第2話

 さっきも言ったけど、あたしたち姉妹にとって、今日のような日曜日は特別な日にあたる。

 それは家族内だけで決められたルールのようなもの、と思ってくれて間違いはない。

 だから、あたしが苦手な特別な日、たとえばハロウィンやクリスマス、お正月――はちょっと違うけど、直近のイベントでいえばその辺りとは別枠に分類されるのが、この日曜日だった。

 ただ三人でどこかへ遊びに行く。それだけの、普通の家庭となんら変わりない日常の風景が、あたしたちの目には違って見えているはずだった。少なくともあたしには。

 そんなに深く考えているのに、忘れかけていたのかと咎められればぐうの音もでないけど、それにはそれ相応のわけがある。そして、そのわけとやらを話そうものなら、また冒頭に戻らなくてはならなくて、面倒くさがりのあたしは、店員さんが運んできたホットケーキと真っ正面から向きうことに決めるのだった。目を逸らしたわけでは決してない。


「ごゆっくり」


 丁寧にお辞儀して女性店員さんが離れていく。


「ありがとうございます」


 と店員さんの背中に律儀にあいさつするのは、妹の役目だった。

 ちなみに先頭で入店したのも妹で、注文も妹が伝えていた。真面目というよりも、しっかり者という印象の方が強く感じられる。


 目の前には、光沢のある綺麗な焼き目がついた少し厚みのあるホットケーキが三段分積まれて、純白のお皿に鎮座している。天辺には底が溶けかけたバターに、上から蜂蜜がかけられていて、醸し出される上品さは家で作るものとは別のものだと思い知らされる。机には予備のバターと蜂蜜も置かれているが、これを使うのは姉くらいだった。


 それぞれがカチャカチャとフォークとナイフを使って、ホットケーキに手をつけはじめる。

 あたしもホットケーキの一片を口に運んで咀嚼した。まだ温もりが残るホットケーキはふわふわで、口内の熱で溶けていくバターと濃厚な甘さの蜂蜜が、あたしの心を幸せで満たした。

 それほど甘いものが得意でないあたしでも、ここのホットケーキは甘さ控えめで好きだった。


 隣に座る妹は、口をもごもご頬を膨らませて舌鼓を打っている。


「ちょうどいい甘さだね」

「うん」


 同意すると、正面の姉が不満そうな声を漏らした。


「私としてはもっと甘くてもいいかなー」


 そう言いながら、追加で蜂蜜をダバダバかけていた。ホットケーキ全体がベトベトになって、最早蜂蜜漬けと化していた。


「お姉ちゃんは昔から極度の甘党だよね」

「えー、そう?」

「スズちゃんも思うもんね」


 妹が「でしょ?」と目を向けてくる。


「そうだね」


 そのまま姉の姿を思い返してみる。

 このあいだも綿菓子やらチョコやら、まとめて食べてたし。考えただけでも胃が持たれる。

 あたしは胃の辺りに熱いものを感じていた。たぶん蜂蜜のせいだろう。


 根っからの甘党な姉は、ぶつぶつ言いながら、それでもタプタプのホットケーキを頬張った。「うーん、おいしぃ」と何口か毎に喜色満面で感想を吐露している。

 普段は姉御風を吹かせた落ち着いた風情を見せていて、そちらの姉も姉っぽくていいと思うけど、こういう力の抜けた表情もまた姉らしい。あたしとしては後者の姉が断然好きだった。

 微笑みが天使のようで、って言うと姉は機嫌を損ねてしまうので目の前では言えないけれど、背の低さも相俟って、なかなかいい譬えじゃないかと自画自賛していたりする。


 そんな姉がホットケーキを食べ終えて、べたついた皿を未練がましく眺めていると、何かを思い出して蜂蜜が入っていた容器を手に取った。


「そっか……。懐かしいな」


 容器の底になにかあるのか、覗き込んだ姉の瞳は、どこか遠くの郷愁に焦点が合っているようだった。やわらかく目が弧に曲げられて、自然と笑みをこぼしている。姉の表情筋は、無意識と密接に繋がっているらしい。


