第4話


    文化祭当日


 不穏な足音が、着々とあたしのもとへ近づいてきていた。


 窓越しに雨の音を聴き、湿気た肌寒さが肌に張りつく廊下の中央で、あたしはサボリに興じていた。


 今は閉鎖されている校舎最上階のこの廊下には、当然のことながらあたし以外人っ子一人おらず、寂寞とした空気は少し埃っぽく感じる。

 灰色の窓にうっすら映る冴えない自分の顔を見つめるのも嫌で、焦点はぼんやりと遠くの街並みに移動した。


 今日は文化祭本祭にあたる日曜日。校内が一般公開され、いつもは三百人ちょっとが生活している空間も、近所の住民や生徒の知り合いが集まって、校舎は活気づいていた。それぞれの出し物に、生徒たちは大わらわでお客様の対応をしているだろうそのなかで、面倒くさいが先行したあたしは、何かに追われるようにここまで逃げてきていた。

 とくに役職を振り分けられたわけではないし、元々文化祭自体に参加するつもりはなかったものの、昨日になって姉と妹が遊びに行くと言い出し、部外者は参加するのに関係者は見て見ぬふりというのも、あたしにも多少ある良心が許さず、行くだけ行って姉妹が来たら適当にあしらおうと思って、厭々登校してきていた。


「はぁ……」


 深いため息をつくと、窓ガラスが白く曇った。


 文化祭は憂鬱だ。というか、特別なことなら大体が憂鬱となる。


 あたしは関わらないから勝手にやっていてくれればいいのに、という不平を吐露しつつ、ありきたりを探して見つけたのが、この廊下だった。

 ここに繋がる階段は、下の階で机や椅子などで封鎖されていて、上ってくる人は疎か人の気配すらしない。これでタバコでも吸っていたら、とうとう不良と化してしまうんだろうなとありえない未来を想像していると、あろうことか、階段の方から女子の声が聞こえてきた。

 どうもこの階まで上がってくるような会話の内容が、細々とあたしの耳に届く。

 隠れようか、気づかないふりをしようかと迷っている内に、角から女子生徒二人が顔を出した。


「あっ……」


 とあたしを見た瞬間に目が点になった彼女たちは、お互い顔を見合わせると、意を決したように声をかけてきた。


「スズキさん、ここにいたんだね、え」


 語尾が跳ねる。直後に恐怖心がべったりと二人の顔に張りついた気がした。見るからにあたしを恐れているようだった。怖がられる心当たりがまったくない。呼び方にかなり不満はあったけれど、表情の変化に乏しいと以前くるみに言われたことがあるから、たぶん不満は出ていない。……スズキさんって言い方、もう鈴木さんにしか聞こえないんだけど。


 無理矢理繕ったぎこちない笑みを浮かべる二人が面白くて、あたしは少し見たあと、視線を窓の外に逸らした。相変わらず雨が凄いですネー、と今回が最後の文化祭になる最上級生たちを憐れみながら、そっと感情を押し殺した。


「で……、なにか用?」


 外を降る雨ほど冷たい口調ではなかったと思う。

 数秒間を置いて、二人組の一方がおそるおそる口を開いた。


「あの、スズキさんにお願いがあって来ました」


 同級生のはずなのになぜ敬語なのか。はずでもないか。あたしは一年生だ。敬語を使われる立場ではない。


「お願い?」

「はい。うちの、クラス……。スズキさんのクラスでもあるんだけど。役職に欠員が出てしまいまして、それで、スズキさんに代わって入ってもらえないかなー、と……」


 変な言い回しをする子だなと思って考える。どうやら出し物の人手が足りなくなってしまったようだ。欠席した生徒なんていたかなと思い、朝の教室を思い出してみても誰が誰なのかさっぱりわからなくて途中であきらめた。


「あの、ホント無理なお願いってことはわかってるんです。なので断ってもらってもいいんですが」

「ちょっと、それはダメなんじゃない」


 と隣で今まで無口だったもう一人の女子が小さな声で間髪いれずに言った。相当切羽詰まった印象だった。それも当然か、とあたしに声をかけてきただけはあるかもしれないと納得する。


 どうしようか。確かうちのクラスはなにかを売り出すとかくるみが言ってたっけ。


「えっと、お願いって具体的には?」


 訊くと、率先して話していた方の女子があわてて答える。


「あっ、その、店番というか客引きというか接客というか」


 接客かぁ。かなり悩ましいお願いだった。基本的に人と話さないし、クラス内でさえ仲がいいといえるのはくるみくらいだ。あたしには向いていないなと思う。


 しばし考えていると、行きつくところには行きついた。答えの理由に、二人の姉妹の顔が浮かび上がってくる。正午過ぎには家を出ると言っていたし、いつかは下のフロアに降りなくてはならない。サボリの時間が短くなって面倒くさいことを押しつけられるのは嫌だけど、同じクラスで助け合わないのも後々良心の呵責に苛まれそうだったので、抵抗はあったけれどあたしは承諾の意味を持ってうなずいた。


