャラメル? なにいきなり」


 さすがに脈絡がなさすぎた。これでは常のくるみとまるで変わらない。

 順序を考えて詳しく説明するのは少し面倒くさいと思ったけれど、言ってしまったことを今更取り消すのもまた説明が面倒くさそうで、忘れかけていた記憶の糸をたぐる。拙い言葉が出てきて、ヘンテコな説明をしてみる。少し時間はかかったけれど、くるみはなんのことなのか理解できたようだった。


「えっと、あれは私がすずきに貰ったんだよ」

「え? あたしがあげたってこと?」

「うん。だから私は貰った側。確かお姉ちゃんに教えてもらったとかって言ってたかな。……けど、それが今なんの関係があるっていうのさ。先にもっと言うことがあると思うんだけど」

「先に?」


 くるみの咎めるような口調で我に返り、耽っていた思考を取り払う。

 そういえば助けてもらった後だった。それなら先に言うことがあると怒られるのも自然だ。くるみは時に正しくなる。けれど、話の流れから自然に出るのは気にならないけど、改めて言うとなるとなぜか抵抗があった。苦虫を噛み潰すとこんな感じになるのだろうか。


「えっと……、まあ、その、ありがとう」


 自然と目が逸れてしまう。言い淀んでしまったところを噛みつかれるかなと思ったけれど、意外にも簡単にくるみの機嫌は直ったようだった。


「お、すずきからありがとうなんて初めて聞いたかも」

「そんなことはない」


 はず。てか、言わせておいてなんて言い様だ。


 ケラケラ笑っているくるみを横目に、さっきの証言を思い出す。


 くるみが言うには、キャラメルはあたしが送ったらしい。そして、姉から教えてもらったという理由から察するに、あたしを悩ませていた甘い味の思い出というものは姉から渡されたもののようだ。とすると先週買い物に行った時に姉が言ったことが真実で、では、くるみから渡された記憶の正体はいったいなんだというのだろう。

 未だに記憶のズレがあることを認識する。せっかくだからこの際、すべてを綺麗に思い出したいという気持ちになってくる。


 早速訊いてみようと顔を上げると、なぜかまた、くるみの表情が曇っていた。


 えぇまたか、と息を吐きつつそちらを優先しなくてはいけない気になる。こんな短い間になにを考えていたのか、この働き者の脳みそは。


「ねぇ、すずき……。私、どうしたらいいと思う?」

「なにを?」


 反問しながら肩を落とす。こういう時こそ考えるよりも先に行動に移すことはできないのか。そうなったらくるみがくるみでない気もするけれど。


「みんなにあんな態度とっちゃったから」

「あぁ……」


 くるみは、今度はクラスメイトのことを思い煩っているようだった。それもそのはずだ。傍から見ればかなり空気の読めない人間という印象になってしまう。あたしですらそう思う。

 とりあえず適当なことを言って慰めてから、勝手に彼女が元に戻るのを待つしかなさそうだ。あたしには特別な助言とか、そういうものを与えてあげる能力はない。刺草之臣の一束にも足らない存在であるから。


 さっきクラスメイトに渡された蜂蜜キャラメルとやらを、エプロンのポケットから取り出す。プラスチックケースの中でドロッと揺れる蜂蜜に絡まったキャラメルは、あまり見た目もよくないなと改めて思う。これを思い出の味だと記憶していたあたしは、妙な人間なのかもしれない。姉もしかり。


 蜂蜜が垂れないように蓋を開けてくるみに差し出した。


「ほら」

「……え? なにそれ?」


 得体の知れないものを見るような警戒心が、くるみの目の水膜に張りついている。


「なにって、あんたがクラス出し物で考案したんでしょうが。蜂蜜キャラメル」

「ああ、ハニーキャラメル」

「ハニー? 蜂蜜じゃなくて?」

「確か、すずきのお姉さんはそう言ってたよ。どっかで間違ってみんなに伝わったんだね」


 えへへ、と不器用な照れ笑いを横目に、あたしはケースを突き出してキャラメルを食べるように促す。

 くるみは若干迷いつつ、素手で一つ持っていった。

 口の中に放るのを見届けて、あたしもひとつ口に含む。舌にのせた瞬間、蜂蜜の独特の甘味が口いっぱいに広がり、まったくキャラメルの情報が味覚として脳に届いてこない。

 歯の裏とか、喉の奥とか、心の底とかにべっとりと張りつくその感触は、やっぱりちょっと不快だった。


「よくこんなの食べれてたな、昔のあたしは……」

「え? 結構いけると思うけど?」

「あんたとは味覚の成長の仕方が違うんだよ」

「大人になったから?」

「……大人になったから」


 大人かどうかはたぶん、気持ちの問題だろう。いくら法律で決まっていようがあたしはそう主張したい。ただの背伸びくらいに思ってもらっても構わないから。


 隣では、キャラメルを食べ終えたくるみが、嬉しそうに微笑んでいる。

 いつも通りのくるみに戻っていた。

 なんというか、本当に能天気も程々にしておいてほしいものだった。

 呆れる気持ちはもちろんある。けれどと思って、笑うくるみをあたしは見つめた。

 こいつには笑顔が似合う。そう思うのだ。

 絶対に言わないけれど。


「あんたもちゃんと大人っぽい振る舞いしなよ」

「なにを?」

「みんなに謝れそうですか、ってこと」

「……うん。大丈夫そう。私ならいける!」


 ぎゅっと拳を胸元で握りしめて、くるみはそう言った。ここまで単純な性格なら、長所として誇っていいと思う。


「そ。じゃ、帰ろうか」

「待って、すずき」


 踵を返したところで、くるみが呼び止める。

 咄嗟に振り向いたあたしの身体に、彼女は勢いよく飛び込んできた。瞬時に衝撃が走って目が白黒しそうになる。

 くるみはハグをしてきた。

 態勢を立て直して見下ろすと、ぼんやりと色の抜けたくるみの髪だけが見える。わずかに跳ねる髪の毛一本一本に意思でもあるのか、四方八方ばらばらな方向に半円を描いて跳ねていた。

 頬骨が鎖骨に押し込まれて痛い。ぎゅっと押さえつけられたあばら圧迫されて、少し息苦しかった。


 あたしはどうしようもなく、ただ茫然と時が過ぎ去るのを待った。数秒後、くるみが身体を離す。ふわふわと悠然とした動きで、くるみは目の前で直立した。そして敬礼をすると、


「行ってきます!」


 とにこやかに告げるのだった。


 くるみの無理矢理下げた低音の声が雨空に吸い込まれ、後を引く雨音が耳に去来する。

 何事もなかったようなくるみの満面の笑みだけが、あたしの心に強く印象づいていた。

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