 あたしの隣でフォークを皿の上に置く音がする。満足そうなため息のあと、妹は、容器を弄んでいる姉の前で小さく手を振った。


「おーい」


 と呼ぶ声に、姉ははっとする。


「どっか行ってたよ」

「ああ、ごめんごめん」


 条件反射で謝罪の言葉が姉の口から出てくる。それでも、意識はまだ虚ろに回顧しているようだった。


「なんか思い出してたの?」


 気になっていたことを、妹が代わりに訊いてくれる。

 あたしの視線に気がついたのか、妹は眉尻を下げて苦笑めいた笑みを向けてきた。


「ん? ちょっとねー。蜂蜜だなーって思ったから」

「どういうこと?」


 妹の質問に姉は意外そうな顔をした。


「あれ、覚えてない?」

「何を?」

「――あっ、そっか。覚えてないのも無理ないかも。みんな小さかったし」


 数瞬の間があって、勝手にひとりで納得している。何を思い出していたのか興味が湧いたのは、あたしが思い出せない甘く味付けされた思い出に、なにかしら関係があるのかもと思ったからかもしれない。


 もったいぶらずに教えてよ、と妹のせがむ声に、あたしも同じ方向の感情を乗せていた。


 ことん、と容器を机に置いた姉がにこにこしながら、

「昔ね――」と語り始めようとした直後だった。


 タイミング悪く、携帯の呼び出し音が小さく響いた。


 ワンコールを三人で耳を澄まして聞くと、機械音とともに、あたしのズボンのポケットが震えていることに気がついた。


「あたしだ」


 ふたりに知らせて取り出した携帯は無感情にあたしを呼んでいる。ライトアップされた画面には、お母さん、と書かれていた。


 妹があたしの携帯を覗き込んでくる。


「なにか用かな」

「さぁ」


 電話に応答すると、スピーカーの向こうから嫌に甘ったるい声がしてくる。


『もしもし、スズちゃん?』

「そうだけど、どうかした?」

『ちょっと頼みたいことがあってね』


 その瞬間、ああ、面倒くさそうだ、と思ってしまう。

 嫌な気持ちが表情に表れていたのか、心配そうな二人の顔があたしに近づいてくる。

 どうってことないと伝えようと小さく首を振って訴えかけると、意味を理解してくれたのか、同時に座り直し、机の飲み物に手を持っていった。息合ってるなと思いながら、母に続きを促した。


『お夕飯の買い出しもついでにしてきて』

「えー、買い出し? てか、ついでって……」

『お金は後で返すから』


 当たり前だろ。ただでさえ所持金が少なくなる未来が予定されているのだから。


 肩を叩かれて隣を見ると、妹は口パクで「わたしたちなら大丈夫だよ」とゆっくり言ってきた。どうやら二人とも買い出しに付き合ってくれる所存らしい。


 それならば、と思って、あたしは母の方へ意識を向けた。


「わかった。それで、なに買ってきたらいいの?」

『今日は久しぶりに肉じゃがにしようかと思ってー』


 母は容易く十日前の夕飯のことを久しぶりと言い表した。この具合だと、「この前」は昨日で、「昨日」は一、二時間くらい前のことになってしまうのではないかと、母の頭を少し心配する。

 まあいいか、と思って承諾すると、「よろしくー」と若干弾む母の声が聞こえて電話が切れた。悦に入るのも当然だ。なんたって、一回分買い物で外に出ることがなくなったのだから。世の中楽ができればなんだって嬉しいものである。