「わかった。けど、あんまりうまくはできないかもしれないけど……」


 あたしからいい返事を貰えたことが意外だったのか嬉しかったのか、二人は目を丸くしたあと、お互いの手を絡ませて大仰に喜び合っていた。

 ちょっとうるさいな、と思って視線を逸らしたその先に、まだ雨は降り続けていた。




 教室に戻ったあたしは、目を白黒させているクラスメイトたちに迎え入れられ、早々に着替えさせられていた。着替えといっても、文化祭のためにわざわざ作られたクラスティーシャツなるものの上に、エプロンをつけさせられるだけだ。

 そんな仰々しいものでもないのに、至る所からあたしに関係するヒソヒソ声が聞こえてくる。教室の片隅では、あたしを連行することに成功した女子二人が絶えず喜び、周りでは喝采が沸き起こっていた。


 呆れつつ、エプロンを着終えたあたしは、同じエプロンを身につけた生徒たちの方へ歩み寄る。流し見て、他の生徒たちも同じ黒色のエプロンを着用していることに気がついた。一応決まりみたいなものがあるようだ。


 あたしに気がついて、中でも背の高めの女子生徒が、半分警戒しつつこちらをじろじろ見てくる。あまりにも見つめられている時間が長くて、エプロンの着方を間違えたのかと目を落とすと、頭の先の方から声がした。


「うん。似合ってるね。これはスゴい」


 顔を上げると、その背の高めの女子が腰に手を当てて満足げにうなずいていた。ただエプロンをつけたくらいで、似合うもなにもない気がするけど。


 どうも、と控えめにあいさつすると、思い出したかのように彼女の腕が動き出した。


「はい、これ」

「……どうも」


 繰り返してしまった返事に首をひねりつつ、あたしは差し出された手のひら大のプラスチックケースを受け取った。

 なんだろこれ、とよく観察してみると、中には透き通った黄金色の液体と、同系色の個体が入っているようだった。


「それはうちのクラスの出し物の売り物。確か蜂蜜キャラメル? って、原さんが言ってたかな」


 蜂蜜キャラメル? なんだその混沌とした名前と単純で頭の悪そうな組み合わせは。

 あたしは原さんとやらにきつめのツッコミを入れておいた。知っている奴だから罪悪感はない。


 興味はないけれど、クラスの空気にも馴染めないし、てきとーにその蜂蜜キャラメルとやらを眺めていると、また頭の先から声がやって来る。


「ああ、いいかも……」


 声に反応して視線を上げると、その女子は、いつの間にかスマホのレンズをこちらに向けていた。


 状況が摑めなくて当惑していると、カシャッ、とスマホから音がする。

 数瞬なにが起こっているのかわからず茫然としていると、「ちょっと、ミキだけずるい」とか「私も撮るー」とか、それまで近くで談笑していた女子まで懐からスマホを取り出して、同じようにレンズを向けてきた。


 頭で理解するよりも速く、あたしは身を引いていた。


 いやいや、いやいやいや。これはさすがにダメでしょ。勝手に他人の写真撮るとか。


 周りの女子たちは、なぜか楽しげに撮影会を始めている。被写体をあたしとして。


「ちょ、ちょっと、やめて……」


 あたしの声は届きそうになかった。


 集合体に粒子が合流していくように、あっという間にあたしの周りはフォトグラファーのお面を被った野次馬でいっぱいになった。もうトラウマものである。


 接客するための客がまったく来ないせいで、抜けだそうにも抜けだせない。そもそも、蜂蜜キャラメルなんてものが売れるかもさだかではない。


 身動き取れずに困り果てて、撮影会も止められず来るはずもない助けを求めて視線を上げると、集合体の少し外で立ち尽くしているくるみの姿を発見した。いつの間にいたのかわからなかったけれど、くるみにしてはタイミングはバッチリだ。気づいてもらえるように上に手を伸ばす途中で、あたしはその手を止めた。


「くるみ……?」


 跳ねる女子たちの頭の向こうに見えるくるみの顔が、ぐしゃりと歪んでいる。不愉快そうに眉をひそめ、その瞳には赤々とした火が燃えるようだった。


 珍しい。


 そう思うほど、彼女のそんな表情をあたしは見てこなかった。


 ふらっと動き出したくるみは、迷いなくこちらに近づいてくる。集合体を搔き分けて、あたしのすぐ目の前で停止した。

 取り囲んでいた女子たちは、撮影を取り止め、ぽかんとした表情でくるみの様子を見守っていた。あたしもその一人になる。


 俯くくるみの手が、おもむろにあたしの腕を摑んだ。その細い指に力が加わり、いきなり手前に引かれる。あたしの身体は、何度もブレーキを踏むようによたよたと前に進み出る。


「ちょっと……、くるみ?」


 もう一度彼女を呼んでみるが反応はない。あたしは無抵抗のまま、くるみに腕を引かれて教室を出た。ちらっと教室内を覗くと、不思議そうな顔の女子たちがあたしの目に映る。何やら思案するように小声で話し合っていた。

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