「と、いうわけです」


 携帯をポケットにしまうと、姉が意気込むように声を張った。


「よし! じゃあサクッと系の美味しいものを追加でたくさん買おう」

「加減しなよ、お姉ちゃん」


 はいはい、と姉が軽く返事をしたのを機に、そろそろ喫茶店を出ようかとなる。そこで持ち上がるのは、当たり前だけど会計の話だ。出番が回ってきて、二人の出方を観察する。


「お会計はいつも通り割り勘でいいよね」

 と妹。


「そだねー」

 と姉。


「ちょっと待って」

 とあたしが、まとまりそうな話に水をさした。


 ふたりの目がこっちに注目して、あたしは自分の腿を二回ポンポンと打つ。そこには平たい財布が入っていた。


「今日はあたしが持つよ」


 中腰のままの妹が怪訝な表情を向けてくる。


「どうして? それはルール違反になっちゃうよ」


 ねえ、と同意を求める声の行く先に視線を動かすと、姉は少し困り顔で小さくうなずいた。


 あたしたちの関係には定められたルールが昔からある。どれも断固として守らなくてはいけないものでもなく、破ったら破ったでそれほど咎められることはない。ルールというのは守るのがベストだとあたしも理解している。

 けれど、今日ここまで来た経緯を省みると、ここはそのルールを破ってでも気持ちを形として二人に伝えておきたかった。


「ルール違反はダメだと思ってるよ。でも、今日だけはあたしに払わせて」

「ダメだよ、スズちゃん。それはできないよ。そういう風にみんなで決めたんだから」


 まあ、そうだよな、と妹の意見を聞いてあっさりと納得してしまう。

 しっかり者の妹だからこそ、その言い分には説得力みたいなものが付加される。

 どちらかと言えばルーズなものの見方をする姉やあたしとは違い、約束事を厳守する性分の妹は、そういう曖昧さに気難しいところがある。あたしたちがまだ小学生の頃も、決めていたルールを破った時は手がつけられなくなるほど怒っていた。


 それだけ繋がりを大切にするのは彼女の人となりが色濃く反映された長所でもあり、その反面、融通の利かなさがあたし以上であることが大きな問題でもあった。

 そんな時に間を取り持つのは、あたしでも両親でもなく、姉だった。


「お姉ちゃんもそう思うでしょ?」


 机に身を乗り出しそうなほどの勢いで、妹は姉を見る。


「ううーん……」となにかを考えるように目を瞑って、しばし唸り続けていた姉は、パチッと長い睫毛に縁取られた双眸を開いた。


「まあ、スズちゃんにはスズちゃんの気持ちがあるからね」

「でもお姉ちゃんそれだと」


 まくしたてるような口調の妹を、まあまあ、と制し、姉はこちらを向く。

 その頬がわずかに持ち上がり、目が細められる。

 天使の笑みと形容するに値する、そんな笑顔が場を和らにする。


「今日だけスズちゃんの言う通りにしようよ、ね。スズちゃんはそれでいいんだよね?」

「……うん」


 返事をするのに少しためらってしまう。妹の横顔が不満気に歪められていて、小学生当時の記憶が蘇りそうになる。

 その中に、あれ? と引っかかりを感じたけれど、声に出さないように口を噤んだ。


 不機嫌を絵に描いたような表情の妹は、釈然としない感じではいたけれど、少しの沈黙のあと、人が変わったように声色を明るく変えた。


「わかった。でも今日だけ。いくらお姉ちゃんとスズちゃんの頼みでも、今日だけ特別にだから」

「ありがとう」


 あたしは、ぽんぽんと妹の頭を撫でる。されるがままの彼女に感じるのは、やはり愛おしさだった。どんなに杓子定規なところがあっても、妹は妹なのだ。


「よし! じゃあ次行ってみよう!」


 溌溂とした姉の声が空間に響いた。


「じゃあ先にお店から出てるね、スズちゃん」

「うん。ちょっと待てて」


 ふたりが並んで先を歩いている光景を見て、ふと考える。


 ルールを破るということは妹にとって特別なんだ、と。

 あたしが嫌いな特別を、あたしは家族に押しつけてしまっている。とてつもなく身勝手な意見に、自己嫌悪にも陥りそうになる。そんなあたしの姿を、姉も妹も望んではいないだろうけど、もしもの話が頭をもたげた。


 あたしは特別を受け入れてはいけない。今より先に、そんな未来がないことを祈りたい。

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